今日、厚南中学校教頭であった高本顕さんの葬儀が営まれ参列しました。再々行く斎場ですが、今日はかつてない多くの参列者でした。高本先生は、30日夜に交通事故に遭われ、31日に帰らぬ人となられました。ご遺族も参列者も突然の死に戸惑うばかりという葬儀でした。
高本先生は、私が、吉部中の生徒だった時にお世話になりました。確か高本先生が先生になられて2校目の赴任地が吉部中だったと思います。全校生徒と教職員合わせて80名程度の学校でしたので、皆、家族同士のような付き合いでした。毎年冬になると学校に臨時の「駅伝部」が出来ました。男の先生は、みんながコーチとなり、分担して指導しておられました。そのお一人が高本先生でした。学校一丸で駅伝に取り組んだ思い出とともに高本先生の若き日のお顔を思い出します。
最近は、高本先生とは、厚南地域の小中学校のPTA行事で度々お会いする仲でした。宇部市の厚東川以西(厚南地域)には、厚南・黒石中学校と西宇部・厚南・黒石・原小学校があります。この6校のPTA役員と教職員が集まり様々な交流をしています。また、厚南中学校に通う厚南・西宇部小学校の3校での交流会も年に数回あります。更に中学校行事にも来賓としてご案内を頂いています。その度ごとに高本先生とはお会いしていました。
今月の16日には、我が西宇部小学校が引き受け校で厚南6校の集まりを持つ予定でした。その時にも先生の優しい笑顔にお会いできるはずでした。それを思うと、とても残念です。
高本先生にとって、私は、30年前の教え子であるにも関わらず、敬語で話していただいたのが、心苦しい思い出となりました。高本先生とゆっくり胸襟を開いてお話しする機会が出来たらよかったと後悔するばかりです。
人生の無常さを感じながら、心より高本先生のご冥福をお祈りしたいと思います。高本先生、私の人生で二度も大変お世話になりました。ありがとうございました。安らかにお眠りください。
昨日、山口県高齢者大会宇部地域実行委員会主催で「後期高齢者医療制度廃止法案の成立を求めるシンポジウム」が行われ、130名の市民が集まりました。
最初に、山口県高齢者大会宇部地域実行委員会の倉本喬会長が「制度の橋に向けて運動を広げていこう」とあいさつを行いました。
パネリストは、国会に後期高齢者医療制度の廃止法案を提出した野党各党の代表が務めました。民主党は、県副代表の三浦のぼるさん。日本共産党は、県国会議員団事務所長の吉田貞好さん。社民党は、県連代表の佐々木明美さん。国民新党は、副代表の自見庄三郎さんからメッセージと資料提供がありました。
まず、民主党の三浦さんは、「敬老精神に欠ける制度。今後の財源として保険方式なら、健康保険の一元化の中での制度整備が必要。税方式なら、当面、消費税の税率は上げずに、配分を変更する中で確保すべき。」と主張しました。
日本共産党の吉田さんは、「この制度は、医療費削減のための制度で、現代版姥捨て山だ。全ての国民には医療を受ける権利がありそれを尊重する対応が必要だ。野党4党の法案については、廃止の一点での国民的共同が必要だ。」と訴えました。
社民党の佐々木さんは、「後期高齢者医療制度と共に、療養病床削減や特定検診の導入がある。これらは、国民の医療費削減を進める動きだ。税金の使い方をチェックして、差別医療をなくしていこう。」と話しました。
参加者から、野党で共同して、街頭宣伝や市長への申し入れをしてほしいというという要望が出されました。各党代表は、要望を実行することを約束しました。
シンポジウム後の各党の協議の結果、「後期高齢者医療制度」の中止・廃止を求める宇部市連絡会が6月13日に行う集会に各党が参加し、その後市長への申し入れを行うことが確認されました。
後期高齢者医療制度の廃止を訴える各党代表
昨日、無事に我が実家の田植えが終わりました。午前8時30分過ぎに実家に家族6人到着すると、叔父が作業をすでに始めていました。家の一番大きな田の田植えはほぼ終わっていました。叔父は、午前7時30分から作業に入ったようです。私は、家の下の小さな田から父が遺した乗用田植え機に乗りました。一年ぶりでレバーの操作を思い出しながらの作業です。何とか思い出した頃、最後の家の横の田へ。ようやく勘を取り戻したところで作業が終わりました。なんと終了時刻は、10時30分頃でした。しかし、田植えにも困難が待ちうけていました。最後の田の畦を機械が乗り越えようとする時、車体が大きく上へ傾きました。叔父が機械の前に乗ってくれて難を逃れることができました。来年度以降も畦をどう乗り越えるかが私に与えられた課題です。
田植えが終わってみんなで休憩を取って、私は作業の終わった田植え機の洗浄。それにしても田植え機は、1年に数時間しか使わないのだということを改めて認識しました。
母と合流した姉と妻と息子3人は、機械が植え残したところに苗を手で植える作業です。末の娘は、口内炎が依然ひどく、畦から妻を恨めしく見つめています。植え接ぎ作業が始まって直ぐに、アマチュアカメラマンらしき人が、みんなにシャッターを向けておられます。その方曰く「手植えは珍しいですから。」と。その方は、基本的には機械植えだったのだということを理解しておられたのでしょうか。ともかくその写真がコンテストで入選したらどうしようかなど、あらぬ幻想で昼の食事時は大いに盛り上がりました。
子どもたちも農作業なのか泥遊びなのか分からないような状況でしたが、楽しく作業が出来たようです。私も事故がなく、今年の田植えを終えることが出来てホッとしています。
今日は、朝から溜まっていた資料の整理と三男の自転車の練習を午前中しました。三男の自転車は今日大きく前進しました。乗れるようになったという段階までは至りませでしたが、10メートル程度は乗れるようになりました。保育園時代でクリアーできなかったので、親は少々焦っていましたが、これもホッとしています。
午後は、後期高齢者問題で野党代表者によるシンポジウムに参加しました。その様子は、明日のブログで報告します。
手前が子どもたち、中央右が我が実家、奥が荒滝山
益田市の診療所で、採血器具の使い回しが発覚したことを契機に、全国でその実態の広がりが明らかになっています。同時に、平成18年3月3日に厚生労働省医薬食品局安全対策課長から都道府県衛生主管部長宛てに出された「採血用穿刺器具(針の周辺部分がディスザブルタイプでないもの)の取扱いについて」という文書の取扱いが問題になっています。通知は、今回問題になったタイプの採血器具を複数人で使用しないように「貴管下医療機関等への注意喚起を図られるようお願いする。」と書かれています。最初に事案が明らかになった島根県では、中国新聞の報道によると「薬事衛生課長が通知を受けたが、健康福祉部のほかの六課と各保健所長への連絡にとどめた。」ようです。
山口県はどうだったのか。私は、数日前に調査を開始し、26日に、県の通知文書を入手しました。これは、平成18年3月8日付けの県薬務課長名によるものです。あて先は、県医師会、県歯科医師会、県薬剤師会、県病院協会、県看護協会、県薬業卸協会、県病院薬剤師会です。私は、正直、「山口県の対応は、島根県よりまし」と安心していましたら、今朝の報道です。山口県は、昨日、県立大学、県立衛生看護学院で、採血器具を学生同士が実習で使い回ししていたと発表しました。県は、身内の県立大学や県立衛生看護学院に厚生労働省課長通知を通知していなかったようです。山口新聞に、県は、「看護師を要請する学校で器具の不適切な使用申し訳ない」と陳謝したと報道がありますが、断じて許されない対応であり猛省が必要です。
島根県では、29日までに、県内57の病院で針の使い回しの実態が明らかになっています。しかし、中国新聞の報道によると厚生労働省課長通知を各病院に直接ファックスしたのは鳥取県だけだったようです。
山口県も上述したように、医療関係団体に通知しただけで、各病院への周知は、まさに「医師会任せ」「伝わるはず」の状況だったことは明らかです。山口県は、今後、県内医療機関など約一六五〇施設に対し独自に実態調査を始めたとのことですが、調査を早急に完了させ、その情報を県民に公開し、その結果、使い回しの実態が明らかなら、該当患者への身体状況の調査と対応に万全を尽くすことが重要です。
私は、引き続いてこの問題の調査と必要な発言を続けます。この問題に対する皆さんのご意見をお寄せください。
一昨日から、長女が、口内の腫れを訴えます。食事もあまり取れません。一昨日は、夜間診療所に、昨日は、小児科を受診。ヘルペスによる口内炎だと診断されました。長女の小さな舌に先に大きな腫れが。本当に痛そうです。今朝も「口が痛い」を連発しています。体重が1キロも減ったそうです。昨日は、妻の病院の診療科が休診だったために、妻が休みを取りましたが、今日は、長女を実家に預けます。食事がしづらいのが親としても可哀相です。来週からは保育園に行けるようになればいいと思います。
次男も微熱で、少々元気がありませんので、今から小児科に行って、長女と一緒に実家に連れていきます。昨日のラジオで、子どもさんが喘息で学校を休んでいるという方の投稿が紹介されていました。気象予報士の方が「低気圧になると子どもは体調を崩しやすくなる」ということをコメントされていましたが、我が家もその通りなので頷きながら聴いていました。
今日は、午前中は、PTAの常任委員会。夜は、校区のコミュニィテー推進協議会の総会です。PTA会長として案内を受けての出席です。私も体調を崩さないように気をつけます。明日は田植えですから。
5月20日発行の現代川柳創刊号が、我が家に送られてきました。私の駄作もいくつか掲載していただきました。編集発行人は、曽我六郎さんです。新子さんの後半の30年を共に生きた方です。
彼の「新子と共に30年」の第一回は、読ませる内容です。曽我さんは、「たいまつ社」の経営者だったのです。我が家に、たいまつ社の本が、3冊あります。「鶴彬全集」「振興川柳選集」「田中五呂八と鶴彬 雪と炎のうた」です。先日、萩市が作成した「井上剣花坊」の冊子が、坂本幸四郎さんの「井上剣花坊と鶴彬」という本の盗作ではないかということが話題になりましたが、「雪と炎のうた」は坂本幸四郎さんの著作です。
これらの本は、後援会の役員のお父さんの蔵書を私がいただいたものです。これらの本は、今度は、私の蔵書の貴重な一つとして大切にしていきたいと思います。
たいまつ社は、「反戦・反権力・平和・民主主義・人権・農民農村の基盤づくりと食料自給率の向上、協同組合運動の強化・・・などの姿勢を共にする人たち」が集まったと曽我さんの文章にあります。
そして、曽我さんの文章は、「鶴彬の反戦句を知って血が騒いだ。短編文芸のなかで最も安んじられ軽んじられてきた川柳を知って血を騒がせた。そうしたおちょこちょいの私の血をさらに騒がせてくれたのが、時実新子という女性川柳家の句集「新子」との出会いでした。」で括られています。
私は、30代前半の時、時実新子さんの川柳入門書で、川柳に出会い、その後、鶴彬を知りました。そして、時実さんが主宰する「川柳大学」に約10年お世話になりました。そして新子さん没後、曽我さんが中心になって創刊された「現代川柳」とともに歩んでいます。ですから、曽我さんの文章には共感できるところばかりです。
次号での曽我さんの新子さんとの出会いの文章を首を長くして待ちながら、当面は、6月10日締め切りの「現代川柳」への投句作品を考えることにします。