第10回本屋大賞の発表が、20日に行われ、大賞に沖方丁の「天地明察」に決まりました。
沖方さんのインタビューが赤旗日曜版に掲載され、「天地明察」を一気に読みました。
歴史小説は複雑になりがちですが、とても読みやすく、主人公の「春海」の栄光と挫折に心が躍りました。
それでいて、時代背景の描写が明確であり、とても深い内容が含まれた作品です。
作者の沖方さんはまだ30代。これからの作品の広がりに大いに期待できます。
今後とも注目して行きたい作家の一人です。
本屋大賞は、「全国書店店員が選んだ いちばん!売りたい本」がキャッチフレーズで、今回も1157人の書店員がエントリーし大賞を決めました。
公平・公正な選出方法で、信頼がおける表彰です。
過去の大賞作品は名作揃いで、今日の読書界をリードする表彰の一つだと思います。
今後とも本屋大賞受賞作にも注目していきたいと思います。
今回のエントリー作品の中では、三浦しをん著「神去 なあなあな日常」も応援していたのですが、おしくも4位でした。
全国の沖方ファンの皆さん、感想をお教え下さい。
水木しげるさんの自伝を読んでいます。終戦直後の昭和20年代後半、水木さんが水木荘を購入し、紙芝居作家としてスタートした場面に、加太こうじさんが登場します。
加太こうじさんの名は、年配の方の多くはご存知だと思います。そう「黄金バット」の産みの親です。
当時、加太こうじさんは、紙芝居界のスーパースターでした。
「水木サンの幸福論」の中に水木さんは加太さんについてこう書いています。
「加太先生が関西に来ると、水木荘に泊め、安い牛肉と砂糖の代用品のサッカリンですき焼きなどをこしらえて、最大級の接待をした。「ブンカ人」的な小難しい説教が多く、遠慮せずにむしゃむしゃ食べるので、ややムッとすることもあった。自慢話が始まるとなかなか止まらないが、のちに評論家に転じる博覧強記の人だから、いろいろなことを教えてくえた。」
実は、私と加太こうじさんとは若干の御縁があったのです。
私が大学在学中ですから、約25年前に加太こうじさんが、わが大学の客員教授に就任されたのです。
授業を聞いた記憶がないのが今では残念です。
加太さんについて「ウィキペティア」で調べてみました。
高等小学校在学中の14歳で紙芝居界に入るとありました。大変な苦労をされた方です。
また、1986年、日本福祉大学教授とあります。
1998年にお亡くなりになられていました。
加太さんには多数の著作があることも分かりました。少し読んでみようかとも思います。
水木しげるさんは、紙芝居作家として行き詰まり、その後、上京します。
「私はゲゲゲ」には、東京について、まず、加太こうじさんの所にあいさつに行ったとあります。
加太さんから「貸本漫画業界の彗星 相沢先生を紹介された」とあります。
水木さんは、貸本漫画にも行き詰まります。その後、漫画雑誌界の寵児となることは、皆さんも御承知の通りです。
加太さんは、時代に翻弄され、苦労続きだった水木さんの下積み時代を影で支えた恩人の一人だったようです。
加太ファンの皆さん、いろいろお教えください。
今日、宇部市民活動センター利用者会議が行われ参加しました。
この中で、平成17年度に発足して以来の利用者数が明らかにされました。
H17年度は、10573人だったものが、H21年度は、15226人でした。
この5年で利用者が1.5倍なりました。
更に、相談件数は、H17年度201件だったものが、H21年度1882件でした。
相談件数は、この5年で9倍になりました。
この日も、会場いっぱいの団体が参加し、団体アピールだけで約1時間に及ぶ熱気でした。
私は、初めて利用者会議に参加しましたが、活気を感じました。この方々で宇部市は支えられていることを実感しました。
後半は、5月5日に行われる新天町子どもまつりの打ち合わせが行われました。
このまつりに市民活動センターの利用者が30団体参加することになりました。
私は、嗚呼満蒙開拓団の映画の宣伝のため参加します。新天町アーケードに小さな売り場を設けます。
子どもまつりにご参加の際にはお立ち寄り下さい。
市民活動センターは民主主義の学校だなと感じました。
様々な団体を繋げるスタッフの方々のご尽力には本当に頭が下がる思いです。
今日はとてもいい勉強になりました。ありがとうございました。
NHKラジオでピアニストの川上ミネさんが紹介されていました。
彼女の名前は、一回も聞いたことがありませんでしたが、彼女の生き方に圧倒的な力を感じました。
彼女は、国内の高校を卒業後、ドイツの音楽大学で学んでいました。
突如、スペインに行き、大学で学びながら演奏活動を続けます。
スペインで、キューバ人のジャズピアニスト、チューチョ・バルデスさんの演奏を聞いて圧倒され、今度はキューバに住みます。
その他にも、コロンビア・ボリビア・アルゼンチン・コスタリカ・メキシコ・ブラジル・パラグアイ・ペルーなどを放浪した経験もあるそうです。
今は、スペインと京都を拠点に、世界で演奏活動を続けているそうです。
今年は、スペインで教会を移動しながら演奏会を行う計画があるそうです。
まさに、川上さんは国際人です。そのパワーの源は何でしょうか。
もともとはクラシック音楽の演奏家でしたが、最近は、無国籍・無ジャンルになっているそうです。
早速、あるCDショップに寄って彼女の名前を出してみましたが、在庫はゼロとのことでした。
ほぼ同世代の方でもあり、彼女の活動には今後とも注目していきたと思います。
CDも機会があれば聞いてみたいと思いました。
全国の川上ファンの皆さん、いろいろお教えください。
本日、萩土木建築事務所に出向き、県道明木美東線の改修を要望しました。
まず、明木のメインストリートの舗装の凸凹の解消です。
下水道工事の影響と思われますが、工事の埋め戻し部分が沈下して道路が凸凹になっていました。
県道が凸凹で、通行がしずらい明木のメイン道路
次に、県道の拡幅です。
洲崎橋から樋向橋まで道路が狭隘です。また、樋向橋の中央にクランクがあり改善を求めました。
道幅が狭隘な県道明木美東線
橋の中央にクランクが入っている樋向橋
対応した伊藤次長は、「現地を見た上で、必要な対応を行う」ことを約束しました。
萩市に関する要望がありましたらお寄せください。
水木しげるさんが執筆に参加している雑誌「怪」29号に「宮本常一」が特集されていました。
宮本常一の名前は、郷土・山口県の偉人の一人として度々耳にしていましたが、彼の仕事に関心を持ったのは初めてでした。
この雑誌の中に、彼の資料を所蔵している「周防大島文化交流センター」の事が掲載しれていました。
この建物は星野哲郎記念館の隣だとありました。星野記念館には数度訪ねたことがありますが、交流センターは一度もありません。
今度、ゆっくり訪ねてみたいと思います。連休に、家族で四国方面に行こうかと話していますので、行きかえりに寄ってみようかと思いました。
宮本常一さんの著作は膨大だとあります。生前の昭和42年から刊行が始まった「宮本常一著作集」は、現在50巻を越えているそうですが、完結には程遠く、全業績を網羅するには優に百巻は超えるだろうと雑誌にありました。
宮本常一さんの著作の中の一部は、文庫となり、書店で手に入ります。その一冊講談社学術文庫「民俗学の旅」を読んでいます。
これは、宮本さんの自叙伝のような内容です。宮本さんは、貧農の家に生まれ、苦学しながら柳田国男氏や渋谷敬三氏に師事し、日本を代表する民俗学者として名を残した人物です。
彼が民俗学の道に進んだ背景には、周防大島の風土や父母の影響が大きかったとあります。
「郷土から広い世界を見る。動く世界を見る。いろいろな問題を考える。私のように生まれ育ってきた者にとっては。それ以外に自分の納得のいく物の見方はできないのである。」
例えば、本の中のこのような言葉に心が動きます。
私は、山口県の中山間地域の農家の家に生まれ育ちました。その生い立ちからも彼の言葉が響きます。
同じ郷土にいながら、45歳になってようやく宮本常一さんの著作に触れた私ですが、少しつづその量を広げていきたと思いました。
宮本さんは、自らを「大島の百姓」と称しておられたようです。私は、彼の著作に触れ「宇部の百姓」の端くれとして生きていきたと思いました。
宮本ファンの皆さん、色々お教えください。