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「空母艦載機厚木から岩国移転 ことし後半」と報道

 今朝の中国新聞は、「在日米海軍司令部は、5日、在日米軍再編に伴う米海兵隊岩国基地(岩国市)への米海軍厚木基地(神奈川県)の空母艦載機移駐が『ことし後半に開始される予定』と発表した。」と報じました。

 更に、中国新聞は、「在日米海軍は、同時に、E2Cの後継機で、日本で初めて運用されるE2D5機を2月初旬から岩国基地へ配備すると表明した。米国から別の空母で運び、2~3カ月間訓練するという。」と報じました。

 朝日新聞は、E2Dの訓練開始について「ただ、地元自治体が移駐計画を容認していない段階で、移駐を前提とした訓練をすることは『先行移駐』との見方もある。福田市長は『国からの説明では機種更新に伴う米軍の運用の一環で、先行移駐ではない』との認識を示した。知事も『期間を区切っての訓練』とみて、『一時的なものと受け止めている』と述べた。」と報じています。

 岩国市も山口県も空母艦載機部隊の受け入れを認めた訳ではないと県民・市民には説明しています。

 E2Dは、空母艦載機部隊の戦闘機の後継機で、その飛行機が岩国基地で訓練をすることを容認することを山口県と岩国市が認めてはならないことは当然です。

 私が、本ブログで度々指摘していますが、山口県も岩国市も、米軍再編はパッケージであり、普天間基地移設の見通しが立つ前に空母艦載機部隊の岩国移駐のみを切り離すことは認められない=先行移駐は認められないといる基本スタンツを県民・市民に示しています。

 そもそも、普天間基地の辺野古移設が見通せていない段階で、今年後半から空母艦載機の岩国移駐を開始するという在日米海軍司令部の発表については、山口県と岩国市は厳しく抗議すべきだと思います。

 読売新聞は「政府は硫黄島(東京都)で実施している艦載機の離着陸訓練を岩国基地では恒常的に行わない方針を説明することなどで、受け入れ容認の環境を整えたい考えだ。」と報じました。

 2005年10月の日米安全保障協議委員会「中間報告」と2006年5月の同「最終報告」では、「空母艦載機の陸上着艦訓練(FCLP)の恒常的な施設を、2009年までに、岩国から100海里以内に設ける。」とされています。

 陸上離着陸訓練が、岩国から100海里以内に設けられないままでは、岩国基地での艦載機の離着陸訓練が頻発に行われる可能性が大きくなります。

 現在でも硫黄島で訓練が出来ない場合の予備訓練場所として岩国基地が指定され続けてきました。

 空母艦載機が岩国基地に移駐した場合、硫黄島での訓練が困難として岩国基地が予備訓練施設としての指定が増加することが予想されます。

 山口県と岩国市は、岩国基地での夜間離着陸訓練の実施は認められないことを県民・市民に明らかにしています。

 岩国基地周辺での訓練施設が建設される前に、硫黄島で訓練を行うとの説明だけで、空母艦載機部隊の岩国移駐を受け入れてはならないと私は考えます。

 総じて、空母艦載機部隊の今年後半からの岩国移駐を開始することは、県民・市民への裏切りと言わなければなりません。

 山口県と岩国市は、これまでの基本スタンツを堅持し、現時点での受け入れはきっかり拒否すべきです。

 空母艦載機の岩国移駐をことし後半から開始することを在日米海軍司令部が昨日表明した模様です。

 皆さんのご意見をお聞かせ下さい。

圓尾博之さん

 昨年最後のしんぶん赤旗日刊紙の「ひと」の欄に、日本福祉大学の同級生「圓尾博之」さんが紹介されていました。

 私と同じサークルの友人と同じ下宿で、友人を通じての何度か話しをしたことを覚えています。

 圓尾さんは名前の通り、いつも私に笑顔で接してくれました。

 笑顔の向こうに、勉強熱心な芯の強さを感じたことを思い出します。

 圓尾さんは、全国障害者問題研究会の新事務局長です。

 しんぶん赤旗のインタビューの最後に圓尾さんは、「障害のある人とかかわるときには、元気をもらったり、何かをしてあげたりするだけでなく、同じ社会を生きる仲間として手をつなぐことが大切です。」と語っています。

 私は、小選挙区候補になり、マスコミのアンケートで座右の書を問われ全国障害者問題研究会出版、田中昌人・清水寛著「発達保障の探求」と書きました。

 私は、1987年、全国障害者研究会第21回大会に参加してこの本を購入しました。

 この本には、清水寛さんのサインがあり「発達保障は人類の新しい世紀を拓く」と書いてあります。

 全国障害者問題研究会は「すべての障害者の権利を守り、その発達を正しく保障するために、理論と実践を統一した自主的・民主的研究運動を発展させる」ことを目指し活動してきました。

 この本の「序・民主主義の限りない発展のために」に「個人の発達、集団の発展、社会体制の進歩において、平和と民主主義を実現していく課題と結合してすること。」という言葉が出てきます。

 私は、大学時代「個人の発達、集団の発展、社会体制の進歩」この三つの系の統一的発展の重要性を学び、生きる指針を得た思いがしました。

 目の前の障害を持っている子どもに発達してほしい。そのためには、彼を取り巻く集団の発展が必要である。更に、彼らを取り巻く社会体制を進歩させなければならない。私たちは、個人ばかりではなく、集団をはじめ社会体制の発展・進歩のために働きかけなければならない。

 この発達保障論に私は出会って生き方が定まった思いがしました。

 日本福祉大学の同級生である圓尾さんを紹介する記事を読んで、大いに励まされ、自分の原点を思い起こしました。

 圓尾さん、これからもまっすぐに「障害のある人と、同じ社会を生きる仲間として手をつなぐことの大切さ」をこの日本に根付かせるために頑張ってください。応援しています。いつか又お会いできる機会があれば幸いですね。 

「隠れ共産党」宣言

 今日行われた「2017年新春旗びらき」の挨拶で、日本共産党志位委員長は、「『隠れ共産党』宣言」を引用しました。

 「『隠れ共産党』宣言」は、12月28日付「農業協同組合新聞」に掲載された地方の眼力というコラムです。

 筆者は岡山大学大学院教授の小松泰信さんです。

 小松教授のコラムを引用します。

 「『農業は、自律的な発展に保障を与えられないまま、(自由貿易化)の嵐にさらされ、食料自給率が発達した資本主義国で最低の水準に落ち込み、農業復興の前途を見いだしえない状況が続いている』と農業の今日的位置を整理し、『国民生活の安全の確保および国内資源の有効な活用の見地から、食料自給率の向上、安全優先のエネルギー体制と自給率の引き上げを重視し、農林水産政策、エネルギー政策の根本的な転換をはかる。国の産業政策のなかで、農業を基幹的な生産部門として位置づける』と、農業を高く表紙位置付ける政党に、興味が湧かない人はいないだろう。これは日本共産党綱領からの抜粋である。」

 「実は数年前の国政選挙から同党に投票している。自分史における苦渋の決断と言いたいところだが、理由は極めて単純。農業保護の姿勢やTPPへの全面的な反対姿勢などが一致したからだ。」

 「ではなぜカミングアウトしたのか。それは、自民党が変質し、『農』の世界に軸足をおいた人や組織がまともに相手する政党では無いことが明白になったからだ。だからと言って、解党の危機さえ囁かれている体たらくの民進党や名ばかり野党の維新に期待する気は起らない。だとすれば、純粋に農業政策を協議するに値する政党は日本共産党だけとなる。」

 「村社会でも地殻変動の兆しあり。と言うのも、農業者やJA関係者と一献傾けるとき、我が投票行動を酒の肴にお出しすると、『実は…』の人が確実に増えているからだ。『危険思想として擦り込まれてきたが、何か悪いことをしたのですかね。少なくとも農業問題に関しては、真っ当なことを言っていますよ。自民党よりよっぽど信用できる』とのこと。」 

 「政権与党とその走狗である規制改革推進会議に痛めつけられ、真っ当な農業政策を渇望している人が『隠れトランプ』ならぬ『隠れ共産党』となっている。表に出る必要は無いが、堂々と隠れていることを願っての我がカミングアウトでもある。」

 私は、元旦、宇部市の最高峰=荒滝山で初日の出を観ました。暖かく晴天での新年だったこともあり、山頂は、100人を越える方がひしめき合っていました。

 山頂で、「万歳三唱の音頭を藤本さんお願いします」と言われ、「皆さまの今年一年のご多幸を祈念して万歳三唱を行います」と音頭を取りました。

 日本共産党第27回大会決議案は、「『日本共産党を除く』という『壁』は過去のものとなった。この『壁』を取り払ったのは、党と国民、市民の共同したたたかいの力だ」と述べています。

 私は、日本共産党を除くという壁が過去のものとなったことを、農業協同組合新聞での小松教授のコラムと元旦の自らの経験から感じました。

 私も、今日から仕事始めです。小選挙区3区予定候補者として、山口3区内で、党と市民の共同したたたかいを広げに広げていく決意です。

 小松教授の「コラム」への感想をお聞かせ下さい。

「マイマイ新子と千年の魔法」

 「この世界の片隅に」を作成した片淵須直監督の前作「マイマイ新子と千年の魔法」をDVDで観ました。

 「マイマイ新子」の舞台は、昭和30年代の山口県防府市。

 原作者である高樹のぶ子さんは、昭和21年生まれで、防府市出身。「マイマイ新子」は高樹さんの自伝的小説と言えます。

 監督の片瀬須直さんは、「この世界の片隅に」のパンフレットの中で「防府市文化財郷土資料館の館長だった吉瀬勝康さんと『マイマイ新子』のイベントでご一緒したんですが、その時、吉瀬さんがこうの史代さんの絵のついたクリアファイルに『マイマイ新子』の資料を挟んでおられたんですよ。吉瀬さんは実は実写映画版『夕凪の街 桜の国』(07)の佐々部清監督と同じ高校の出身だったので、直前にその関係のイベントにも行っていたようでした。で、『それ何ですか?』と聞いた時に、『この世界の片隅に』を教えてくれて、原作の単行本を手にしました。」

 「マイマイ新子」が「この世界の片隅に」に繋がっていったのです。

 原作者の高樹のぶ子さんは、「『マイマイ新子』を書き終えて」でこう書いています。

 「昭和30年というのは特別な年でした。『もはや戦後ではない』の言葉も生れ、高度経済成長は、この直後から始まりました。テレビ、冷蔵庫などの家電は不急しておらず、交通手段も衣食住も今から思えば貧しいものでしたが、季節の手ざわりや家族の繋がり、生や死を身近に感じながら子供が子供らしく成長できる環境は豊かでした。戦争の傷跡を片手で押さえながら、それでも日本中が遠く高いものに向かって、今にも駆け出そうとしていた時代。達成したい夢や願望、いや渇望は山ほどありました。あそこからの50年間に日本は見事に高度成長をとげました。しかしまた、何と多くのものを失ったことか。」

 私は、昭和39年生まれ、しかし、田舎育ちですし、両親や姉たちからの話しで昭和30代をイメージできるギリギリの世代だと思います。

 原作の「マイマイ新子」に「麦畑に水が引かれ、牛が重い鋤を引きながら土を掘り返し、平らにされる。水田のできあがりだ。」

 私が小学生の頃まで、水田の前は麦畑でした。耕運機は、昭和30年代の中盤以降導入されはじめたようで、私の実家でも、昭和30年代前半までは、牛が鋤を引きながら土を掘り起こしていたようです。

 児童文学者の金原瑞人さんは、「マイマイ新子」の解説で、「子どもたちが自然のなかで、季節のなかで、人々のなかで、時間をかけてゆっくり成長する確かな手応えがここにはある。この小説のなによりの魅力かもしれない。しかし、それを過去のものとしてノスタルジックに描いているのではない。生き生きとした子供像を、失われてしまったものとしてセンチメンタルに描いているのではない。現在も、現実に、実感できるものとして描いている。」と書いています。

 アニメ研究家の氷川さんは、映画「この世界の片隅に」のパンフレットで映画「マイマイ新子と千年の魔法」について「『マイマイ新子』が話題になったとき、『理由は分からないが泣ける』という感想が多かった。それは『わがことのように思える』という手応えが、反射的な涙よりも深いレベルでの情動を喚起したからだ。それは『かつて確かにあった』という現在につながる『地続き感』であり、観客の心に『世界を肯定する力』をあたえたということでもある。」と書いています。

 子どもが子どもらしく生きていた昭和30年を映画「マイマイ新子と千年の魔法」で共感しました。

 共感しながら今「失ってしまったもの」を見つめ直す作業を私の中でしている最中です。

 昭和39年生まれの私自身が今後生きていく上で、また、4児の父として今後生きていく上で、映画「マイマイ新子と千年の魔法」は私に大切なことを教えてくれた作品となりました。

 アニメを勉強している次男もこのDVDを熱心に観ていました。

 これからも片淵須直監督を応援していこうと思います。

 そして、原作者の高樹のぶ子さんも山口県出身の作家として注目していきたいと思います。

 映画「マイマイ新子と千年の魔法」をご覧になった皆さん感想をお聞かせ下さい。

「この世界の片隅に」鑑賞記その2

 今日も、映画「この世界の片隅に」の感想を述べたいと思います。

 映画のパンフレットで、アニメ研究家・氷川竜介さんがこう書いています。

 「本作『この世界の片隅に』には、人の普遍的な『機微』が描かれている。その機微が『地続き感』として、約70年後に生きるわれわれに伝わってくる。それは『この世に生を受けたこと』を見つめなおすことでもあり、大量の情報に振りまわされて消耗しているかもしれない現代の人びとに『生命を吹きこむ』『活気づける』という点で、正しくアニメーションすることでもあるのだ。」

 片淵監督はインタビューで主人公のすずを演じたのんさんとのやり取りについてこう語っています。

 「当初の試行錯誤の中で、彼女(のんさん)が『すずさんの気持ちは表面的には読み取れるんだけど、彼女の内面にある痛みって何ですか?そういうものがあれば教えてください』と聞いてきたんですよ。それに対して僕は、『すずさんは、自分の中身が空っぽであることが表に出るのが恐いんだと思う。けれども、空っぽに見える心の中の部屋にある床下を開けると、すっごい豊富な宝物がいっぱいあることに気付いていなくて、そこがすずさんの痛みというより痛さなんじゃないか。そこにアプローチできるのは、すずさんが右手で絵を描く時だけなんだ』というようなことを答えました。では、その右手が失われた時に、すずさんは自分の心の地下室にあるものを、どうやって外へ出していくんだろう。収録に慣れてきた終盤のシーンのある瞬間、のんちゃんが『この作品はすずさんのモノローグじゃなくて、本当に口を動かして喋っているんですね』と言ってきたんです。『今までのすずさんだったら、絶対口に出して言わないことですよね。でも、ここで言っているということは、それはすずさんが変わったということなんですよね?』とすごく的を得た質問をいっぱい投げかけてくる。」

 すずさんが、「この世界」に生きている「機微」がのんさんを通して、観覧している私たちに届いた作品と言えると思います。

 アニメ研究家・氷川さんは、「本作同様に、太平洋戦争の終戦にいたる時期をメインにした映画は多いが、一派’にネガティブで暗い側面が強調されている。そうすると観客と隔たりのあるものにも見えかねない。しかし確実に実在していた『人と世界』を『生命あるあたえられた柔らかな絵』に置き換えて大衆的な生活にフォーカスすることで、より身近なものとして体感できるのではないか。そんな意欲が本作には感じられる」と書いています。

 氷川さんの「この世に生を受けたこと」を見つめ直す作品との表現に納得します。

 太平洋戦争の末期生活が「確実に実存していた」と感じられる作品との表現に納得します。

 この二つの意味で、「この世界の片隅に」は、これからも生き続ける作品と言えると思います。

 2017年の正月は、じっくり「この世界の片隅に」の世界に浸りたいと思います。

 この作品がこれからの人生の糧となることを確信するからです。

「この世界の片隅に」

 あけましておめでとうございます。

 今朝は、宇部市の最高峰=荒滝山でご来光を仰ぎました。

 午後からは、受験生の三男を自宅に残し、妻と次男と長女と私で、片淵須直監督のアニメ映画「この世界の片隅に」を観ました。

 この数年観た映画の中で私のベストと言っていいほどの映画でした。

 県内では、防府市内の映画館で上映中ですので、是非、一人でも多くの方に観ていただきたい映画です。

 私が一番印象に残ったのは、主人公のすずの嫁ぎ先に、海軍に入隊した哲が訪ねてくる場面です。

 哲がすずに、「すずはこのまま普通でいてくれ」と言います。

 映画のパンフレットで主人公のすずを演じたのんさんが「戦争は怖いという気持ちは今も変わらないです。前は得体のしれないものだから怖かったけど、この作品を通して戦争は普通の日常生活にいきなり入ってきたんだと知りましたし、そんななかでもしっかりと生活をしようとするすずさんっていいなと思いました。」「普通の生活、普通に生きることの大切さに胸をつかまれる作品です。周作さん(すずの夫)との痴話喧嘩やホッとするラストシーンなど、普通の生活を描いているところが私は大好きなので、そこに共感していただければ嬉しいです。」と語っています。

 日常生活にいきなり入る戦争だと分かる作品だからこそ、涙の流れるし、力も沸いてくる作品です。

 私は、この映画を観終わって、憲法12条を思い起こしました。

 「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。」

 戦争で失ったものの大きさを認識し、制定されたのが日本国憲法です。

 私たちの日常を守るためには、私たちの「不断の努力」が必要なのです。

 この作品は、私たちに「不断の努力」を行う力を与えてくれるものです。

 私にとって、これから先の人生に大きな影響を与える作品が「この世界の片隅に」でした。

 私たち家族の絆を深める作品ともなりました。

 最後に重ねてのお願いです。一人でも多くの方に、映画館で観ていただきたい映画が「この世界の片隅に」です。

 原作者のこうの史代さん、監督の片淵須直さん、素晴らしい作品をありがとうございました。

 「この世界の片隅に」をご覧になった皆さん、感想をお聞かせ下さい。