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映画「杉原千畝 スギハラチウネ」

 唐沢寿明さん主演の映画「杉原千畝 スギハラチウネ」をDVDで観ました。

 第二次世界大戦中、リトアニアのカウナス領事館に赴任した杉原は、ナチス・ドイツの迫害によりポーランド等欧州各地から逃れてきた難民らに対し、1940年7月から8月にかけて、大量のビザを発給しておよそ6000人の避難民を救ったとされています。

 杉原千畝は、日本のシンドラーとも呼ばれています。

 シンドラーを取り扱った映画「シンドラーのリスト」は映画館で観ました。

 ゲルニカ空爆同様、ナチスの暴虐を私たちは忘れてはなりません。

 同時に、ピカソ同様、シンドラー、杉原らこの流れに抗して動いた人物がいたことを忘れてはならないと思います。

 そして、平和を築くための行動に踏み出したいと思います。

 映画の中で、杉原が、「たかが紙切れ一枚のこと」とビザを発行する場面が出てきます。

 言葉とは裏腹の、命をかける覚悟を持ってビザを発行している杉原の姿を映画は映し出していました。

 今後も民衆の立場から戦争を残す映画が制作されることを望みます。

 「杉原千畝 スギハラチウネ」DVDレンタル開始されたばかりです。

 是非、多くの方に観ていただきたいと思います。

 この映画を観られた方は感想をお聞かせ下さい。

ゲルニカ爆撃

 原田マハさんの「暗幕のゲルニカ」を読んでいて、ゲルニカの事が知りたくなって図書館で借りてきた早乙女勝元編「ゲルニカ-ナチ爆撃のスペインの町」を読んでいます。

 ゲルニカは、スペイン北部バスク地方の小さな町です。1937年4月26日、フランコ反乱軍を支援するドイツ空軍の猛爆撃によって破壊され、市民多数が死亡しました。

 その爆撃の報道に衝撃を受けて描いたピカソの代表的絵画が、「ゲルニカ」です。

 早乙女勝元さんは、無差別爆撃は、日本軍が先鞭をつけているとこの本で述べています。

 「ナチのゲルニカ爆撃より6年前、1931年9月に、日中戦争の最初の導火線ともいうべき『満州事変』が勃発した。」

 「同年10月、日本陸軍航空隊は88式偵察機を主力にして、遼寧省の錦州を爆撃した。11機編隊が75発の爆弾を投下した。目標とした町に、中国側の東北防衛軍張学良の軍隊が結集していたのは事実だったが、投下の半分以上は兵営ではなく、市街地の病院や学校などに被弾し、市民を主に24名からの死傷者を出したことで、国際的な批難が日本に集中したのだった。」

 無差別爆撃のバトンは、日本からドイツへそして、今もアメリカ軍などによって中東諸国などを標的にして続けられています。

 小説「暗幕のゲルニカ」の中で、「ゲルニカ」が完成し、「ゲルニカ」の前で、ナチスの将校がピカソに「この絵を描いたのは貴様か」と問うシーンがあります。ピカソは、「いいや。この絵の作者は-あんたたちだ」と答えます。

 ピカソの遺志を受けたわたしたちが、ゲルニカ爆撃の惨禍を二度と許さない決意で行動を続ける時だと感じました。

 無差別爆撃について皆さんのご意見をお聞かせ下さい。

カフーを待ちわびて

 原田マハ原作、中井庸友監督の映画「カフーを待ちわびて」をDVDで観ました。

 本作は、2006年、第1回ラブストーリー大賞を受賞した原作が映画化されたものです。

 もちろん、ラブストーリーとしても秀作ですが、それを凌駕する世界観が私を魅了しました。

 舞台は、沖縄県与那喜島。

 雑貨店を営みながら暮らす友寄明青の元に、幸という女性から一通の手紙が届きます。

 明青は、数か月前、旅先の神社で、「嫁に来ないか」と書いた絵馬を書いていた。 

 幸は、その絵馬を頼りに、与那喜島にやって来る。

 表題の「カフー」とは幸せの意味。

 幸は、明青にとっての「カフー」とはと訊ねます。

 明青は「周りのみんなが幸せな事」と答えます。

 この言葉が私の胸に突き刺さり、今の私の心で叫び続けています。

 離島に開発の波が押し寄せて、これにどう対応するのか。

 などなど、社会的なテーマも根底に流れています。

 人間にとって幸せとは何かを考えさせてくれるガードボイルドな映画でもあります。

 映画のラストで、胸をなでおろし爽快感の湧く映画です。

 ラブストーリーとしても最高の作品です。

 心の渇きを癒すには最良の映画ではないでしょうか。

 原田マハさん、中井監督、すばらしい作品をありがとうございました。

「暗幕のゲルニカ事件」が伝えたもの

 原田マハさんは、新潮社「波」のインタビューで「暗幕のゲルニカ」を書くきっかけについて問われ次のように述べています。

 「『ゲルニカ』には、油彩と同じモチーフ、同じ大きさのタペストリーが世界に3点だけ存在します。ピカソ本人が指示して作らせたもので、このうち一点はもともとニューヨークの国連本部の会見場に飾られていました(ちなみに1点はフランスの美術館に、もう一点は高崎の群馬県立近代美術館に入っています)。しかし事件は2003年2月に起こります。イラク空爆線や、当時のアメリカ国務長官コリン・パウエルが記者会見を行った際、そこにあるはずのタペストリーが暗幕で隠されていたのです。私はそれを、テレビのニュースで知りました。(中略)結局、誰が暗幕をかけたのかは未だにわかりません。アメリカがイラクに軍を向ける、その演説にそぐわないと考えた何者かでしょう。けれど、その何者かは『ゲルニカ』に暗幕をかけることで、作品の持つ強いメッセージを図らずも世界中に伝えることになったのです。」

 小説の中で、パウエル長官は、パワー長官となり、このように書かれてあります。

 「空爆を仕掛けると発表する場合の背景として、人類史上初となったゲルニカ無差別空爆を非難する絵はあまりにも不似合いだ。いいや、不似合いを通り越して、逆説的ですらある。世界の平和と秩序のために、悪の枢軸国家=テロリストと闘うアメリカが、一般市民を巻き込む無差別攻撃を行ったナチスと、まるで同じことをしようとしているかのようではないか。」

 原田さんの筆が「ゲルニカ」を通して叫びます。

 冒頭引用したインタビューに戻ります。

 「同じ年(2003年)の六月、スイスのバーゼルで行われた印象派の展覧会を訪ねたところ、会場のロビーにそのタペストリーが飾られていたのです!横には、暗幕の前でパウエル国務長官が演説をしている写真と、展覧会の主催者として大コレクター、エルンスト・バイエラー氏のメッセージがありました。『誰が(ゲルニカ)に暗幕をかけたかはわからない。しかし彼らはピカソのメッセージそのものを覆い隠そうとした。私たちはこの事件を忘れない』と。」

 更に、原田マハさんのインタビューの掲載します。

 「実際は、美術が戦争を直接止めることはできないかもしれません。それは小説も同じでしょう。けれど『止められるかもしれない』と思い続けることが大事なんです。人が傷ついたりおびえたりしている時に、力ではなく違う方法でそれに抗うことはできる。どんな形でもクリエイターが発信していくことをやめない限り、それがメッセージになり、人の心に火を灯す。そんな世界を、私はずっと希求していきます。」

 原田さんのこの考えに共感します。

 原田さんの「暗幕のゲルニカ」を読みながら、何度も表紙のゲルニカを観てパワーをもらっています。

 一人の政治家として、一人の川柳作家として、一人の人間として、平和を築くために何ができるのか考えていきたいと思います。

 私たちは「暗幕のゲルニカ事件」を決して忘れてはいけません。

 「暗幕のゲルニカ」は、50代の今の私に最もインパクトを与えた一冊になりました。

 原田さんすばらしい作品をありがとうございます。これからも、原田マハさんを応援していきたいと思います。

 

田植えが終わりました。

 今日、実家の田植えを母と妻と娘で行いました。

 午前8時30分過ぎからスタート。作業は順調に進み、午前11時40分頃に田植えは完了しました。

 (機械で植え残した所を植える作業を母と妻が午後行いましたが)

 父が亡くなって10年、私が田植え機を運転してきましたが、今日が最速でした。

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 父が亡くなり10年。ようやく機械に慣れてきました。

 原因の第一は、私が田植え機に慣れてきたことでしょうか。

 第二は、機械のトラブルがなかったことでしょう。

 第三は、家族の団結力でしょう。

 母は、植える順番を指示します。

 妻は、機械が植えられなかった所を手で植えます。

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 妻は苗箱運びと植え継ぎを頑張りました。

 運動会の代休で休みの娘は、写真撮影と植え終わった機械を高速洗浄機で洗うのを手伝ってくれました。

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 娘は写真撮影と田植え機の洗浄を手伝いました。

 天候にも恵まれて、気持ちよく作業を行うことが出来ました。

 今年も家族の協力で田植えが出来たことをとても喜んでいます。

 作業が早く終わったので、ポスターを倉庫に貼りました。

 「ウソとゴマカシのTPP断固反対」と書かれた政策ポスターです。

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実家の農業倉庫に貼った「TPP断固反対」のポスター

 日本の農業を守るため、これからも農家の末端を担って耕作を続けながら発言していきたいと思います。

 水稲農家の皆さん、田植えは終わりましたか。様子をお教え下さい。

西宇部小学校運動会

 昨日、小雨が降る中、西宇部小学校の運動会が行われました。

 雨でいくつかの競技が中止になる中で、子どもたちは、一つ一つの演技に真剣に取り組んでいました。 

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 5・6年生によるよさこい踊り、娘も頑張りました。

 印象的だったのは、小学校低学年が行った校歌ダンスです。

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 校歌ダンスを披露してくれた1・2年生

 36年前の開校当時、校歌に合わせたダンスがありました。

 保護者になられた卒業生がダンスを復元し、子どもたちが踊りました。

 当時の記録は、VHSなどに残されていましたが、伸びてみることが出来なかったそうです。

 様々なドラマを経て、子どもたちは、校歌ダンスを立派に踊ってくれました。

 今後は、デジタル化されたデータが残され、西宇部小学校の歴史に刻まれることでしょう。

 午前中にリレーを終わらせ、昼食休憩に。開放した体育館は一杯になりました。

 閉会式は、体育館で行われました。

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 私にとっても初めてだった体育館での閉会式

 私は、「運動会が短くなった分。児童の熱気が凝縮された大会でした。」と挨拶しました。

 小学校6年生の娘は、採点係を立派に務めきりました。

 PTA会長として、私にとっても、娘にとっても、小学校最後の運動会は、思い出に残るものとなりました。

 運動会の準備から様々にご協力いただいた皆様に感謝いたします。