今日も、100分de名著「金子みすゞ詩集」。松本侑子さんによるテキストから、引用したいと思います。
西条八十が選者を務める雑誌「童話」。松本さんが全75冊に掲載された入選作品を一覧表にして次のように書いています。
「表を作って気づいた点は、入選者の大半が男性で、女性の常連はみすゞ一人だったことです。そもそも入選者は限られている、みすゞの他は、他に二冊の詩集を出す島田忠夫、東北と北海道で詩を書き続けた片平庸人、戦後も児童文学者として活躍する佐藤よしみ(義美)の名前が目出ちます。選者の八十がつけた順位を見ると、みすゞの詩が初めて載った大正12年夏から大正13年の前半まで、忠夫とみすゞは抜きつ抜かれつの接戦です。二人の詩風はまったく異なるものの、実力は拮抗しています。」
雑誌「童話」で入選を競い合い、二冊の詩集を発行した島田忠夫が戦中どうなったか、松本さんは次のように書いています。
「『童話』でみすゞと親しかった投稿仲間を調べると、田舎の閑寂な情景をしみじみ描いた島田忠夫は、昭和18年の第二詩集では、別人のように激烈な軍国詩を書いています。たとえば、北太平洋のアッツ島で玉砕した日本兵を勇壮な神と讃える『島の神々』などです。忠夫は疎開して、詩作と画業に専念しますが、そのために近隣から不審者、スパイと疑われ、警察が連行。自白を迫られて拷問を受け、心身衰弱となり、昭和20年8月、終戦直前に41歳で死亡します。」
松本さんは、戦中の世相とみすゞの詩について次のように書いています。
「子どもが竹槍をかまえ、敵兵に見立てた藁人形を突き刺す訓練をするとき、みすゞの詩『お魚』にある『海の魚はかわいそう』といった、小さな魚の死さえ悼む繊細な心は、軟弱とされました。国家総動員法のもと、挙国一致で戦うとき、みすゞの詩『私と小鳥と鈴と』にある『みんなちがって、みんないい』といった子ども一人一人の個性、異なる考えも否定されます。」
松本さんは、テキストの最後に、みすゞの「このみち」という詩を紹介しています。
このみち
金子みすゞ
このみちのさきには、
大きな森があろうよ。
ひとりぼっちの榎よ、
このみちをゆこうよ。
このみちのさきには、
大きな海があろうよ。
蓮池のかえろよ、
このみちをゆこうよ。
このみちのさきには、
大きな都があろうよ、
さびしそうな案山子よ、
このみちを行こうよ。
このみちのさきには、
なにかなにかあろうよ。
みんなでみんなで行こうよ、
このみちをゆこうよ。
※詩中の「かえろ」は「蛙」です。
松本さんはこの詩についてこう書いています。
「私たちが生きていく人生という道の先に、何があるのか、誰にもわかりません。けれど、この道の先には、大きな森が、大きな都が、すばらしい何かがあろう。今は一人ぼっちでも、この道の先には、仲間がいる、広い世界がある、明るい未来があると信じて、みんなで歩いて行こう・・・。」
松本さんの解説を読んで、みすゞの「このみち」という詩が私の生きる糧となる作品になりました。
みすゞの詩は平和の象徴だと感じます。みすゞの詩の中の繊細な心が軟弱とされる社会、みすゞの詩の中の一人一人の個性、異なる考えが否定される社会が到来しないよう願います。
繊細な心や一人一人の個性や、異なる考えが大切にされる社会の実現を願う一人として、これからも郷土の詩人「金子みすゞ」の詩を学んでいきたいと思います。
「金子みすゞ」の詩を理解する上で、松本侑子さんの「100分de名著 金子みすゞ詩集」は最良のテキストだと痛感しました。
このテキストを一人でも多くの方に読んでいただきたいと思います。
そして、一人でも多くの方に、来週月曜日が最終回(第四回)となる松本侑子さん講師によるEテレ100分de名著「金子みすゞ詩集」を視聴していただきたいと思います。
松本侑子さんの著作からも学んでいきたいと思います。
松本ファンの皆さんお勧めの作品をお教え下さい。
NHKEテレ100分de名著、今月は、「みすゞと雅輔」の著者である松本侑子さんが講師を務める「金子みすゞ詩集」がテーマです。
山口県在住の私としては、「みすゞ」に関連するいくつかの本を読んできました。
その中でも、みすゞの詩を保存し、矢崎節夫氏に渡したみすゞの弟である雅輔の人生を掘り下げ、改めてみすゞの詩の深さを著わした松本侑子さんの「みすゞと雅輔」は、とても感動した作品でした。
松本さんが講師ならばと思い、県内の書店でテキストを探しましたが、山口県であること故に、どこにもありません。
「注文しても増刷の計画はない」と言われ途方に暮れていましたが、「系列店に在庫がある」との書店に出会い、先日、ようやくテキストを手に取りました。
松本さんの解説によって、「みすゞ」を取り巻く複雑な家庭環境が良く理解出来ました。
私が、特に注目したのは、「みすゞの死」を時代背景から掘り下げられている点です。特にジェンダーギャップが激しい時代背景の中で「みすゞの死」が解明されている点に納得しました。
みすゞは1930年(昭和5年)3月に命を絶ちます。
みすゞは、手書きの詩集3冊を弟の雅輔と西条八十に送ったのは、1929年秋です。
松本さんは「小さな詩集でも出してもらえたら・・・という密な願いではなかったでしょうか。(中略)しかし昭和4年秋に送った後、二人から詩集発行の返事はありませんでした。童謡ブームが去って出版社は採算が見込めなかったこと、そもそも女性童謡詩人の評価が低かったことも挙げられるでしょう。詩人の与田準一は『かつてわたしは、日本の創作童謡は、マザア・グウスならぬファザー・グウスだと書きました。童謡運動の代表詩人を始め、(中略)作者たちの多くの作品が、その父親期の所産となっているからです』と『日本童謡集』(岩波文庫)に書いています。つまり、当時、若い父親だった白秋、八十、雨情の本は出ても、母であるみすゞ、さらに同じように童謡詩を多数書いていた与謝野晶子の詩集も刊行されなかったのです。」
昭和初期の時代は、女性は詩集が発行できないというジェンダーギャップがみすゞを死に向かわせた一要因だったと感じます。
みすゞは、亡くなる直前に離婚します。みすゞからかけがえのない娘が奪われます。この辺りを松本さんは次のように書いています。
「離婚後の敬一は、上京。雅輔日記によると、3月3日、敬一と雅輔は都内で会い、娘の療養について二時間、話し合います。戦前の民法では、子どもの親権は父親にのみありましたが、上山家では娘を引き取って療育したいと考えていました。しかし敬一は一人娘と別れることに同意せず、物別れに終わります。雅輔は、相手の言うことにも一理あると日記に書いています。妻から離縁を求め、一人娘もほしいとは身勝手だと敬一は考えていたのでしょう。そして元夫からみすゞに手紙が届き、3月10日に娘を引きとりに来ると書かれていました。その前夜の9日、上山文英堂に戻って暮らしていたみすゞは、娘を風呂にいれた後、睡眠薬を大量に摂取し、翌10日、他界しました。」
娘を奪われることが、みすゞの死の直接の原因だったことが、この文章から顕著に読み取れます。
「戦前の民法では、子どもの親権は父親にのみ」というのは、戦前の激しいジェンダーギャップです。
母子で暮らすことが許されないというジェンダーギャップが、みすゞを死に追いやった一要因だったと感じます。
更に、当時の時代状況について、松本さんは次のように書いています。
「この年、昭和5年は、世界恐慌が日本に波及して大不況となり、厭世的な世相となり、自殺者が急増、1年で約1万4千人が命を絶ちます。」
大不況と戦争に向かうという厭世的な世相がみすゞを死に追い詰めた遠因であったと感じました。
再び、今、厭世的な世相が存在しているのではないでしょうか。
パンデミックによる不況と雇用不安によりとりわけ女性の自殺者が増えています。
みすゞが生きた時代のジェンダーギャップの多くは解消されていますが、未だに、多くのジェンダーギャップは解決されておらず、現在の女性を苦しませ続けています。
ジャーナリストの伊藤詩織さんが山口敬之・元TBSワシントン支局長から性暴力を受けたととして1100万円の損害賠償を求めた訴訟の控訴審判決が昨日、東京高裁でありました。中山孝雄裁判長に一審の東京地裁判決に続いて「元支局長が伊藤さんの同意がないのに行為に及んだ」と認定。治療関係費として2万円余りを増額した計約332万円の支払いを元支局長に命じました。この判決は、ジェンダー平等への追い風になるものだと感じます。
「みすゞの死」の背景について、松本さんが書かれたテキストから学びながら、ジェンダーギャップが解消される社会の実現を願っていました。
昨日、「山口県新型コロナウイルス感染症対策本部」第34回本部員会議が行われました。
今月末まで岩国市と和木町を措置区域としてまん延防止等重点措置が適用されていますが、措置区域を全県に広げて、期間延長を国に要請する方針が確認されました。
飲食店への営業時間短縮要請期間は、2月1日から20日までです。
対象業種は、食品衛生法に基づく営業の許可を取得している飲食店・喫茶店(テイクアウト等を除く)です。
「やまぐち安心飲食店」は、①5時~21時までに短縮(酒類の提供は11時~20時)②5時~20時までに短縮(酒類の提供不可)※事業者が①か②を選択
認証店以外の飲食店・喫茶店は、20時までに短縮(酒類の提供不可)
協力金は、売上高に応じて3~10万円/日※「やまぐち安心飲食店」で酒類提供の場合は、売上高に応じて2.5~7.5万円/日
国の「事業復活支援金」とは別に、売上が大きく減少した県内全域の中小事業者に対して事業継続の支援金を支給(協力金の対象事業者は対象外)※2月の売上が30%以上減少、法人:20万円 個人:10万円
県方針の詳細は、後日、報告します。県のホームページでご確認ください。
今日、国の基本的対処方針分科会での了承が得られれば、政府対策本部で正式決定する見込みです。
来月からまん延防止等重点措置区域が全県に拡大されます。
この問題に対する皆さんのご意見をお聞かせ下さい。
今日も、笠原十九司著「憲法9条と幣原喜重郎 日本国憲法の原点の解明」から引用します。
笠原さんは、「人類を滅亡から救うための唯一の道が、核兵器の全面禁止であり、その先駆となるのが、憲法9条による日本の軍備全廃であると言うメッセージである」とし、次のように書いています。
「世界の歴史の流れは、幣原が『今から百年後には、われわれは預言者とよばれるに至るでありましょう』と語ったとおり、憲法9条にこめられた核兵器廃絶の平和思想が紆余曲折を経ながらも現実味を帯びてきていることを証明している。」
幣原が、衆議院議長時代に秘書の役割を果たしていた平野氏へ憲法9条制定の経緯や想いを語った「平野文書」には、幣原の「今から百年後には、われわれは預言者とよばれるに至るでありましょう」という文書はありません。
幣原は、「平野文書」の中で、「1946年の1月14日」にマッカーサーに合い、憲法9条の内容を語ったと記述されています。
マッカーサーは、幣原喜重郎が亡くなってから公然と、幣原が憲法9条をマッカーサーに提案したことを話すようになりました。
幣原の「百年後には、われわれは預言者とよばれる」の言葉は、「平野文書」ではなく、「マッカーサーの証言」の中で、幣原と会った時に幣原が述べた言葉として記録に残っていると笠原さんは、紹介しています。
1955年1月27日付のニューヨーク・タイムズは、マッカーサーの75歳の誕生日を祝賀した集会で語った内容を次のように報じています。
マッカーサーは、この集会で幣原と面会したときの幣原の姿と発言をこの集会で次のように語っています。
「日本の賢明な幣原老首相がわたしのところに来られて、日本人自身を救うには、日本人は、国際的手段として戦争を放棄すべきであることを強く主張されました。わたしが賛成するごと、首相は、わたしに向かって『世界はわれわれを嘲笑し、非現実的な空想家であるといって、ばかにすることでしょうけれども、今から百年後には、われわれは預言者とよばれるに至るでありましょう」と言われた。
「マッカーサー大戦回想録」の中でもマッカーサーは、「幣原男爵は1月24日の正午に、私の事務所をおとずれ」と書き、「私の事務所を出る時には感きわまるといった風情で、顔を涙でくしゃくしゃにしながら、私の方を向いて『世界は私たちを非現実な夢想家と笑いあざけるかも知れない。しかし、百年後には私たちは預言者と呼ばれますよ』といった。」
幣原がマッカーサーの事務所を訪ね、憲法9条について提案したのは、1946年1月24日、それから76年経過しました。
米科学誌「ブレティン・オブ・ジ・サイエンスティスツ」は20日、世界の終わりまでの猶予時間を象徴的に表す「週末時間」の針について、人類滅亡を示す午前0時まで100秒で据え置くと発表しました。2020年過去最短の100秒に設定され、昨年も据え置かれていました。同誌は声明で「核兵器や気候変動、破滅的なテクノロジー、新型コロナウイルスが引き続き危険な脅威をもたらしている」「(針の据え置きは)国際安全保障状況が安定したという意味ではなく、むしろその逆で、世界が極めて危険な状況から抜け出せていないことを示している」と警鐘を鳴らしました。
一方、核兵器禁止条約が発効してから22日で1年を迎えました。現在までに同条約を批准した国は59カ国に達し「核兵器のない世界」を目指す流れは大きく発展しています。
幣原がマッカーサーに合い9条を提案して「百年後には、われわれは預言者と呼ばれる」と語った100年後まで、残り24年です。
これ以上、終末時計を短くしないためには、核兵器禁止条約を批准する国を更に増やし、四半世紀後には、全ての国が核兵器禁止条約を批准する状況を作ることではないでしょうか。
そうなると、幣原とマッカーサーは、核兵器のない世界を実現させた本当の「預言者」となるでしょう。
憲法9条を持つ日本は、アメリカの傘の外に出て、核兵器禁止条約を批准すべきです。せめて、3月の第一回締約国会議にドイツ同様、オブザーバー参加はすべきです。
改めて、岸田首相に「平野文書」「マッカーサー大戦回想録」(日本国憲法部分)に目を通していただくことを強く求めたいと思います。
核兵器禁止条約が発効して1年が経過しました。
皆さんの想いをお教え下さい。
今日は、再び、笠原十九司著「憲法9条と幣原喜重郎 日本国憲法の原点の解明」を紹介したいと思います。
今日、紹介するのは、幣原が1949年に衆議院議長に就任したとき、衆議院議員として幣原衆議院議長の秘書役を務めた平野三郎が、1951年2月下旬に幣原邸を訪れた際の内容をまとめた「平野文書」についてです。
先日、紹介した伊藤真著「やっぱり9条が戦争を止めていた」で、伊藤さんは、国連憲章にもない9条2項が、「9条の最大の特徴」と指摘しています。
1945年6月に国連憲章が制定されました。その1年5カ月後の1946年11月に日本国憲法が制定されました。
昨年の第66回日本母親大会IN沖縄での記念講演で仲山忠克弁護士は、「国連憲章制定から日本国憲法制定まで1年5カ月間あるのですが、その間に人類は史上初の原爆被害を体験することになりました。このヒロシマ、ナガサキの原爆被害こそが、日本国憲法を戦争消滅化へ昇華せしめた根本的な原因であります。原爆を経験しない国連憲章と決定的違いがここにあるのです。」と指摘し、幣原喜重郎の「平野文書」から次の言葉を引用しています。
「たしかに今までの常識ではこれはおかしいことだ。しかし原子爆弾というものが出てきた以上、世界の事情は根本的に変わってしまったと僕は思う」「世界は真剣に戦争をやめることを考えなければならない。そして戦争をやめるには武器を持たないことが一番の保証になる」「非武装宣言ということは、従来の理念からすればまったく狂気の沙汰である」「要するに世界は一人の狂人を必要としている。何人かが自ら買って出て狂人とならない限り、世界は軍備競争の蟻地獄から抜け出すことは出来ない。これはすばらしい狂人である。世界史の扉を開く狂人である。その歴史的使命を日本が果たすのだ。」
笠原さんは、幣原の言葉を綴った「平野文書」を引用した上で、幣原が9条を草案した想いを「世界核戦争を防止し、人類を滅亡から救うための唯一の道が、核兵器の全面禁止であり、その先駆となるのが、憲法9条による日本の軍備全廃であるというメッセージである。」と書いています。
笠原さんは、ケン・ジョセフ・ジュニア、荒井潤著「KENが『日本は特別な国』っていうんだけど・・・ 憲法シミュレーションノベル」(トランスワールドジャパン 2017年)から次の部分を紹介しています。
「幣原が憲法9条に託した平和思想は、(中略)『平野文書をユネスコ世界記憶遺産』に登録して『シデハラさんを世界に知らせよう』という運動に継承されている。
更に、笠原さんは、「核兵器禁止条約」の制定は「憲法9条にこめられた核兵器廃絶の平和思想」が「現実味を帯びてきていることを証明している」と書いています。
私は、笠原さんの本で引用された「平野文書」を読み、「平野文書をユネスコ世界記憶遺産」に登録をという意見に賛同します。
「平野文書」の中での幣原の言葉に、私は、赤ペンでびっしり線を引いていました。
首相まで務めた保守政治家の幣原喜重郎ですが、「平野文書」にある日本が非武装宣言を行い世界の軍拡競争の蟻地獄から抜け出す歴史的使命を果たそうという幣原の平和思想には大いに共感し、大いに勇気をもらいました。
笠原十九司著「憲法9条と幣原喜十郎 日本国憲法の原点の解明」は、私の座右の書の一つとなりました。
この本を「敵基地攻撃能力」をこの国に位置付けようとする岸田首相に読んでいただきたいと思いました。
9条2項は、核兵器廃絶の願いの結晶だということが分かりました。
引き続き、憲法9条をしっかり学んでいきたいと思います。
皆さんの9条に対する想いをお教え下さい。
憲法に関する本の紹介を今日もさせていただきたいと思います。
今日紹介する本は、弁護士であり、伊藤塾長の伊藤真さんの著作「やっぱり9条が戦争を止めていた」です。
その中から、日本国憲法の第9条と国連憲章との違いを述べた部分を紹介します。
まず、伊藤さんは、9条1項についてこう解釈します。
「9条1項では、戦争を放棄しています。(中略)ただ、戦争の放棄には、『国際紛争を解決する手段としては』という条件がついています。これは憲法学の通説では、『侵略の手段』と読むことになっています。つまり一項は、侵略戦争を放棄する趣旨の規定なのです。侵略戦争の放棄は、現代世界ではもはや常識に属するルールです。侵略戦争の放棄を含めて、なんらかの平和条項を持っている国は世界で120カ国以上あります。同じ内容は、国連憲章にも定められています。国連憲章第2条4項は、加盟国が武力による威嚇と武力の行使を行わないよう義務付けているのです。フランス革命直後にできたフランス最初の1791年憲法にすら、侵略戦争放棄の条項はありました。別に目新しいことでも何でもありません。一項だけでは、9条に独自性はないのです。」
伊藤さんは、9条の最大の特徴は、2項にあると次のように述べています。
「9条の最大の特徴は、『陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権はこれを認めない』とする二項です。自衛戦争を含めた一切の戦争を放棄しているからです。戦力を持たないから、たとえ自衛のためであっても戦争は一切できません。また、戦力を持たないから、戦争する権限を国に認めていません。それが、二項の定める『戦力の不保持』、『交戦権の否認』という内容であり、9条の本質は、平和3原則の第二、第三を定めたこの二項にあるのです。軍隊を一切持たないと宣言しているのは、先進国では日本ぐらいのものです。これはある意味で非常識かもしれません。しかし、非常識を百も承知の上で、あえてこうした規定を置いたのです。」
伊藤さんは、憲法9条は「積極的非暴力平和主義」だと次のように説明しています。
「軍隊を持たないからといって、自分の国、一国だけが平和であればよいという考えでよいのでしょうか。これは『一国平和主義』と言われます。日本国憲法は、これとは対極の考えを平和主義の基本に捉えています。私はこの考えを『積極的非暴力平和主義』と呼んでいます。これを示しているのが、憲法前文第二段の『われらは、平和を維持し、宣誓と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ』という部分です。」
伊藤さんは、国連憲章にも明記されていない、9条の最大の特徴は、軍隊を一切持たないと宣言した二項にあるとした上で、その特徴を「積極的非暴力平和主義」と表現しています。
この間、日本国憲法9条のことを学ぶ中で、9条は世界の宝だとつくづく感じるようになりました。
引き続き、日本国憲法9条を学んでいきたいと思います。
9条に対する皆さんの想いをお教え下さい。