昨日、長生炭鉱水没事故77周年犠牲者追悼集会が宇部市西岐波の追悼ひろばで行われました。
長生炭鉱水没事故犠牲者遺族会会長のキムヒョンス会長は、「一日も早くあの冷たい海底に放置したままになっている私たちの祖父、父達の遺体を発掘し祖国である大韓民国に返還して下さることを日本政府に強く要求します。」と挨拶しました。
駐広島大韓民国金宣杓総領事は「私もまた、韓日両国の関係が改善され問題解決へ一歩でも近寄るよう、微力ながら努力していく所存であります。」と挨拶しました。
二部の講演会は、東北アジア歴史財団韓日歴史問題研究所南相九所長が「朝鮮人強制動員被害者の遺骨問題の現状と課題」と題して話しました。
南所長は、遺骨問題について「日本政府と企業が国家政策により朝鮮人を軍人・軍属として戦地に、労働者として炭鉱等に強制的に動員したにもかかわらず、敗戦後には国籍が変わったとの理由等から遺骨を遺族に返さなかったことにより発生した問題」と話しました。
南所長は、帰らなかった軍人・軍属の遺骨について「海外の戦地で死亡した朝鮮人の軍人・軍属は、名簿上では2万1919仁あるが、日本政府が1945年8月以降に韓国政府を通じて送還した遺骨は2072柱に過ぎない」と話しました。
南所長は、帰らなかった労働者の遺骨について「日韓遺骨協議を通じて日本全域に散在する強制動員被害者の遺骨実態・実地調査を実施したが、2015年4月に日本政府が韓国側に提供した実態調査資料によると、朝鮮人の遺骨を安置している施設は339か所であり、遺骨は2798柱である。」と話しました。
南所長は、遺骨問題の解決のための基本原則として、「日韓の両国の政府が責任をもって解決を図る必要がある」と話しました。日本政府には、「いまだに続いている植民地支配による被害を救済するという自覚が必要である」と述べ、韓国政府には、「国民の生命と財産の安全を守ることが国家的責務であることを自覚し、国家が国民を守れずに国民が受けざるを得なかった苦痛を解決するという観点から、積極的に解決に向けて取り組むことが必要である。すべての遺骨を奉還することはできなくても、死亡経過と遺骨の実態について遺族に説明する責任がある。」と述べました。
1942年に起きた長生炭鉱の水没事故での犠牲者は183人、その内、136人は朝鮮半島から強制連行された方々です。
一日も早く、それぞれの遺族の方に遺骨が返還されるよう、長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会の運営委員として、私も微力を尽くしていきたいと決意を新たにした昨日でした。
今朝のしんぶん赤旗日刊紙は、「日本による植民地支配したでの強制労働に対し、日本政府の謝罪と賠償問題の解決を求める『名古屋三菱朝鮮女子勤労挺身隊訴訟を支援する会』など3団体は15日、新日鉄住金、三菱重工に対し、責任を認めて被害者に賠償を求める要請と抗議行動を本社前で行い、両社は要請書を受け取りました。行動には、韓国の元徴用工裁判の原告も参加しました。新日鉄住金を相手取った訴訟の原告側弁護士は同日、記者団に、既に差し押さえた同社の韓国内の資産の売却命令を裁判所に申請すると表明しました。昨年10月30日と11月29日、韓国大法院(最高裁)は新日鉄住金と三菱重工に対して、日本がアジア太平洋地域を侵略した太平洋戦争中に、元徴用工や挺身隊員として強制的に働かされた原告らに損害賠償の支払いを命じました。」と報じました。
本日、宇部市床波の長生炭鉱追悼ひろばにおいて、「長生炭鉱水没事故77周年犠牲者追悼集会」が行われます。
1942年2月3日に起きた長生炭鉱水没事故の犠牲者183名で、130余名の方が朝鮮南部地域から動員された労働者の方々でした。
朝鮮人遺族の方々には補償はされず、遺骨も返還されていません。
昨年の韓国大法院での判決を契機に、長生炭鉱水没事故犠牲者遺族が求める願いが日本政府に届き、解決に向けて歯車が前に進むことを願っています。
私は、今日は、長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会の運営委員として追悼式の準備に今から参加します。
第一部 11時~ 追悼式 第二部 13時30分~ 講演会 講師 韓国・東北アジア歴史財団韓日歴史問題研究所所長のナム・サングさん
以上の日程で追悼集会が行われます。是非多くの皆さんのご参加をお待ちしています。
11日のしんぶん赤旗日刊紙は、「日本の科学力低下が問題になるなか、安倍政権は2019年度予算案の『科学技術関係予算』が過去最大規模になったと発表しました。しかし、増加の中身を精査すると、『過去最大』を演出する集約方法のトリックが見えてきました。」と報じました。
更に、しんぶん赤旗は「科技予算で最も増えたのは、先進技術を活用した公共事業の予算です。国土交通省は前年度の1千億円から2千億円に、農林水産省も215億円から320奥苑に増額しました。公共事業が科技予算とされる拝啓には、内閣府が昨年策定した科技関係予算の新たな集計方法があります。新集計方法は、集計に含めるか各省で判断に差があった『科学技術を活用した事業予算』を集約対象に含めることを明確化。集計方法の変化が科技予算をかさ上げする大きな要因となっています。」と報じました。
名古屋大学名誉教授の池内了さんは、しんぶん赤旗い次のコメントを寄せました。
「科学技術予算は本来、新たなものごとをつくりだす研究的要素が入っていることが重要で、実証実験を含め、実用を目的とする予算は科学技術予算とは呼べないと思います。科学技術予算の根幹をなす国立大学の運営交付金や私学補助などは、増額どころかむしろ減少している状況で、とても研修を大事にしている予算ではありません。現在、科学技術項目はほとんどないからといって、なんでも科学技術とこじつけて予算が増えたというのは、フェイク(まやかし)と言うべきです。この間の毎月勤労統計調査の偽装のように、安倍政権は数字を操作して見せかけだけをよくしようとしているのです。内実をよくみて判断する必要があります。」
13日の読売新聞は、まさに「低迷する日本の科学技術」を特集しています。
この中で、国立大学協会会長の山際寿一氏は、次のように述べています。
「2004年に国立大学が法人化して以降、政府は改革を進めようと大学を過度に競争させた。人件費などに充てる基盤経費である国立大学運営費交付金を削り、競争的資金を手厚くした。」「しかし、15年間かけてもうまくいかず、間違っていたことは明らかだ。」
科学技術費を政権のトリックで過大に見せることは断じて許されません。
池内さんや山際さんが指摘をするように、科学技術予算の根幹をなす国立大学の運営費交付金を削減する路線を見直すことが今求められいます。
更に、池内さんが指摘した「安倍政権は数字を操作して見かけだけをよくしようとしている」の指摘に、全く同感しました。
私の長男は公立大学の工学部で機械工学を学んでいます。未来の科学技術を担う学生が安心して学べる環境を整えることに安倍政権は力を入れるべきです。
科学技術予算「過去最大」がトリックであることが明らかになりました。
皆さんは、この問題をどうお考えですか。ご意見をお聞かせ下さい。
日本共産党は、2018年11月9日に「教職員を増やし、異常な長時間労働の是正を-学校をよりよい教育の場に-」という政策を発表しました。
この政策を元に、パンフレット「教職員の働き方を変えたい」を作成しました。
昨日、日本共産党山口県地方議員会議の中で、教職員を経験した二人の方から、パンフレットの中身について講義を受けました。
パンフレットに、「異常な長時間労働を生み出した3つの根本問題」とあります。
第一は、「国が教員の授業負担を増やした」です。
パンフレットは、「教員一人あたりの授業負担は長い間、『一日4コマ、週24コマ』とされ、それを満たすことを目標に、定数配置が行われてきました。ところが国はその基準を投げ捨て、教員の授業負担を増やしたのです。」と指摘しています。
第二は、「業務の増大=学校のかかける過大の増加+『教育改革』による負担の増大」です。
パンフレットは、「1990年前後から、不登校の増加、いじめ問題など学校のかかえる課題が増えました。また、貧困と格差が広がるもとで、子育てへの不安や困難が深まり、保護者との関わりも複雑さを増しました。こうしたもとで、教職員の負担は増えざるをえませんでした。しかも同じ時期に、国や自治体は、全国学力テストや自治体独自の学力テスト、行政研修の増大、土曜授業、教員免許更新制、人事評価、学校評価など多くの施策を学校に押しつけました。これらが積み重なり、教職員の多忙化に拍車をかけました。」と指摘しています。
第三は、「『残業代ゼロ』の法律が、長時間労働を野放しにした」です。
パンフレットは、「公立学校の教員が、法律で例外的に『残業代ゼロ』とされてきたことも重大です。そのもとで、どの先生が何時間残業したのかまったく分からない状態が続き、長時間労働が野放しになりました。」と指摘しています。
その根拠法が公立学校教育職員給与特別措置法です。
パンフレットは、同法について「1971年に自民党のみの賛成で強行された。公立学校の教職員に残業代を支給しない、教職調整額(給与4%上乗せ)を一律に支給するなどが主な内容。」
昨日の講義では、こんな問題が参加者に出されました。
質問「教員の長時間残業はなぜ法律違反に問われないのか」
設問①裁量労働制がとられている②残業代が支給されている③残業を命じることができない
答えは、③の「残業を命じることができない」。
公立学校教職員給与特別措置法は、「残業代ゼロ」法であると同時に、「残業」そのものが命じれれない法律であることを知りました。
日本共産党は、教職員の働くルールを確立することを提案しています。
その一つが、「残業代をきちんと支払い残業時間を規制する」です。
パンフレットは、「割り増し賃金を支払う残業代の制度(労働基準法)は、長時間労働に歯止めをかけるしくみの一つです。その適用除外が誤りだったことは明らかで、残業代を支払うようにすべきです。また、残業時間の上限を『週15時間、月45時間、年360時間以内』(厚生労働大臣告示)とします。」と提案しています。
パンフレットは、こうも指摘しています。
「政府・自民党は、問題の根本にある教員定数や『残業代ゼロ』の見直しを行わず、『1年単位の変形労働時間制』の導入を検討しています。これでは、夏休み期間以外の異常な長時間労働が制度化・固定化され、新たな矛盾も生じ、問題は解決しません。」
提言は、最後にこう書いています。
「教員は労働者であるとともに、教育の専門家です。子どもたちは、人類が蓄積した文化を学び、他者との温かい人間関係のなかで、一人ひとりが個性的に人として育ちます。その人間形成を支える教員の仕事は、自らの使命への自覚、それと結びついた広い教養や深い専門的な知識・技能が求められる、尊い専門職です。そうした教員の専門性の発揮のためには、それにふさわしい労働条件が必要です。授業の準備、子どもへの理解や対応、教育活動のふりかえり、教育者であり続けるための研究と人間的修養-それらが人間らしい生活のなかで保障されなければなりません。同時に、教育の営みには、教育者としての一定の自主的権限や自律性が必要です。これらのことは、教員以外の学校職員にとっても大切な観点です。」「またもな労働時間の実現は、専門職としての誇りと自覚をつちかう土台ともなるものです。」
私も、高校と中学校の社会科と特別支援学校の教員の資格も保持しています。
また、15年位、PTA活動に関わり、ここ数年は、学校運営協議会委員を務めています。
私は、多くの教職員の皆さんとこのパンフレットで対話をすすめていきたいと思っています。
パンフレットが必要な方は、本ブログのトップページからお申込み下さい。
教職員の皆さんの実態を是非、お教え下さい。
「落語 昭和の名人 極めつき」第三回は、「五代目 柳屋小さん」(その一)です。
柳屋小さん師匠は、2002年に享年87歳で亡くなられました。
1995年、80歳で人間国宝に認定されるまで、高座にあがり続けた方ですので、私もテレビなどで、直接、小さん師匠の落語を聞いた記憶があります。
CMなどに登場した姿も思い起こします。臼か狸かを連想する体躯で、いつも笑顔で穏やかな印象のある方です。
マガジンには、小さん師匠の信念がこう綴られています。
「その高座はつねに自然体で、過剰な演出はない。『酔っぱらいは酔っぱらいの了見で、狸は狸の了見で演じる』。それが小さん落語の要諦だ。さらに、大前提にあったのが『心邪なる者は噺家になるべからず』という自戒であった。」
「うどん屋」の酔った客の演技は、まさに人間国宝です。
「狸賽」の狸の演技も、目の前に見えるようです。
寄席文字書家の橘左近さんが、小さん師匠をこう評しています。
「淡々としたなかに、ほのぼのとしたふくよかな笑いをもたらす。小賢しさはなく、下卑た笑いは決して起こらない。」
正に、小さん師匠の生きざまそのもが噺の姿形となったのでしょう。
志ん生も圓生もいいけれど、小さんもいいですね。
落語はいいですね。皆さんのごひいきの昭和の名人をお教えください。
東京工業大学教授の中島岳志さんがガイド役を務めるEテレ100分de名著「オルテガ 大衆の反逆」第二回目リベラルであることの録画を今日観ました。
オルテガは、「大衆の反逆」で「自由主義は-今日、次のことを想起するのはたいせつなことだ-最高に寛大制度である。」と書いています。
中島さんは、このオルテガの主張を次のように解説しています。
「自由主義とは、とにかく最高に寛大な制度であり、他社を受け入れるという寛容な精神にほかならない、と言っています。権力が万能であるかのようにふるまっているけれど、その権力自体を制限する原則が存在している、とオルテガは考えています。それは、過去から積み重ねられた経験知によってもたらされるものであり、その中核に存在するのが『リベラル』だというのです。」
オルテガは、次のように書いています。
「敵とともに生きる!反対者とともに統治する!こんな気持ちのやさしさは、もう理解し難くなりはじめていないだろうか。反対者の存在する国がしだいに減りつつあるという事実ほど、今日の横賀ををはっきる示しているものはない。ほとんどすべての邦で、一つの同質の大衆が公権を牛耳り、反対党を押しつぶし、絶滅させている。」
この本が書かれたのは1930年。日本共産党が創立されたのが、1922年。
小林多喜二が拷問により虐殺されたのが1933年。
1930年は、日本が侵略戦争を始める前夜の時期で、日本共産党への弾圧を本格化させた時期です。
ヨーロッパでもファシズムなどの全体主義が台頭し始めた時代にオルテガは、ろれらの流れを「偽りの夜明け」と呼び、民主主義をの重要性を次のように説きました。
「政治的には共存への意思がもっとも高く表現されている形式は、自由民主主義である。それは、隣人を考慮に入れる医師を極限まで推し進めたものであり『間接行動』の原型である。」
オルテガの言う「間接行動」について中島さんは次のように解説しています。
「オルテガは直接民主制を信用していませんでした。人々が選んだ代表が合議して物事を決めていくという間接民主制によって、大衆のある種の熱狂を権力に伝えないための『緩衝』を置くことが重要だと考えていたからです。」
オルテガは、「支配するとは、拳(で撲ること)より、むしろ尻(で坐ること)の問題である。」と書いています。
この点を中島さんは次のように解説しています。
「拳を振る上げて撲ることで支配するのではなく、静かに鎮座して、人々の話を聞き、着地点を探りながらその場を収めていくというイメージでしょうか。」
今回の講座では、これからの発展が求められる市民と野党の共同にとって重要な示唆があったと思いました。
強権政治の打倒を訴える私たちは、じっくり国民の声に耳を傾けなければならない。
民主主義を徹底しながら、一致点を築きながら選挙によって世の中をより良い方向に変える。
オルテガの指摘を今一度噛みしめる必要があることを感じました。
また、「思想とは、真理にたいする王手である」という言葉も深く噛みしめました。
中島さんはこう解説しています。
「間違いやすいい、有限的な存在である私たちに正しさを所有することはできない、できるのは、心理に対する王手を指すこと。つまり、この道を行けば真理なのではないかという道筋を『思想』として語るだけだと考えたわけです。同時に、その王手を指そうということをやめてはいけない、ともオルテガが言っています。真理に向かっていこうとする意志をもった人間だけが、他者と共存することができる粘りと強さを持った人間だと考えたのです。」
今日に活きる重要な指摘だと感じました。
引き続き、中島岳志さんのガイドでオルテガの「大衆の反逆」を学んでいきたいと思います。
この講座を見ておられる皆さん、感想をお聞かせ下さい。