今朝ほど、私の一般質問の第一稿が完成しました。
国体の関係で、前回の議会との間隔が近くなった8月県議会。
何を質問しようかと当初は悩んでいましたが、盆過ぎになって、複数の県民の方から様々なご指摘をいただきました。
これらの指摘で、いくつかの項目が増えました。
今議会も県民の声の代弁者に徹して、一つ一つの問題を誠実に議会に届けていきたいと思います。
明日中に一般質問を仕上げることになると思います。
私の一般質問は、金曜日の午後1時からの予定です。
一人でも多くの方の傍聴をお待ちしています。
今議会も精一杯務めてまいります。
引き続き皆さんのご意見をお聞かせ下さい。
本日、光市民ホールで、笠井亮議員を招いて原発問題を中心とした学習会が行われ、県下各地から700名の県民が参集しました。
笠井議員は、九電のやらせメール問題を国会で取り上げた本人です。
この問題は、玄海原発の再稼働をめぐる国主催の番組に向けて発生しました。
番組の中で、賛成意見が多く出るよう、九州電力の幹部が指示し、関連会社社員などにメールが配信されていた問題です。
この事実は、6月25日、関係者が日本共産党福岡県委員会に内部告発したことに端を発しました。
笠井議員がこの問題を7月6日に国会で取り上げたことから全国的な問題となり、玄海原発の再稼働を認めない大きな力となっています。
そして、8月18日、北海道電力の泊原発3号機の建設について、1999年10月、北海道が行った同原発に関する意見募集で、「賛成」意見を出すよう、北海道電力が社員を通じて働きかける『やらせ』を行っていたことを「しんぶん赤旗」が報道しました。
笠井議員によると、「この事実は、日本共産党に匿名で寄せられた」ものだということです。
北海道電力は、26日記者会見を開いて、役員が「大変重く受け止めている、信頼回復に努めたい」と陳謝しました。
上関原発を巡って、「やらせ」などの事実はなかったのか調査が必要だと笠井議員の講演で痛感しました。
上関原発をめぐっては、県主催で県民の意見を聴く会が、2000年10月23日に小郡町ふれあいセンター文化体育館で、24日にサンビーム柳井で行われています。
これら学習会における関係者の皆さんの情報を募集しています。
下記までご連絡いただけると幸いです。
〒759-0207
宇部市大字際波103-102
藤本 一規
電話 0836-44-0408
FAX 0836-44-0425
携帯 090-3747-2855
メール ikki@jcp-web.net
原発のない山口県をつくっていくために力を尽くそうと決意を新たにする学習会となりました。
光市で原発問題の講演を行う笠井衆院議員
第59回日本PTA全国研究大会ひろしま大会から帰ってきました。
子どもたちのおかげでPTAに関わることが出来ています。そのおかげで、私の人生にとって貴重な二日間を与えてもらいました。感謝、感謝の二日間でした。
一日目の分科会では、ヴィオラ奏者の沖田孝司さんのお話を聴きました。
高校時代は野球少年だった沖田さん。沖田さんは、3年生の11月になってヴィオラを始めて、翌年の2月に東京音楽大学を受験して見事合格します。
今までの音楽家の概念を覆す、沖田さんの生き方に感服しました。
息子さんが、高校時代、県立高校野球部でありながらベスト16に残ります。生徒と親と教員が集まった歓迎会の様子などの下りは、同じ親として、涙なしでは聴けませんでした。
沖田さんから、人間として、いつからでも成長できる可能性が親にも子にもあることを教えていただきました。
今日の全体会の乙武洋匡さんのお話は、私の今後の生き方に大きな影響を与えるだろうなという内容でした。
乙武さんは、大学を卒業してスポーツライターとして活躍しますが、ある事をきっかけに、教員になります。
それは、2004年に長崎で起きた事件です。12才の子どもが4才の子どもをショッピングセンターの屋上から突き落とす事件が発生しました。
その事件で乙武さんは、犯罪を犯した子どもに問題があることは当然だが、大人として、子どもを支える仕事をしたいと痛感したそうです。
教員になった乙武さんは、子どもに対して、①その子の一番をみつける②その良さを褒める③その子の良さをクラスの他の子に伝えることに努めたそうです。
また、クラス運営として、のび太君でも居心地のいいクラスづくりを目指したそうです。
のび太君は、勉強も運動も苦手だけど、いい所を持っています。
このような考えを社会や世界に繋げていくならば、平和が構築できるという壮大な話へと発展しました。
みんなの違いを認め、良さを認めることの大切さを痛感しました。
私の人生観と通じる話しに納得しました。
乙武さんの「五体不満足」はまだ読んでいません。
教員生活を小説にまとめた「だいじょうぶ3組」という近著があることも紹介されました。
まず、乙武さんのこれらの本を読みながら、こらからの人生、乙武さんと対話しながら歩んでいきたいと思いました。
沖田さん、乙武さんに出会うことが出来たのは、子どもたちのおかげです。
この二日は、繰り返しになりますが、本当に、子どもたちに感謝の言葉のみです。
講演を終えた乙武さん。私の心を鷲掴みにしました。
今から、第59回日本PTA全国研究大会ひろしま大会に参加します。
宇部市PTA連合会で直行バスを運行しますので、それに便乗します。
今日は、分科会が広島県内各地で行われ、それに参加します。
明日は、全体会が行われます。記念講演は、乙武洋匡さんです。
PTA行事では、いつもすばらしい方が講師で、大変勉強になっています。今回も楽しみです。
また、ミュージシャンの原田真二さんと子どもたちのアトラクションもあるようです。
原田さんは、私たちの愛した80年代ポップスを代表する一人でとても懐かしいです。
クルンクルンのパーマの頭で、愛らしい声で歌う「キャンディー」は、今でも聴こえてくるようです。
これも楽しみです。
行き帰り、車中や宿泊地で、宇部市のPTA役員の方々と交流ができることもとても楽しみです。
それでは、行ってきます。
1964年生まれの私の青春時代は、1980年代になります。
高校時代は、サッカー部に所属していましたが、サッカー部の仲間で、文化祭向けバンドを組んでいました。
2年生の時と3年生の時に演奏を披露しました。演奏と言っても、私は楽器は全く駄目で、専らボーカルでした。
オリジナルではなく、当時流行った曲のコピーでした。
コピーした曲は、甲斐バンド、ツイスト、柳ジョージなどでしたが、ハウンドドックもコピーしました。
ハウンドドックでコピーした曲は、「嵐の金曜日」。出だしで、ツインのギターがハモルところがカッコいいですよね。
私はボーカルでしたので、とてもキーの高い歌に苦労しました。
20代の頃までは、高校の文化祭での演奏を録音したテープが残っていてよく聴いていました。
鳥が首を絞められたような声だったことを想い出し、今でも冷や汗が出ます。(太く高い声を出すというのは天性のものが必要ですよね。)
あれから、30年。時々、ハウンドドックが聴きたくなる時がやってくるのですが、数日前からそれがやってきました。
そして今、車の中で、数年前に出された「HOUND DOG ULTIMATE BEST」を聴いています。
昔、自分の好きな曲だけをカセットに録音して「マイベスト」としてまとめることが流行っていましたが、このベストアルバムは、まさに私にとってのマイベストです。
数曲、歌えないものもありますが、ほとんどが、青春時代に馴れ親しんだ曲ばかりです。
「嵐の金曜日」は当然、「涙のバースデー」「ff(フォルテシモ)」「ONLY LOVE」は今でも時々カラオケで歌う曲です。
久々に聴いて懐かしかったNo1は、「ラスト・シーン」です。20代の頃はよくカラオケで歌っていました。
最もお気に入りなのが、「AMBITIOUS」ですね。詞がいいですね。
ハウンドドックを懐かしんで、最近の情報をインターネットで調べてみると、グループとしては、休止状態のようですね。
「オメガ」というアルバムを作成して以降は、そのような状態のようですね。グループ活動の再開を望みます。
ボーカルの大友康平さん個人は、映画やドラマやバラエティー番組などでよく見かけますが、やはり歌手としての活躍を望みます。
東北出身の大友さんは、震災復興を応援する楽曲を発表するなどの活動もされているようですね。
その楽曲も入れた、大友さんの新しいオリジナルアルバムを今待望しています。
80年代、ハウンドドックに熱狂した40代の私たちのために、大友さんの今のメッセージを聴きたいと今心から想います。
8月議会は、来週から質問戦です。今、原稿書きの真っ最中です。今議会は、ハウンドドックのベストアルバムを聴き、シャウトしながら、乗り越えたいと思います。
県政に関わる皆さんの要望を引き続きお聞かせ下さい。
6月中旬に、災害ボランティアで、岩手県宮古市を訪れたことは報告しました。
特に、高さ10m、延長2.4キロの巨大堤防のあった田老地区の光景は、2ヶ月たった今も私の脳裏から離れません。
そして、文書などで、田老の文字を見ると思わず目を留めてしまいます。
田老地区で、なぜ、これだけ巨大な堤防が建設されたかと言うと、1896年の明治三陸津波、1933年の昭和三陸津波の両方で甚大な被害を受けたからです。
巨大堤防の建設は、昭和33年から始まったそうです。
山下文男著「津波てんでんこ」という本を読みました。
本の題名になっている言葉は、明治三陸津波から生まれたそうです。取り分け田老地区での教訓から生まれた言葉だと言われています。
「津波てんでんこ」の意味を山下さんは、次のように書いています。
「凄まじいスピードと破壊力の塊である津波から逃れて助かるためには薄情なようであっても親でも子でも兄弟でも、人のことなどかまわずに、てんでばらばらに分、秒を争うようにして素早く、しかも急いで速く逃げなさい。」
志位委員長が行った日本共産党創立89周年記念講演でも田老地区のことが出てきました。
東京の大崎無産者診療所で看護婦として働いていた砂間秋子さんは、昭和の三陸津波の支援に、被害のひどかった田老地区に向います。
盛岡からは、官憲の眼を避けるため、100キロ離れた宮古まで徒歩で向かいます。そこから船で1時間半かけて、田老に向いました。
田老地区で診療を始めて3時間で砂間さんは、特高に逮捕されました。
命がけで、私たちの先輩たちは、被災者支援に向ったのです。
明治、昭和、平成と、3回も甚大な津波被害を受けた田老地区。4度目を回避していくために万全な復興対策を望みます。
田老地区には、もう一度、行ってお手伝いしたいと思っています。
今日から、8月県議会が始まりました。
3・11の教訓を山口県に生かす点でも引き続き議論を行っていきたいと思います。
災害に強い県づくりに向けて皆さんのご意見を引き続きお寄せ下さい。