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歌われたのは軍歌ではなく心の歌

 7月18日聖路加国際病院名誉院長の日野原重明さんが105歳でお亡くなりになられました。

 山口県の湯田でお生まれになったということで、親しみを感じていました。

 心からご冥福をお祈りいたします。

 日野原さんは、2000年に75歳以上を老人と定義しようと「新老人の会」を発足させました。

 「新老人の会」の活動の一つに、戦争中や戦争直後の自分たちの生活体験を描写・記録し体験集としてまとめることがありました。

 「新老人の会」の戦争体験記録集を一冊の本にしたのが、「新老人の会」編「歌われたのは軍歌ではなく心の歌」です。

 日野原先生は、昭和16年に聖路加国際病院に赴任されます。結核の後遺症があり、軍隊への召集はありませんでしたが、昭和20年の東京大空襲の時に、医師として患者に対応します。

 日野原先生は、この時のことをこう書いています。

 「3月10日の大空襲は、地獄のようでした。大勢の患者さんが来院しても薬がなく、新聞紙を燃やして、その燃えカスを患部に振りかけて分泌物を吸収するしかありませんでした。」

 日野原先生は、これらの経験を経てこう書いています。

 「私は戦争体験をして空襲を受け、戦争のつらいこと、ミゼラブルなことを体で感じているから、戦争は世界のどこの国であっても決してあってはならないことだということを強く信じるのです。戦争というのは人をクレージーにしてしまうほど大変以上なことだから、これをないおうにするには、今の子どもが成長した時に、その世界がくるように、私たちは、子どもの教育に私たちの戦争体験をそのまま話して、今でも戦争に苦しんでいる人たちをなくすために、日本だけでなく外国にも出かけて行って、平和を守る意欲を持った第三世代の人をつくりたいと思うのです。」

 「戦争をするなということよりも、命を大切にするということを、シュバイツァー博士が蟻一匹でも殺すのはいやだと言ったヒューマンな気持ちを子どもに植え付けることによって、心からなる愛と平和の心をもっと心に強く芽生えさせるように、私たちの経験を伝えることがわれわれの使命であると思います。そのためには人から受けた過ちは許し、お互い愛しましょうと言いたいのです。そういう場合には強い国や弱い国を許さないと駄目です。そういう意味で、アメリカにも許しの気持ちがないと今のイラクなどとは百年戦争になります。」

 日野原先生は、1911年(明治44年)生まれでした。

 この本で戦争体験を語っておられる方は、1920年前後(大正9年)です。

 現在90歳後半の方々です。

 戦争を体験された方のお話しを直接お聞きする機会は少なくなりましたが、こうして活字になれば、将来にわたって戦争の事実を知ることが出来ます。

 紹介できませんでしたが、お一人お一人の経験は、まさに筆舌に尽くしがたいものばかりです。

 戦争を知らない私たち以降の世代がしっかり語り継いでいきたいと思います。

 日野原先生の命を大切にする戦争のない世界をの遺志を私たちはしっかり受け継いでいきたいと思います。

 これを契機に日野原先生の著作を少しづつ読んでいきたいと思います。

相模原 障害者殺傷事件1年

 19人の障害者の命が奪われ、27人が重軽傷を負った相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」の事件から昨日で1年がたちました。

 犠牲となった方々のご遺族の皆さまへ哀悼の意を申し上げたいと思います。

 「民医連医療」8月号に、岐阜大学の竹内章郎さんの「現代における優生思想の克服と真の共生のために~相模原事件をきっかけに~」と題する講演録が掲載されていました。

 竹内さんは、今回の犯人の言説と同じ内容の記述を含む本が、ナチス政権誕生前夜のドイツで出版されてることを指摘します。

 「今回の犯人の言説とほとんど同じ内容の記述を含む著名な本が、1920年にナチス政権誕生(1933年)に先立ち、刑法学者K.ビンディングと、精神科医A.ホッヘによって刊行されています。そこには、『重度の知的障害をもった存在は瓦礫の山』『殺したところで、誰も悲しまない』『そういう存在は社会の負担、お荷物になっている』といった記述があり、本の大明が『生きる価値のない命とはだれのことか』となっています。」

 ナチス政権は、ユダヤ人を約800万人虐殺したことは有名ですが、竹内さんは、ユダヤ人殺害の予行演習(T4政策)として、重度障害をもつ20万強の人をナチスは殺害した事実を明らかにします。

 その上で、竹内さんは、「我われ個々人自身にも浸透しかねない優生思想の問題があり、これの広がりをまずは押さえる必要がある」と指摘します。

 竹内さんは、優生思想と新自由主義の一体化を指摘します。竹内さんは、「新自由主義の大御所ハイエクは、市場秩序に適合的でない人間の健康を守ることを事実上、否定しています。また、私的所有物としての能力把握により、能力の劣ることやそれに基づく処遇も自己責任とする思想が新自由主義にあり、これは優生思想と一体なのです。」と指摘します。

 竹内さんは、優生思想について「優れた者の称揚と、劣った者の排除が一体となることが優生思想の恐い点で、ここから優生思想は、我われの日常社会にも入り込んでくるのです。」と指摘します。

 竹内さんは、13世紀の神聖ローマ帝国のフレデリック2世が命じた恐るべき実験を紹介します。

 赤ちゃんに授乳やおしめの取り換え、日光浴、室内の温度調整は行いつつ、微笑みかけなどのコミュニケーションは一切行いません。そうすると赤ちゃんは、1歳未満で一人残らず死んでしまいました。

 竹内さんは、「他者からの働きかけがあって、初めて維持され生きる能力になるということです。全ての能力の根源は共同的なものだということです。」と語り、能力を私的所有としてのみ捉える「優生思想」の問題点を指摘しています。

 竹内さんは、「病者、障がい者を真に受容しながら、同時に本当に病気や障がいの治療や軽減も重視できるような、両者が矛盾しない営みを可能にするような社会・文化、これはなかなか難しいのですが、そうした営みを少しでも構想し進める必要があると思います。」と講演で語っています。

 能力は私的所有ではなく、共同的なものという指摘は重要だと思いました。

 「優れた者の称揚と、劣った者の排除」する社会の構造を理解し、この構造を少しでも克服する社会を構想していく必要を感じます。

 私は、大学で「障がい者福祉」学びました。障害者殺傷事件から1年が経過しましたが「意味なき命はない」ことが日本で広がることを願います。

 「津久井やまゆり園」の事件から1年が経過しました。

 皆さんはこの事件をどのようにお考えですかお教え下さい。

 

和顔なれど愛語ならぬ首相答弁

 昨日の参院予算委員会で、学校法人「加計学園」獣医学部新設の疑惑をめぐり午前中の民進党の蓮舫議員の質問と、午後の日本共産党の小池晃議員の質問をテレビで視聴しました。

 安倍首相は、愛媛県今治市に国家戦略特区を活用して獣医学部を新設する計画の対象が「加計学園」であることを知ったのは、「今年1月20日だ」だと答弁しました。

 今年5月9日の参院予算委員会で森ゆうこ議員が「加計孝太郎氏が今治市で国家戦略特区による獣医学部新設の希望を持っていることを知ったのか。」との質問に対し、安部首相は「加計学園が、当然これは特区に申請を今治市が出し、特区に申請した段階において東京から説明を受けているわけで、その段階で当然総理大臣として知りえた。」と答弁しました。

 今年6月5日の参院決算委員会で平山佐知子議員が「大親友である加計さんが、ずっと獣医学部を新設したという思いであったことは当然ながら知っていただろう。」との質問に対し、安部首相は「これは安倍政権になってから、国家戦略特区に、その申請を今治市とともに出された段階で承知した。」と答えました。

 安倍首相は、今治市が申請した、2015年6月には、加計学園が獣医学部を新設しようとしていることを知っていたとこれまでは答弁していたのに、昨日の予算委員会で、知ったのは、「今年1月20日」だと答えました。

 小池議員は、「明らかな虚偽答弁」と指摘をしましたが、私も全く同感です。

 今朝のしんぶん赤旗の朝刊に、中祖記者が、このような「虚偽答弁」が生まれた背景をこう分析しています。

 「首相の意図は見え透いています。昨年9月以降、和泉洋人首相補佐官や内閣府、萩生田光一官房副長官などが文部科学省に対し、加計学園の獣医学部新設認可を早急に進めるよう強い圧力を加え続けたことが鮮明になる中で、『首相は関知せず』という、『ストーリー』をつくり、自分を守ることを最終戦にするものです。」

 安倍首相は、「丁寧な説明」「(政策決定には)一点の曇りもない」を口では繰り返します。

 実際に、この二日間の衆参両院の予算委員会での安倍首相の発言態度は、「声を荒らげる」ことも「挑発する」こともなく「和顔」だったのかも知れません。

 昨年の8月末から9月にかけて、加計孝太郎氏が、山本農水大臣、山本地方創生大臣、松野文科大臣に面会していることが、小池議員の質問で明らかになりました。

 安倍首相は、この時期に何度も加計孝太郎氏と会食・ゴルフを行っているのに、加計学園が事業主体と知ったのは、今年1月20日だといいう説明に納得した国民はいなかったのではないかと思います。

 真実を語らない安倍首相の姿勢は、「安倍政権の自浄能力は示されず、法治主義の崩壊状況を露呈する」と中祖記者が今朝のしんぶん赤旗で指摘した通りです。

 安倍首相の昨日の答弁は、国民に対し「和顔なれど愛語ならぬ」答弁と言わなければなりません。

 真実を語らない「和顔」は、国民の不信を一層深める結果になるでしょう。

 安倍首相は、真実を語るべきです。加計学園が事業主体だと知ったのは、「今年1月20日」などとする答弁は撤回すべきです。

 皆さんは、加計学園問題での安倍首相の発言をどう受け止めましたか。感想をお聞かせ下さい。

 

ノーベル平和賞の劉暁波氏死亡

 昨日の朝日新聞の「MONDAY解説」で「ノーベル平和賞の劉暁波氏死亡」が特集されていました。

 朝日新聞の解説は、「劉氏が亡くなった翌日の14日、北京中心部にある天安門広場に行った。1989年、民主化を求める学生らを前に、劉氏が銃をたたきつけ、非暴力での民主化運動を訴えた場所である。広場はいつもと同じように、多くの観光客でにぎわっていた。地方から来た人たちに、『劉暁波』と書いたメモを見せて尋ねた。『知っていますか』。みなけげんそうに首を振った。共産党政権は劉氏に関する情報や党に批判的な言動を徹底的に消去している。市民がお金を稼いだり、海外に行ったりする自由は広げる一方で、共産党に異論を唱える人々に対しては自由を奪い、私的な会合も許さない。北京の外交筋は『習近平指導部になって、言論状況はさらに悪化した』と口をそろえる。」「文化大革命末期の76年の第一次天安門事件では、周恩来の死を悼む人々が天安門広場に集い、無言の抗議をした。89年の天安門事件も、始まりは失脚した胡輝邦元総書記の追悼だった。歴史学者の章立凡氏は指摘する。『当局は政治改革を話し合える穏健な理想主義者さえも消し去っている。ここまで抑圧が強まった社会では、もはや平和的な民主への意向は難しくなっているのではないか』」と書いています。

 日本共産党は、中国に対し、言論による体制批判には、それを禁止することなく、言論によって対応する政治制度への発展が重要だと、

ことあるごとに伝えてきました。劉氏の弾圧についても志位委員長が、2010年の赤旗まつりで、中国が国際人権規約などの国際的到達点に立ち、「国際社会の理解と信頼を高める対応をとることを強く望む」と述べていました。

 2010年の赤旗まつりでの志位和夫委員長の発言は以下の通りです。

・・・

 劉暁波(りゅうぎょうは)氏のノーベル平和賞受賞などにかかわって、中国における人権問題が国際的注目を集めています。この問題についてわが党の態度をのべておきたいと思います。

 日本共産党は、中国における政治体制の問題として、将来的には、どのような体制であれ、社会に本当に根をおろしたと言えるためには、言論による体制批判に対しては、これを禁止することなく、言論で対応するという政治体制への発展を展望することが、重要だと考えるという立場を、1998年の中国共産党との関係正常化以降、中国にたいしてたびたび率直に伝えてきました。言論による体制批判には言論で対応する政治体制への発展を展望することの重要性を、ここで重ねて強調しておきたいと思います。

 くわえて、人権保障に関する国際政治の到達点にてらして、私は、つぎの点を強調したいと思います。

 かつては人権問題――各国家が自国民の権利をどのように扱うかは、もっぱらその国の主権に属する内政問題として扱われました。しかし、とくにファシズムと軍国主義による人権蹂躙(じゅうりん)が第2次世界大戦に結びついたという歴史の教訓を経て、世界の平和維持のためにも、各国の国内で人権が保障される体制をつくることが必要だと考えられるようになり、そのための一連の国際的な取り決めがなされてきました。

 中国も、それらの国際的取り決めを支持・賛成してきています。中国は、1948年の世界人権宣言を支持し、1966年に国連総会で採択された「市民的及び政治的権利に関する国際規約」――言論・表現の自由を含む広範な市民的・政治的権利を増進・擁護する責任を明記した国際人権規約に署名しています。

 さらに、中国は、国連総会決議にもとづいて1993年にウィーンで開催された世界人権会議が採択したウィーン宣言にも賛成しています。ウィーン宣言は、つぎのように明記しています。

 「国家的および地域的独自性の意義、ならびに多様な歴史的、文化的および宗教的背景を考慮に入れなければならないが、すべての人権および基本的自由を助長し保護することは、政治的、経済的および文化的な体制のいかんを問わず、国家の義務である」

 ここには二つの原則がのべられています。

 一つは、自由と人権の発展は、それぞれの国によってさまざまなプロセスをとり、「多様な歴史的、文化的および宗教的背景を考慮」すべきであって、特定のモデルを性急に押し付けるような態度を取るべきではないということであります。

 いま一つは、しかし同時に、人権と基本的自由は普遍的性格をもっており、すべての人権と基本的自由を「助長し保護する」ことは、「体制のいかんを問わず、国家の義務である」ということであります。

 これは人権保障における国際社会の重要な到達点をなすものだと私は考えます。

 私たちは、中国が、これらの国際的到達点に立ち、人権と自由の問題に対して、国際社会の理解と信頼を高める対応をとることを強く望むものであります。

・・・

 中国の民主化を訴え、ノーベル平和賞を受賞した劉暁波氏が亡くなりました。皆さんのご意見をお聞かせ下さい。

フルフッキン

 プロトレーナー・中村勝美さんの「1日1回の腹筋でお腹を凹ませる方法」を読んで中村さんの理論に惚れ込み、今、「1日1回でお腹が凹む!完全腹筋メソッド」を読んでいます。

 中村さんの近著で紹介されている「これだけフッキン」よりも、この本で紹介されている「フルフッキン」の方が動作は難しいですが、分かりやすく、大胆で、続け易いと思い、ここ数日、実践しています。

 「フルフッキン」は、「立ち姿勢から始まって、座り姿勢、仰向けと態勢を変え、さらにそこから脚を上げ下げして、再び座り姿勢になって、最後は立ち姿勢で終わります。」というものです。

 仰向けに寝た姿勢で腰を折り脚を出来るだけ頭より上の床に近づけます。

 その動作が難しいですが、大胆で、分かりやすく、続けるやりがいにつながっているようです。

 この本の中に「ダメ姿勢」が書かれてあります。

 ①後ろ体重で背中は肩から丸まり、お腹は緩んでいて、ももの付け根でバランスをとっている猫背タイプ

 ②反り腰でお腹を突き出し、前体重の出っ腹タイプ。

 私は、典型的な①のタイプで、意識しないと、肩甲骨が凝り固まってしまいます。

 この本は、まず「正しい姿勢」とは何かが説かれあり、「フルフッキン」を行うことができるバランスよく筋肉を鍛える方法が多数書かれてあります。これらストレッチを空いた時間に行っています。

 肩甲骨を解す体操をしていると、肩の周りがゴリゴリ音がするほど凝っていたことが分かりました。

 股関節の固さも痛感しています。

 1日1回「フルフッキン」体操を行いつつ、空いた時間に紹介されているストレッチを続けたいと思います。

 何よりも、背筋を伸ばし、お腹に力を入れて正しい姿勢を意識して、日常を過ごしていきたいと思います。

 この本にこんな文章が出てきます。

 「いまの自分から未来の自分をイメージしてみて!まじめな気持ちで向き合いことによって、変えていくための力は湧いてきます。」

 4年以上続けている「スロージョギング」に「フルフッキン」を加えて、少しでも快適な毎日にしていきたいと思っています。

 2017年7月22日が、私の「フルフッキン」開始日です。今日で3日目。3日坊主は過ぎました。

 「継続は力です。」

 

金子みすゞいのち見つめる旅

 上山大峻さんの「金子みすゞがうたう心のふるさと」を読んで、改めて、郷土の童謡詩人・金子みすゞの偉大さに感服しているところです。

 最近、中川真昭さんの「金子みすゞいのち見つめる旅」を読み、金子みすゞの人生に感服しました。

 中川さんは、朝日放送に勤務しながら児童文学の創作活動を続けられた方です。

 現在は、奈良県橿原市・浄念寺の住職をされています。

 この本を読んで、みすゞさんと正祐さんとの関係に想いを馳せることが出来ました。

 正祐さんは、みすゞさんの弟です。正祐さんが一歳の時、みすゞさんのお母さんのミチさんの妹フジさん夫妻の養子として入籍しました。

 みすゞさんが16歳の時、お母さんのミチさんは、妹フジさんが病死した後、フジさんの夫、松蔵さんと再婚します。

 みすゞさんと正祐さんは、姉弟であることはふせられ、二人は従姉だと言い聞かせていました。

 みすゞさんは、宮本啓喜さんと結婚することになる訳ですが、その理由について、中川さんはこう書いています。

 「みすゞさんを自分の本当の姉と知らない正祐さんが、はた目にもそれとわかるような、淡い恋心をみすゞさんに抱きはじめたことでした。」

 正祐さんは、「宮本さんとの結婚には、絶対反対だ。振り回されるな」と手紙を書きます。

 みすゞさん23歳の時、宮本啓喜さんと結婚します。

 そして、みすゞさんの子ども=ふさえさんが産まれます。

 童謡を書くことをご主人から禁止されたみすゞさんは、3冊の手帳に「美しい町」「空のかあさま」「さみしい王女」と題して、作品を整理します。この3冊は二組作られます。一組は、師である西条八十さんへ、もう一冊は正祐さんへ。

 正祐さんは、みすゞさんの詩作3冊を大切に守り続け、矢崎節夫さんの目にとまり、みすゞさんの作品が発表されるに至ったのです。

 みすゞさんと正祐さんの関係性に涙が止まりませんでした。

 中川さんは、最後に「金子みすゞさんは、生涯、仙崎と下関を出ることはありませんでした。そこで生きとし生けるもののいのちを思い、そのいのちはすべて一繋がりであることを見つめ、生かされてある自分をみつめ、地球という大きな織物のタテ糸の一本にしかすぎない人間の、驕り、たかぶりにこころをいため、そして、どうしようもない人間の根源に自分の姿を重ね、そのなかで、哀しくも短い一つのいのちを終えていったのです。」と書いています。

 みすゞさんの有名な「大漁」などを想い浮かべながら、この文章を読むと、みすゞさんの詩の世界が見事に解釈されていることが分かります。

 みすゞさんと正祐さんとの関係性を詳しく論じたのが松本侑子著「みすゞと雅輔」です。

 雅輔とは、正祐さんのことです。

 正祐さんは、雑誌「映画時代」に昭和4年(1929年)から上山雅輔のペンネームで文章を書くことになりました。

 「みすゞと雅輔」は、正祐さんの「日記」が2014年に発見されたことなどを受けて丹念に書かれた作品です。

 今、「みすゞと雅輔」を読んでいます。

 大正から昭和の激動の時代を駆け抜けた、詩人と文筆家の揺れ動く心と作品をしっかり読んでいきたいと思います。

 みすゞ関連の本を読めば読むほど、「みすゞの世界」に陶酔していきます。

 「人間の驕り、たかぶりに心をいため」たみすゞの作品と関連の本をこれからも読み続けていきたいと思います。

 金子みすゞについて皆さんのご意見をお聞かせ下さい。