13日のしんぶん赤旗日刊紙に「虐待死をなくして~結愛ちゃん事件を考える~」という特集記事が掲載されていました。
この中で、ルポライターの杉山春さんがインタビューに応じています。
「結愛ちゃんは朝4時に起きて字の練習をするように両親から強要されていました。子供の能力を超えるさまざまな課題。『教育虐待』のひとつといっていいと思います。」
「立派な家族や立派な親子の幻想にとらわれたとき『こうあるべき』と考える子ども像とかけ離れたわが子にたいして、否定的な見方や暴力につながってしまう。子どもの未熟さが自分の劣等感を刺激するのです。子育てがうまくできない親を批判する視線だけ強まると、家族は息苦しいことでしょう。とはいえ、子どもの安全は何より重要です。子どもも親も育てていくネットワークづくりが必要だと感じます。安易ではないかもしれませんが、国が予算をとってやっていくことが大切なのではないかと思います。」
杉山春さんから更に学ぼうと思い、杉山さんの近著「児童虐待から考える~社会は家族に何を強いてきたか~」を読みました。
最近、新書も年間何冊か読んでいますが、この本は、私が今年、最も刺激を受けた新書と言っていいと思ます。
杉山さんは、長年、児童虐待の事案を取材してきました。
取り分け、虐待死させた保護者に対する報道を耳にして、私も、「極悪人」などと思う場面もありました。
杉山さんは、子どもを虐待死させた保護者に共通する問題をこう書いています。
「彼らは、社会の規範を動かしてもいいという認識は持てなかった。つまり、規範を守らない人たちではなく、既存の規範から抜け出せないのだ。自分たちを大切にすることを誰からも教わらなかった。グローバル経済が生み出す格差社会の中で、労働と子育ての両立を家族単位で求められてきた。当初は夫婦の役割分担として。その後、一人ひとりの自助努力として。生きる力のある人たちは、そんなことは無理だと言い、知恵を絞る。周囲の力を借り、経済力を使い、公的支援を使い、自分の願いを実現する。だが、力の乏しい人たちは、周囲を動かすことができず、唯一思い通りになるわが子を痛めつけ、自滅する。」
杉山さんは、満州で生きた女性が終戦の混乱で性暴力に会い、自らの子を殺した場面をについても取材してきました。
現在の児童虐待との共通点についてこう書いています。
「社会のルールが消え、暴力だけが充満する時、性がむき出しになる。性の先にある、子どもの命が効きにさらされる。子捨て、子殺しが起きる、現代の、わが子を虐待死をさせてしまう親たちは、戦時の難民のようだ。精一杯子育てを頑張っている時期があり、それができなくなることで、ネグレクトが起きる。言い換えれば、社会の規範の中で子どもを育てつつ、生きることができなくなったと思ってしまった時に子殺しが起きるのだ。子育てには家族という器がいる。だが、家族の凝集力が失われたしまった現代では、産業社会の変化により、力の乏しい者たちが粒のように漂流していく。」「社会が押し付けてくる神話を、力の弱い者たちは信じ込む。そして、そのように生きようとする。だが、足場を外された時は無残だ。」
杉山さんは、その上、政治の役割を次のように書いています。
「政治を担当する者たちは、現実に何が起こっているのかをよく見て、社会をどのようにデザインするのか。その力量が問われている。」
更に、杉山さんは、「新しい子育てを社会で作る」意味を次のように書いています。
「かつて家族には、財産と家業を次代に送る役割があった。だが、財産や家業を持たない者にとって、家族とはカップルが出会って別れる一代限りのものだ。子どもが生まれ、育ち、巣立ち、それぞれ命を生き、家族は閉じる。ただし、支えをもたない家族は、一代さえももちこたえられない。経済のグローバル化の中で、家族は流動化して、人は砂つぶのようだ。その砂つぶの周辺に子どもが生まれる」「虐待死させる親たちは、詳しく目を凝らせば、『極悪人』というよりも、社会の様々な支援から遠ざかった不遇の人たちだ。むしろ、古典的な家族の形しか知らず、新しい家族に関する価値観にアクセスできず、それでも家族にこだわり、閉じこもった人だ。そして、実は、誰もが子どもを育てたいと願っていた時期があるのだ。」
杉山さんは、家族規範を強める傾向を次のように諫めます。
「自民党が成立を目指す『家庭教育支援法案』は、まさしく古典的な家族規範を実践することを家族に求めている。」「家族がそうした子育てをしなければ法律違反ということになる。だが『良い家族』『正しい家族』を求め、評価したことろで、『良い家族』『正しい家族』は生まれるだろうか。」
家族の形態が劇的に変化している中で、新しい形態の家族を支えるシステムの構築が急がれています。
虐待死の事案からしっかり学び、公的ネットワークを強めることが必要だと思いました。
杉山さんから今日の家族の置かれた局面を教えられた想いがします。
今後とも杉山春さんの著作から多くの事を学びたいと思います。
皆さんも是非、朝日新書「児童虐待から考える」をお読みいただければと思います。
児童虐待についての皆さんのご意見をお聞かせ下さい。
「笑伝塾塾長」・殿村正明さんの「話が面白い人 オモロない人」を読みました。
子どもの頃からお笑い番組が大好きで、政治家になって30年近くになってきましたが、最近、いかに話を分かりやすく、面白く伝えるかを考えています。
一方的にお話するのではなく、相手の反応を見て改良する。いつもベストはありませんが、話をいかに面白くするかの本には関心があり、時々チェックしています。
そのような中、出会ったのが、「笑伝塾塾長」・殿村正明さんの「話が面白い人 オモロない人」です。
殿村さんは、吉本総合芸能学院入学。「NSC11期生」。「オール阪神・巨人」に弟子入りし、プロのお笑い芸人を経験した方です。
「ツカミ」「ボケ&ツッコミ」「アクション」「喩え力」「ネタ作り」「プレゼン力」どれも参考になります。
殿村さんは、プレゼンの所では「『話をそつなく進めること』にばかり気をとられ、聞き手がどんな表情でいるのか見ていない。だから、自己満足な喩えをして、会場内に『???』が飛び交っていても、気付かないでどんどん話を続けてしまうんです。これでは、笑いも起きないし、多くの人に共感を呼ぶプレゼンはできません。」と書いています。
私の仕事にもとても活きる言葉です。
ネタの組み立て方は、「導入フレーズ」「フリ」「オチ」だと「笑い」の秘伝も書かれてありました。
ネタ帳を持って、常に面白いことを追えという話も参考になります。
これからは、ネタ帳を持って、「喩え力」「プレゼン力」をスキルアップしたいと思います。
皆さん、話し方についてお教え下さい。
昨日、山口市内で日本共産党の田村智子副委員長・参議院議員を迎えて演説会が行われ、700名の市民が参加しました。
山口市内での演説会で講演を行う田村副委員長
以下、今朝のしんぶん赤旗日刊紙を引用しながら、内容を紹介します。
児童文学者作家で県総がかり行動やまぐちの共同代表の那須正幹さんと弁護士で市民連合@やまぐち事務局長の松田弘子さんが、あいさつを行いました。
那須さんは、「自民党議員が多すぎる。減らさない限り、好き勝手する」と来年の参議院選挙で野党統一候補の実現へ努力すると表明しました。松田さんは、会場の熱気に「安倍首相に見せてやりたい多さだ」「即時原発ゼロを求める共産党に期待している」と述べました。
田村副委員長は、野党4党で国会に共同提出した「原発ゼロ基本法案」など野党共闘の大きな前進と挙げ、共闘は党綱領の方針だと紹介しました。「連合政権をめざし、新しい政治の主人公になろうと声を広げよう」と呼びかけました。
来春の県議候補を始め、統一地方選挙や中間地方選挙の候補者が紹介されました。
私も参加者の皆さんに挨拶しました。
演説会後、田村副委員長は、県内での豪雨災害の被害状況の聞き取りを行いました。
日本共産党は引き続き大小の演説会を各地で行う計画です。
日本共産党の話を聞いてみたい方は、是非お声をかけて下さい。
様々なご要望をお聞かせ下さい。
昨日、日本共産党山口県委員会の議員・予定候補者研修講座で「科学的社会主義」を学びました。
講師は、元山口県委員長の加藤碩さんでした。
マルクスは、はじめて「格差と貧困」の根源をつきとめたと加藤さん。
不破哲三著「マルクスは生きている」にはこう書かれています。
「『はたらけど/はたらけど猶わが生活/楽にならざり/じっと手をみる』これは、歌人石川啄木が、明治の末年、自分の貧しい生活の思いを詠んだものですが、長く続く不景気に言論の自由への暗い弾圧が重なって、『時代閉塞』のゆきづまり感が広がっていた当時の日本で、多くの人びとの共感を呼んだことでしょう。いま、日本でも世界でも、おそらく啄木がこの歌を詠んだとき条の深刻さで、貧困と格差が大問題になっています。2008年は『ワーキング・プア』の言葉とともに、人間らしい生活からしめだされた『難民』現象が、社会のあらゆる分野に広がりました。年末以後は、各産業で『派遣切り』や『雇い止め』がこれでもかと続いています。高度な経済を基盤にした文明社会であるはずの現代社会で、なぜ貧困と格差が広がるのか。どこにその原因があるのか。社会のどこを変えたら、そういう不合理をなくせるのか。140年前に、この大問題に明確な回答をあたえたのがマルクスです。」
不破哲三さんが「マルクスは生きている」を書いたのが2009年。この約10年間で更に「格差と貧困」は拡大しています。
今日、8人の大富豪の富と世界全人口の下層半分の36憶人の収入が同額になるほど「格差と貧困」が拡大しています。
格差の根源は、生産過程から生じる「搾取」にあると加藤さん。
剰余価値を追求する資本主義の搾取欲には際限がないと加藤さん。
その上で、資本主義的搾取の現場から次の社会の担い手が生まれると加藤さん。
マルクスの理論は今日でも生きていることを実感する学習会でした。
これからもマスクスの理論から資本主義の格差と貧困の原因と解決方法について学んでいきたいと思います。
皆さんはなぜ「格差と貧困」が広がるとお考えですか。
11日の朝日新聞は、愛媛県西予市野村町の浸水被害で5人が死亡した事案を報じていました。
「大雨が続く7日朝、愛媛県西予市野村町を流れる肱川の水かさが、一気に増えた。水流が堤防を越え、約650戸が浸水。住民5人が命を落とした。」「その直前、約2キロ上流にある多目的の野村ダム(高さ60メートル・長さ300メートル)の放流量が急増していた。国土交通省四国整備局によると午前6時20分にダムは満水になりかけていた。当時、毎秒439立方メートルを放流していたが、上流から1279立法メートルが流れ込み、あふれる危険が高まっていた。放流量を増やし、午前7時50分には4倍の1797立方メートルに達した。流入量は10分前に、過去最高の2・4倍にあたる約1940立方メートルまで増えていた。流入量まで放流量を増やす措置は『異常洪水時防災操作』という。西予市よると、整備局あらこの操作を始める見込みを最初に伝えられたのは7日未明のこと。避難情報の検討をした後、午前5時10分に防災行政無線で住民に避難指示を周知した。」
北海道大学大学院の山田朋人准教授(河川工学)は、朝日新聞のインタビューで「堤防や遊水地の整備など複合的な対策のほか、ダム関係者と地域との水害に備える訓練も大切になってくる」と指摘しています。
宇部市内には、厚東川ダム、真締川ダム、今富ダムなどがあります。
愛媛県の事案を教訓に、ダム下流地域住民と県や市が、水害に備える訓練などを行う必要があると思います。
厚東川を例に考えてみます。
2005年に県は、厚東川の浸水想定区域図を示しています。
浸水は、厚東地域の一部、西宇部、厚南、黒石、原の昔の開作地域は全て浸水地域に入っています。浸水の影響が及ぶ人口は、数万世帯に及ぶ規模です。
厚南地域の開作地域に住んでおられる方は、是非、厚東川浸水想定区域図をご覧になって万が一に備えていただきたいと思います。
2006年に、県厚東川ダム管理事務所長と宇部市長が「厚東川ダム放流警報装置を利用した災害情報等の伝達提供に関する協定書」を交わしています。
厚東川に警報所は8か所あります。
①厚東川ダム警報局②木田橋警報局③車地警報局④吉見警報局⑤持世寺警報局⑥末信警報局⑦広瀬警報局⑧厚南警報局
警報施設は通常は、ダム放流の情報を提供するものですが、洪水被害等の発生が予想さっる場合に、警報施設を活用して、災害情報を伝達しようとするのが、上記の協定書の目的です。
警報局が、人口の多い、厚南地域に1か所というのは少なすぎると私は感じます。
私の家から一番近い警報局が広瀬警報局です。豪雨時、警報が鳴っているのを耳にしたことがあります。
警報と同時に、これら情報をどのように個々の住民に届けていくのかが重大です。
愛媛県のケースは、防災行政無線で住民に避難指示を出していたのに、5名の方が亡くなっておられます。
宇部市は、防災行政無線を保有していないと理解しています。
防災メールを宇部市は市民に登録するよう推奨していますが、全員への徹底は困難です。
災害時に支援が必要な人の把握はされていると思います。その方にどのように情報を届けるのか、自主防災組織の活用を含めて、災害を想定した訓練が必要だと感じました。
厚東川では、堤防未設置地域である厚東川の沖ノ旦・末信地域4キロの堤防が一日も早く設置される必要があります。
厚東川支流の樋門やポンプ施設のチェックも必要です。
今回も支流流域で多くの被害が発生しました。本流が満水になった場合、支流の水をどのように排水するのか、山口県や宇部市でも対応すべき箇所は多数あると思います。
愛媛の事案を教訓に、災害のない、今、ハード、ソフトで対応すべきことは対応しておくが必要だと思います。
厚東川ダム流域の皆さん、その他のダム流域の皆さんのご意見をお聞かせ下さい。
龍谷大学校友会山口県支部創立30周年記念講演が浄土真宗本願寺派山口別院で行われました。
講師は、作家の五木寛之さんでした。五木さんの作品はいくつか読み、是非一度、お話をお聞きしたいと思い、初めて直接お話をお聞きしました。
五木さんは、40代で休筆し、龍谷大学で仏教の勉強をします。
その後、「他力」、「蓮如」や「親鸞」など仏教に関する様々な著作を残します。
五木さんは、講演の中で、「人生100年時代、50歳位で新しいことを学習することが大切」と話しました。
私は、ちょうど50歳の時に、浄土真宗本願寺派のお寺の総代長を引き受け、現在、山口教区会議員を務めています。
これからも、仏教をしっかり学びながら人生を謳歌したいと思います。
私の仏教の師の一人が五木寛之さんです。これからも五木さんの著作からしっかり学んでいきたいと思います。
五木寛之さんの近著「デラシネの時代」を読了しました。
「デラシネ」とは、「根無し草」の意味。難民や「漂流者」を意味する言葉です。
五木さんは「航海者の思想よりも漂流者の思想を」として、次のように書いています。
「航海者はい行く先が決まっていて、そこへ行くために全力を尽くせばいい。そこには理想もあれば希望もある。一方、漂流者というのはどこへ行くのか、今自分がどこにいるのかもわからないまま、生き抜いていかなければならない。そのためには気象の変動を常に確かめつつ、不屈の気概を持って流れ動いていく必要があるような気がしてなりません。もはや何かにしがみついていればいいという時代ではない。確固たるものが見えないなかで、この世をさまようデラシネとしてどう生きていくのか。」
この本を西日本豪雨災害の最中に読んでいました。
五木さんの「慈悲とは何か」という小論に心を打たれました。
仏教は、智慧と慈悲の教えと言われてきた。
智慧は、「四苦八苦と言われる人生でどのような苦を乗り越え、解決していくか」の知識。
慈悲の慈は、「励まし」。
五木さんは「悲」について、「悲は慈のよに励まさないし、がんばれとも言わない。言葉を発しないのです。自分が辛くて悲しいということではなくて、痛んだり病んだりしている人のそばに行き、その人の痛みや苦しみの幾分かでもいいから引き受けて軽くしてあげたいと願うのが悲の心です。痛みや苦しみとうのはその人だけのもので、他人が背負うことはできない。苦しみの半分を引き受けられるというようなものではありません。そのことをわかったうえで、その人の痛みや苦しみに共感共苦して少しでも軽くしてあげたいと願う。だけども、それができないという己の無力さに気が付いたときに、人は思わず『ああ』という深い溜息をつく。それが仏の心であり、悲なのです。」と書いています。
この度の西日本豪雨災害は、200人近い死者と50人を超える安否不明者が生まれる未曽有の災害となりました。
亡くなられた方の年齢を見ると私の子どもたちと同世代の人も多数おられます。
ご遺族の方にかける言葉がありません。己の無力さに気づき「ああ」と溜息をつくばかりです。
心からお悔やみを申し上げます。