第59回日本PTA全国研究大会ひろしま大会から帰ってきました。
子どもたちのおかげでPTAに関わることが出来ています。そのおかげで、私の人生にとって貴重な二日間を与えてもらいました。感謝、感謝の二日間でした。
一日目の分科会では、ヴィオラ奏者の沖田孝司さんのお話を聴きました。
高校時代は野球少年だった沖田さん。沖田さんは、3年生の11月になってヴィオラを始めて、翌年の2月に東京音楽大学を受験して見事合格します。
今までの音楽家の概念を覆す、沖田さんの生き方に感服しました。
息子さんが、高校時代、県立高校野球部でありながらベスト16に残ります。生徒と親と教員が集まった歓迎会の様子などの下りは、同じ親として、涙なしでは聴けませんでした。
沖田さんから、人間として、いつからでも成長できる可能性が親にも子にもあることを教えていただきました。
今日の全体会の乙武洋匡さんのお話は、私の今後の生き方に大きな影響を与えるだろうなという内容でした。
乙武さんは、大学を卒業してスポーツライターとして活躍しますが、ある事をきっかけに、教員になります。
それは、2004年に長崎で起きた事件です。12才の子どもが4才の子どもをショッピングセンターの屋上から突き落とす事件が発生しました。
その事件で乙武さんは、犯罪を犯した子どもに問題があることは当然だが、大人として、子どもを支える仕事をしたいと痛感したそうです。
教員になった乙武さんは、子どもに対して、①その子の一番をみつける②その良さを褒める③その子の良さをクラスの他の子に伝えることに努めたそうです。
また、クラス運営として、のび太君でも居心地のいいクラスづくりを目指したそうです。
のび太君は、勉強も運動も苦手だけど、いい所を持っています。
このような考えを社会や世界に繋げていくならば、平和が構築できるという壮大な話へと発展しました。
みんなの違いを認め、良さを認めることの大切さを痛感しました。
私の人生観と通じる話しに納得しました。
乙武さんの「五体不満足」はまだ読んでいません。
教員生活を小説にまとめた「だいじょうぶ3組」という近著があることも紹介されました。
まず、乙武さんのこれらの本を読みながら、こらからの人生、乙武さんと対話しながら歩んでいきたいと思いました。
沖田さん、乙武さんに出会うことが出来たのは、子どもたちのおかげです。
この二日は、繰り返しになりますが、本当に、子どもたちに感謝の言葉のみです。
講演を終えた乙武さん。私の心を鷲掴みにしました。
今から、第59回日本PTA全国研究大会ひろしま大会に参加します。
宇部市PTA連合会で直行バスを運行しますので、それに便乗します。
今日は、分科会が広島県内各地で行われ、それに参加します。
明日は、全体会が行われます。記念講演は、乙武洋匡さんです。
PTA行事では、いつもすばらしい方が講師で、大変勉強になっています。今回も楽しみです。
また、ミュージシャンの原田真二さんと子どもたちのアトラクションもあるようです。
原田さんは、私たちの愛した80年代ポップスを代表する一人でとても懐かしいです。
クルンクルンのパーマの頭で、愛らしい声で歌う「キャンディー」は、今でも聴こえてくるようです。
これも楽しみです。
行き帰り、車中や宿泊地で、宇部市のPTA役員の方々と交流ができることもとても楽しみです。
それでは、行ってきます。
1964年生まれの私の青春時代は、1980年代になります。
高校時代は、サッカー部に所属していましたが、サッカー部の仲間で、文化祭向けバンドを組んでいました。
2年生の時と3年生の時に演奏を披露しました。演奏と言っても、私は楽器は全く駄目で、専らボーカルでした。
オリジナルではなく、当時流行った曲のコピーでした。
コピーした曲は、甲斐バンド、ツイスト、柳ジョージなどでしたが、ハウンドドックもコピーしました。
ハウンドドックでコピーした曲は、「嵐の金曜日」。出だしで、ツインのギターがハモルところがカッコいいですよね。
私はボーカルでしたので、とてもキーの高い歌に苦労しました。
20代の頃までは、高校の文化祭での演奏を録音したテープが残っていてよく聴いていました。
鳥が首を絞められたような声だったことを想い出し、今でも冷や汗が出ます。(太く高い声を出すというのは天性のものが必要ですよね。)
あれから、30年。時々、ハウンドドックが聴きたくなる時がやってくるのですが、数日前からそれがやってきました。
そして今、車の中で、数年前に出された「HOUND DOG ULTIMATE BEST」を聴いています。
昔、自分の好きな曲だけをカセットに録音して「マイベスト」としてまとめることが流行っていましたが、このベストアルバムは、まさに私にとってのマイベストです。
数曲、歌えないものもありますが、ほとんどが、青春時代に馴れ親しんだ曲ばかりです。
「嵐の金曜日」は当然、「涙のバースデー」「ff(フォルテシモ)」「ONLY LOVE」は今でも時々カラオケで歌う曲です。
久々に聴いて懐かしかったNo1は、「ラスト・シーン」です。20代の頃はよくカラオケで歌っていました。
最もお気に入りなのが、「AMBITIOUS」ですね。詞がいいですね。
ハウンドドックを懐かしんで、最近の情報をインターネットで調べてみると、グループとしては、休止状態のようですね。
「オメガ」というアルバムを作成して以降は、そのような状態のようですね。グループ活動の再開を望みます。
ボーカルの大友康平さん個人は、映画やドラマやバラエティー番組などでよく見かけますが、やはり歌手としての活躍を望みます。
東北出身の大友さんは、震災復興を応援する楽曲を発表するなどの活動もされているようですね。
その楽曲も入れた、大友さんの新しいオリジナルアルバムを今待望しています。
80年代、ハウンドドックに熱狂した40代の私たちのために、大友さんの今のメッセージを聴きたいと今心から想います。
8月議会は、来週から質問戦です。今、原稿書きの真っ最中です。今議会は、ハウンドドックのベストアルバムを聴き、シャウトしながら、乗り越えたいと思います。
県政に関わる皆さんの要望を引き続きお聞かせ下さい。
6月中旬に、災害ボランティアで、岩手県宮古市を訪れたことは報告しました。
特に、高さ10m、延長2.4キロの巨大堤防のあった田老地区の光景は、2ヶ月たった今も私の脳裏から離れません。
そして、文書などで、田老の文字を見ると思わず目を留めてしまいます。
田老地区で、なぜ、これだけ巨大な堤防が建設されたかと言うと、1896年の明治三陸津波、1933年の昭和三陸津波の両方で甚大な被害を受けたからです。
巨大堤防の建設は、昭和33年から始まったそうです。
山下文男著「津波てんでんこ」という本を読みました。
本の題名になっている言葉は、明治三陸津波から生まれたそうです。取り分け田老地区での教訓から生まれた言葉だと言われています。
「津波てんでんこ」の意味を山下さんは、次のように書いています。
「凄まじいスピードと破壊力の塊である津波から逃れて助かるためには薄情なようであっても親でも子でも兄弟でも、人のことなどかまわずに、てんでばらばらに分、秒を争うようにして素早く、しかも急いで速く逃げなさい。」
志位委員長が行った日本共産党創立89周年記念講演でも田老地区のことが出てきました。
東京の大崎無産者診療所で看護婦として働いていた砂間秋子さんは、昭和の三陸津波の支援に、被害のひどかった田老地区に向います。
盛岡からは、官憲の眼を避けるため、100キロ離れた宮古まで徒歩で向かいます。そこから船で1時間半かけて、田老に向いました。
田老地区で診療を始めて3時間で砂間さんは、特高に逮捕されました。
命がけで、私たちの先輩たちは、被災者支援に向ったのです。
明治、昭和、平成と、3回も甚大な津波被害を受けた田老地区。4度目を回避していくために万全な復興対策を望みます。
田老地区には、もう一度、行ってお手伝いしたいと思っています。
今日から、8月県議会が始まりました。
3・11の教訓を山口県に生かす点でも引き続き議論を行っていきたいと思います。
災害に強い県づくりに向けて皆さんのご意見を引き続きお寄せ下さい。
昨日夕方の大雨で、国道190号線藤曲交差点付近と、宇部湾岸道路西中町インターチェンジ付近が相次いで冠水しました。
今日、宇部市の職員の方から昨日の藤曲交差点付近の豪雨の状況について説明を受けました。昨日、15:50~16:50までの間、1時間当たり40㎜の雨が降ったそうです。
結局、190号線のバイパスとしての宇部湾岸道路の下り線が利用できない、また、190号本線も両車線通行止めとなるなどで、宇部興産本社から西側は大渋滞したようです。
この状況を、今日の宇部日報の「緑風抄」で厳しく指摘されています。
「インター付近の道路構造上の問題なのか、周辺地域を含めた排水機能のトラブルが原因なのか分からないが、早急に究明し、対策を講じる必要がある。日常的な渋滞緩和の解消や、物流機能の拡充も大事だが、いざというときに市民の支えになるライフラインでなければ画竜点睛を欠く。想定外は禁句。概算事業費860億円のビックプロジェクトが、機能を最大限に発揮してくれることを願う。」
我が意を得たりです。
湾岸道路開通早々に通行できないトラブルを解明し、対策を県として、関係機関と連携しながらきちんと取っていくことが重要です。
この問題に関して、皆さんのご意見をお聞かせ下さい。
私は、西宇部校区人権教育推進委員を務めています。
18日に、原・黒石・厚南・西宇部校区の人権教育合同研修会が行われ参加しました。
講師は、現在、山口県立大学学長の江里健輔先生でした。
江里先生は、県立中央病院(現県立総合医療センター)の院長をされていました。
江里先生が院長時代、私は、県議会厚生委員会などでお世話になったことが想い起こされました。
江里先生は、「医療における人権を考える」をテーマに話をされました。
江里先生は、病者差別・人権侵害の歴史として①閉鎖病棟、隔離病棟②人体実験③薬害を挙げられました。
人体実験の内容として①九大事件②731細菌部隊を挙げられました。
731細菌部隊のことは、森村誠一さんの本などを数冊読み一定の知識はありましたが、九大事件については、十分な知識を持ち合わせていませんでした。
浅学を恥じ、熊井啓監督の映画「海と毒薬」を借りて先日観ました。
衝撃的な内容に私の目は映像に釘付けになりました。
九大事件はご存知の方も多いかと思いますが、概要を説明します。九大事件とは、戦争末期、アメリカ軍捕虜を九大医学部内で生体実験したとされる事件です。
先日、前衛9月号に掲載された一橋大学の吉田裕教授の「対米従属と戦争責任問題へのダブルスタンダードがもたらしたもの」と題する論文を読みました。
吉田教授は、戦争責任をめぐるダブルスタンダードを次のように説明します。
「対外的にはサンフランシスコ講和条約の第11条で東京裁判の判決を受諾するという形で最低限の戦争責任を認める一方で、国内的には、戦争責任をめぐる議論に関しては封印していくというものです。」
吉田教授は、最後に、「直接の体験と記憶とにもとづく歴史研究や歴史教育は、その基盤が大きくゆらぐ時代を迎えようとしているのです。そういうなかで、戦争を直接体験していない世代が、過去の戦争をどういう形で再認識していくのかが問われることになります。」「いま、サンフランシスコ体制を支えてきた歴史認識というものをあらためて検証し直す必要があると思います。」
私は、映画「海と毒薬」を観て、戦争中に、アジアだけでなく、アメリカに行った日本軍の行為を知る必要性を痛感しました。アジアのみならず、アメリカに対する戦争犯罪を日本は認めることを重要です。そのことを通じてこそ、アメリカが日本に行った原爆などの行為をしっかり批判できるのだと思いました。
戦後、68年。戦後世代の私たちは、もっと、もっと、あの戦争で何があったのかをとにかく知るべきだと痛感しました。
その一つ「九大事件」を教えていただいた江里先生に改めて感謝いたします。
遠藤周作さんの原作からも学びたいと思います。