現役の内科医である南杏子さんの小説「サイレントブレス」を読んでいます。
この小説は、大学病院から、在宅の訪問クリニックへ「左遷」された女性医師・倫子が最期を迎える患者と格闘する物語です。
最初の患者は、乳癌、二人目は、筋ジストロフィー症、三人目は、胃瘻手術を受けた患者さん。
患者さんの最期は壮絶だけれども、倫子をはじめスタッフな真摯が姿勢に心が清らかになります。
大河内教授が倫子にこのような声かけをします。
「平和な治療だけしているとね、人が死ぬということを忘れがちなんだよ。でもね、治らない患者から目をそらしてはいけない。人間は、いつか必ず亡くなるのだから」
作者の南さんが、本書に関わるインタビューでこう答えています。
「長く医療の現場では、患者の死は『負け』と位置付けられていました。私自身医師として、同じ哲学のもとに病気と闘った時期もあります。その一方で、祖父を介護した経験に始まり、終末期を迎えた多くの患者と向き合いながら、徐々に考えが変わりました。」「死を『負け』と考えるのではなく『ゴール』と考えることで、終末期医療の風景は180度異なってくるはずです。」
私の川柳の師であった故時実新子さんの句に「今ぞ今 死は生きること 生きて死ぬこと」があります。
死ぬ直前まで自分らしくありたいと患者は願います。その願いにそえる医療であってほしいと思います。
私の予想では、本作は必ず映像化されると思います。
主役の医者は、綾瀬はるかさんなどはどうでしょうか。
関係者の皆さんよろしくお願いいたします。
南杏子さんには、現役医師として、生きる力の湧く小説を書いていただくよう、これからも大いに期待しています。
ご家族を介護されている方などは、ぜひこの本を手に取っていただきたいと思います。
「サイレントブレス」を読まれた皆さん感想をお聞かせ下さい。
久保つぎこ著「あの日のオルガン 疎開保育園物語」を読んでいます。
アジア・太平洋戦争の末期、東京大空襲の戦火を逃れ、埼玉県に「疎開保育園」を立ち上げ、運営した取り組みがありました。
この本は、当時の保育士の方々などの証言を丁寧に追ったドキュメンタリー小説です。
この本を原作に、平松恵美子監督で映画「あの日のオルガン」が完成し、来年から上映が始まります。
疎開保育園を開いたのは、埼玉県南埼玉郡平野村高虫という所です。普段使われていないお寺を保育園にしました。
小説の中には、駅から6キロを往復して荷物を運び込む保育士の姿が鮮明に描かれています。
荒れ寺は、竈もトイレも壊れており、保育士がご近所の協力を得て、竈とトイレを作ります。
その中で、53人の子どもたちの保育を行うのです。壮絶ですが、保育士の生き生きとした姿には、こちらが、清らかな気持ちになります。
冒頭、家族全員が亡くなり、天涯孤独になった4歳の藤ノ木健之君へ福知保育士が声をかけるシーンがあります。
「先生のおてつだいを
いつも
一生懸命になってしてくれる
小ちゃい けんちゃん
日本の国が戦争に勝つために
けんちゃんは
まだ四つにもならない時
家のみんなとお別れして
ここに来た。
妙楽寺の 疎開保育園に。
けれど、
家族のことばかり心配していた
あなたのお父さんは
お船といっしょに
暗い海の中に沈んでしまった。
輸送船が爆撃されて。
四日前に知らせがきて
三月十日
東京に空襲があったという。
その日
あなたのお母さんが
死んでしまった
あなたが可愛がっていた
妹のたかえちゃんが
焼け死んだ
あなたが生まれた時
兵隊が生まれたと
あんなにも喜んだおじいちゃんが
焼けむされて死んだ。
あなたのお家だった
同潤会アパートに
アメリカの飛行機が爆弾を落として
みんな
死んでしまったのだ 一度に。
大勢の人が死んで
たくさんの場所が焼けた
あなたが
職場へ急ぐお母さんと手をつなぎ
いっしょに歌いながら通った
私たちのなつかしい保育園も
みんな焼けてしまって
今は
ない
小さい藤ノ木健之よ
あなただけが
ひとり 残ったのだ・・・」
疎開保育園を開設した母体の一つの保育園には東京帝大セツルメントが関わっていました。
私は、大学時代、セツルメント活動を行っていました。大先輩の頑張りに感銘を受けました。
戦争の最中、幼い子ども達の命を少しでも救おうと奮闘した、私の祖母世代の皆さんの努力から学びたいと思います。
子どもは平和の中で生きる権利があるという、子どもの権利条約の精神が日本で世界で発揮されることを願ってやみません。
映画「あの日のオルガン」。今から楽しみです。
久保つぎこさんの「あの日のオルガン」をお読みになった皆さん感想をお聞かせ下さい。
12日の毎日新聞の書評に、石井光太さんの「原爆 広島を復興させた人びと」が取り上げられていました。
石井さんは、原爆に関心を持ったのは20代の頃だと言い、記事は次のように書いています。
「親しくしていた女性が広島出身の被爆3世。『私は被爆しているかもしれないから子どもをつくちゃいけないの」。げんばくは遠い過去の話だった。しかし、『目の前にいる、よく知っている女性が今も原爆の被害で苦しんでいる』現実に衝撃を受けた。作家になってからはいつか書くべく、準備をしていたという。」
本書は、「原爆市長」と呼ばれた浜井信三さん。世界に平和を発信する拠点の建築構想に応じた建築家の丹下健三さん。原爆ドームの保存に突き進んだ広島市職員の高橋昭博さん、初代広島平和記念資料館の初代館長の長岡省吾さんを取り上げたノンフィクション作品です。
一番丁寧に取り上げられているのは、長岡省吾さん。記事は次のように書いています。
「膨大な被爆資料を残し、広島平和記念資料館(原爆資料館)の初代館長も務めたが『長らく歴史から消されてきた。資料館を建てた最大級の功労者であるにもかかわらず、一冊の評伝もない』。書き手のエネルギーに火が付いた。」
今、本書を読んでいますが、長岡さんは、戦中、中国にあった陸軍の特殊機関にいたことが書かれています。
長岡さんは、ドイツ出身のユダヤ系ジャーナリストのロベルト・ユンクさんに原爆資料の収集をする覚悟について次のように語っています。
「売って食べものに変えることができる品物を追い求めるかわりに、こんな(値打ちのない古いもの)にかかりきりになっているということで嘲笑する者がいるなら、勝手に嘲笑するがいい。しかし、後世に広島の犠牲がどんなものであったかをまざまざとわからせるのは、だれかがしなければならない仕事なのだ。少なくともだれかが、人間の歴史のどん底を、良心のない人びとや空想力の乏しい人びとの眼前に警告としてよみがえらせなければならないのだ」
「原爆の実情を後世に残そうとする決意」と言えばその通りですが、長岡さんの鬼気迫る想いが表現された言葉です。
長岡さんのこの想いがなかったら、原爆資料館さえなかったかも知れないと思うと、彼の功績の重さを実感します。
後に市長になる浜井信三さんの戦後にも感じるものがありました。
浜井さんは、旧制第一高校に進学し、東京帝国大学法学部を卒業しますが、卒業間近に結核にかかります。
故郷の広島に帰省し、幸い、病気は快復し、広島市役所に就職します。
原爆投下で多くの市役所の職員が亡くなるなか、浜井さんは、市民へ食料の配給や冬に備えた防寒着の配布を率先して行い、市民から喜ばれます。
その評判もあって、浜井さんは、助役への就任を要請されます。
浜井さんは固辞しますが、前市長の藤田若水さんの次の言葉に胸を打たれます。
「君は、いわば天が広島市のために生かしておいた人間のようなものだ。よけいなことをいわず、君は広島市のために死ね。」
広島市は、戦中までは、陸軍を主とした軍事施設が集まる「軍の町」でした。
浜井さんは、広島市の中心に据わり、広島市を「平和の町」として再生させようと尽力します。
何度も、本ブログに書いてきましたが、私は大学1年生の冬、犀川スキーバス転落事故に遭遇しました。
一瞬の内に、22名の学友を失い、自分がなぜ生き残ったのかを考え続けてきました。
亡くなった学生は、誰も学業に励み、将来の夢も鮮明でした。
自分は死ぬ資格がない人間だとも思いました。
藤田前市長が浜井さんにかけた「広島市のために生かしておいた人間」という言葉は私の心にも突き刺さりました。
人間は、生まれた瞬間から、亡くなる瞬間まで、様々な偶然が重なって生きているのだと思います。
「生かしておいて人間」という言葉を、私は、「生かされている自分」と受け止めました。
「生かされている人間が、人類が共存できる社会のために、出来る役割を果たしていく」
これが、生きるということなのかなあと考える今日この頃です。
人類が共存できる社会のために、広島で起こった事実を私たちは決して忘れてはならないと思いました。
戦後の平和都市・広島市の礎を築いた、長岡さんや浜井さんの遺志を引き継がなければならないと思いました。
生かされている私たちは、広島を想い、考えることが必要だと感じました。
石井光太さんは、私が尊敬する作家の一人です。石井さんの「原爆 広島を復興させた人びと」から学び、石井さんの他の作品からも学びたいと思います。
この作品を読まれた皆さん、感想をお聞かせ下さい。
私も人並みにお盆は少しゆっくり過ごしました。家族や友人と過ごす時間の間に、下重暁子さんの最新刊「極上の孤独」を読了しました。
下重さんの本は書店で何度も見ていますが、実際に読んだのは、この本が初めてです。
まだまだ子育て真っ最中に私ですが、少しずつ、家族のために費やす時間が少なくて済むようになりました。
後10年経てば、中二の長女も社会人になっている年です。
10年後は、子どもに関わる団体などとの関わりも少なくなり、費やす時間も大きく変わっていることでしょう。
この本の大きなテーマは「中年からの孤独をどう過ごすのか」です。
私が心を打たれたのは「孤独と品性は切り離せない」という章です。
下重さんは、冒頭でズバリこう書いています。
「年をとるにつれて、だんだんいい顔になる人といやな顔になる人がいるが、その差は品性にあると思う。歳と共にその人の持っている内面が見事に表情にあらわれてくるからだ。」
盆には、毎年、同窓会があり、多くの同級生や先輩後輩にお逢いします。
年々、いい顔になっている人というのは確かにいるものです。
下重さんは、次に、品とは何か。こう書いています。
「お金があっても変えないし、体力があっても作ることが出来ない。精神的に鍛え上げた、その人にしかないもの。賑やかなものではなく、静かに感じられる落ち着きである。」
「品とは恥の裏腹にある。恥とは自分を見つめ、自分に問うてみて恥ずかしいかどうかである。」
下重さんは、その上で、恥と誇りとは表裏一体と言い、次のように書いています。
「自分を省み、恥を知り、自分に恥じない生き方をする中から、誇りが生まれる。それがその人の存在を作っていく。そして、冒すことの出来ない品になる。いつも外へばかり目が向いていると、誇りも恥も生まれては来ない。黙ってじっと自分の内面と対峙している人には、外の人間が入り込めない雰囲気があり、それがオーラとなっている。」
下重さんは、その上で、本書のテーマである孤独と本章のテーマである品との関係についてこう書いています。
「品とは内から光り輝くものだと考えれば、輝く自分の存在がなければならない。自分を作るためには、孤独の時間を持ち、他人にわずらわされない価値観を少しずつ積み上げていく以外に方法はないのだ。」
私は、小学校の通信簿に毎年「落着き」がないと書かれていました。
私に「静かに感じられる落ち着き」が未だに育っていないことは自ら認めるところです。
私は、このブログを、ほぼ毎日、10年以上、書き続けています。
私にとって、ブログを書く時間が、自分と向き合う時間であることは確かです。
来年の選挙に向けて、自分自身のための時間は、これから、益々少なくなってくる時期です。
その中でも、孤独の時間を持ち、自分を見つめ直す時間を確保したいと思います。
そして、自分の顔を少しでも内面から輝かせたいと思います。
下重さんは、私の母と同世代の方です。
五木寛之さんは父と同世代の方です。
これからは、下重さんを母からの言葉と思い、五木さんを父からの言葉と思い、人生行路の参考書にしたいと思います。
下重暁子ファンの皆さん、お勧めの本をお教え下さい。
妻の実家のある大阪に下宿して大学に通っている長男と次男が帰省してきました。
昨日は、長男と一緒に細田守監督の映画「未来のミライ」を観ました。
11時前からの第一回目の上映を観る予定でしたが、満席ということで、第二回目の上映を観ることができました。
その映画は、長男の「くんちゃん」が未来の妹「ミライ」に出会う物語です。
細田監督の映画のパンフレットで、この映画のアイデアは、自分の子どもさんが何気なく言った言葉にあったと述べています。
細田監督の息子さんは、ある日の朝、「大きくなった妹に逢ったよ」と言いました。
二人の子どもの子育てに奮闘する若い夫婦の日常は、私の20年前を見てるようでした。
忙しかったけれど、充実した毎日だったことを、この映画を通して思い出しました。
子どもは小さい内に、一生分の親孝行をするといいますが、子どもの寝顔や笑顔に癒された日々を思い起こしました。
そして、くんちゃんは、小さい時に、母に出合い、ひいじいじの若い頃に出合います。
特に、ひいじいじのシーンは胸に沁みました。
戦争で、移動中の船が爆撃され、ひいじいじは足に大きな傷を負います。
生きて帰り、ひいばああと向こうの木まで自分が早く着いたら結婚してくれとプロポーズします。
ひいじいじは、動かしにくい足を動かしながら、木の下まで懸命に走ります。
ひいばあばは、唖然として走ることができませんでした。
こうして、命が引き継がれて、今の「くんちゃん」や「ミライ」まで繋がっているんだと、母が子ども達に伝えるシーンは圧巻です。
この映画を長男と一緒に観ることができたことに感謝します。
今日は、終戦73年の日です。
改めて、多くの犠牲者の方々にお悔やみを申し上げます。
そして、私たちに命が繋がったことに感謝したいと思います。
この映画を観て、改めて、そのようなことを感じました。
細田守監督の「未来のミライ」は、未来に伝えたい秀作です。
まだ、お盆休みという方も多いと思います。一人でも多くの方に映画館で観ていただきたいと思います。
亡くなった方々を偲ぶ、お盆にぴったりの映画だと思います。
家族の事と考え、未来を考えることが出来る映画です。
細田監督、すばらしい作品をありがとうございました。
アジア・太平洋戦争が終わって、明日で73年になります。
太平洋に浮かぶパラオの小島、ペリリューは戦争末期、1万人の日本軍兵士が命を落とす激戦地でした。
今朝の毎日新聞は、ペリリユーで戦った兵士を描いた漫画「ペリリュー 楽園のゲルニカ」が取り上げられています。
本ブログでも一度、この漫画の事を取り上げたことがあるので、今日の「戦争を知らないけれど」の特集を興味深く読みました。
ペリリユーでは、戦後1年9か月たった1947年5月、ようやく終戦を知った34人の兵士が日本に帰還しました。
漫画の作者である武田さんは、生還者に会いに行きます。
私が、今回の特集で一番興味深かったのは、漫画への協力を拒否した生還者の永井さんへのインタビュー部分です。
永井さんに関する記述は次の通りです。
「7月下旬、私は太平洋戦争の激戦地・ペリリューから生還した34人の一人、茨木健の永井敬司さん(97)の自宅を訪ねた。なぜ、漫画でペリリューの兵士を描く武田一義さん(42)への享禄を断ったのか。永井さんは、はっきりした口調で、「あそこで戦っていない人には分からない」と語り出した。18歳で志願し陸軍に入隊。満州で国境整備をした後、ペリリューへ派遣され、飛行場を米軍から守る最前線で戦った。23歳だった。戦闘はすさまじかった。米軍に挟まれ、身を隠した堤防を仲間と飛び出した。銃弾が地面に当たってあがる土煙で前が見えず、近くにいる仲間の安否すら分からない。『天皇陛下万歳!』と叫ぶ声が聞こえた。爆弾の破片が右の太ももを貫通しても痛みがなく、流れた血の冷たさで初めて気づいた。火炎放射器で、生きたまま壕の中で焼かれた兵士たちも見た。永井さんはそう語り、涙を浮かべた。『ペリリューで亡くなった人を思うと、漫画は軽い。賛成しません』」
この特集を書いた竹内記者は、最後にこう書いています。
「永井さんは私に悲惨な体験を語り、『昔のことを一人でも二人でも、若い人に知ってもらえれば』と話した。だが、私が『ペリリュー』の単行本を差し出しても、最後まで手に取ることはなかった。漫画の主人公・田丸は、悲惨な戦場でも人を思いやる気持ちを忘れず、ささやかな平穏が訪れると小さな手帳に絵を描く。私はその人間さしさに引き込まれ、自分を重ねられる気がした。」
毎日新聞の特集記事に、原作者の武田さんは、永井さんの言葉を受け止め「知らないということを忘れたくない。だからこそ必死に、想像して近づこうとしている」と話しています。
永井さんの「あそこで戦っていない人には分からない」という言葉はとても重く。1万人の命の重さを感じることができる言葉です。
武田さんの「知らないことを忘れたくない」という言葉もとても重く受け止めました。戦場の現実を伝える姿に真摯な姿勢を感じます。
自らも満州で戦争を体験した漫画家のちばてつやさんが、この漫画を次ように推薦しています。
「若くて可愛らしい日本の兵隊さんが南海の美しいサンゴ礁の島で・・・『戦争』という地獄にまきこまれてゆくリアル。今こそ、子どもから大人まで、いや世界中の人々に読んで貰いたい漫画だ。」
私は、戦争の現実を漫画で伝えようとする「ペリリュー」。今だからこそ、世界中で読んでいただきたいと思います。
「ペリリュー」の単行本は現在までに5巻発行されているようです。
この夏、漫画「ペリリュー」からしっかり学びたいと思います。
漫画を通じて、主人公の田上を通じて、少しでもこの作品が多くの方に読み継がれることを期待します。
漫画「ペリリュー」を読んだ皆さん、乾燥をお聞かせ下さい。