21日付の中国新聞に「模擬爆弾」の事が特集されていました。
「模擬爆弾」とは1945年8月の原爆投下に向け、米軍が訓練のため日本国内に投下した爆弾のことです。
「米軍は1945年7月20日~8月14日の6日間に50発を使用。49発は本州、四国の軍需工場などが狙われ、1発は東京都南の太平洋に登記されました。広島を想定し、周辺の愛媛県新居浜市(7月24日)宇部市(同29日)にも投下。8月9日以降は、攻撃用に使われました。全国の犠牲者は400人以上もいます。工藤(徳山工専元教授)さんは『模擬原爆は原爆の使用につながった。真相を究明し若い人たちに知らせていきたい』と話します。」
宇部市の空襲を記録する会は、1995年「宇部大空襲-戦災50年目の真実―」(以下、宇部大空襲)を発刊し、宇部市における模擬原爆投下の事実を明らかにしています。
「宇部大空襲」によると、模擬爆弾は宇部市に、1945年7月29日、3発投下されました。
「第1発目は、同日午前8時41分、宇部窒素肥料工場を標的に投下されましたが、目的をはずれて宇部市西海岸通1丁目付近に落下。二発目は宇部曹達会社(現 セントラル硝子)をねらい午前8時49分に投下し、同工場を直撃。3発目は日本発動機油会社を目標に午前9時2分に投下され、宇部市東海岸通(現、東本町1丁目)の梶山文作商店を直撃しました。」
宇部市の「模擬原爆」で何人が犠牲になったのかについて「宇部大空襲」は一定の解明を行っています。
米軍の戦略爆撃調査団の資料では、死者は、19名(1発目8人、2発目3人、3発目8人)
宇部警察沿革誌では、死者は、25人(傷者36人)
「記録する会」が資料から指名が明らかになった人と証言で死亡が明らかになった人を確認したところ、死者は、18名(1発目11人、2発目2人、3発目5人)
宇部市への模擬原爆の投下での死者は20名程度いたことは明らかのようです。
「宇部大空襲」では、宇部市での模擬原爆投下でお父さんを亡くされた工藤さんや長岡さんなどの証言が掲載されています。
「模擬原爆が投下された新潟県長岡市には「長岡戦災資料館」があり、模擬原爆の実物大模型を終戦70年の昨年から展示されていると中国新聞の記事にあります。
宇部市での「模擬原爆」が投下された事実を今後も後世に残していかなければならないと思いました。
中国新聞の記事は、「ヒロシマ、ナガサキだけでなく模擬原爆によって人々の命が失われた歴史を忘れてはなりません。」と結ばれています。
私は、宇部市民として、「模擬原爆」の歴史を残す役割を果たしたいと思います。
「模擬原爆」の投下について、皆さんのご意見をお聞かせ下さい。
17日付毎日新聞に作家・中島京子さんの発言が掲載されました。
「参議院選の期間中、インターネットのSNSで、たいへなんな勢いで視聴された映像があった。『創生(日本)』という超党派の議員団体が、2014年5月に開催した研修会を録画したものだ。(中略)映像の中では、自民党の閣僚経験者が『国民主権・基本的人権の尊重、平和主義の3原則はなくさないと』と発言していた。別の議員は『尖閣、軍事利用しましょう。』『いよいよ、ほんとに憲法を変えられる時が来た。これ以上延ばすことはできない』と言っていた。いずれの発言にも、会場から大きな拍手が湧いた。安倍晋三現首相の姿もそこにあった。」
「日本国憲法は(いまのところ)表現の自由を、そして、思想・信条の自由を保障している。だから、誰が何を言ってもかまわない。けれども、発言が誰からどういう文脈で為されたのか、そうした発言をする人たちが進めたい改憲とは何なのか、メディアはきちんと検証し、報道してほしい。それが責務だということを自覚していただきたい。私たちが、知らない、知りたくもない、知らされない、という状況の中で、無風と低投票率のうちに粛々と国民投票が終わり、憲法が変わる、などという未来は、想像したくない。」
今後とも、このような発言が、メディアから除外されることがないことを望みます。
中島京子さんの発言に勇気をもらいました。
みなさんは、中島さんの発言をどうお感じですか。お教え下さい。
県のHPの「在日米軍再編の概要」から恒常的な空母艦載機離発着訓練の検討状況を見てみます。
平成18年5月1日に合意された米軍再編に関する日米合意では、「恒常的な空母艦載機離発着訓練施設について検討を行うための二国間の枠組みが設けられ、恒常的な施設を2009年7月またはその後のできるだけ早い時期に選定することを目標とする」とされていました。
平成23年6月21日の日米安全保障協議委員会文書では、「日本政府は、新たな自衛隊の施設のため、馬毛島が検討対象になる旨地元に説明することとしている。南西地域における防衛態勢の充実の観点から、同施設は、大規模災害を含む各種事態に対処する際の活動を支援するとともに、通常の訓練等のために使用され、併せて米軍の空母艦載機離発着訓練の恒久的施設として使用されることになる。閣僚は、長年にわたる問題の解決は、同盟への極めて重要な前向きな貢献となると確認した。」とされています。
しかし、馬毛島のある西之表市では、馬毛島を空母艦載機離発着訓練の恒久的施設として使うことに対して批判が強く、施設利用の同意は形成されていません。
今朝の毎日新聞には、普天間飛行場の移転先として馬毛島を翁長沖縄県知事が訪問したと報じられていました。
毎日新聞は「西之表市は、19日、視察の真意について説明を求める文書を翁長知事宛てに郵送した」と報じています。
馬毛島のある西之表市は、普天間飛行場の移転先としての利用についても批判が強いようです。
さて、平成25年10月3日の日米安全保障協議委員会共同発表で、「第5空母航空団の岩国飛行場への移転が、2017年頃までに完了することを確認」とされています。
山口県は、県民の安全で平穏な生活を確保する観点から、「NLP(夜間離着陸訓練)実施は認められない」を基本スタンスの一つとして、今日まで堅持して対処しています。
岩国市では、来年に空母艦載機部隊が移駐する計画で、着々と各種工事が進められています。
空母艦載機部隊は、離発着訓練が欠かせません。爆音をまき散らす訓練をどこでやるのか、いまだに明らかにされていません。
当初「2009年7月又はその後のできるだけ早い時期に選定する」とされていた恒常的な空母艦載機離発着訓練施設は、現在までに設置の見通しが立っていません。
恒常的な離発着訓練施設の建設の見通しが立たないうちに、空母艦載機部隊を岩国に移駐すれば、「NLP(夜間離着陸訓練)実施は認められない」とする県の基本スタンスは堅持できなくなるのではないでしょうか。
県は、恒常的な空母艦載機離発着訓練施設の見通しが立つ前に、空母艦載機部隊の岩国移駐を認めるべきではないと思います。
この問題に関する皆さんのご意見をお聞かせ下さい。
先日、音楽好きの中3の三男がドリームズ・カム・トゥルー(ドリカム)を聴いていました。
吉田美和さんの歌声に圧倒されて、ベストアルバム「私のドリカム」を購入し、移動中の車の中で聴いています。
ドリカムは、19988年に結成された国民的音楽グループ。
今年、結成28年になります。私の20代後半からドリカムは常に身近にある歌でした。
しかし、CDを購入するのは今回が初めてです。
「私のドリカム」はCD3枚組で、全部で50曲入っています。
初めて聴く曲もありますが、「うれしい!たのしい!大好き!」「決戦は金曜日」「未来予想図」「LOVE LOVE LOVE」などなど、一緒に歌える曲が満載です。
どの曲も、歌よし、メロディーよしで、ドリカムが流れる車内は、快適です。
やはり、一番、ノリノリで歌っているのは、「何度でも」です。
この曲は、昨年の宇部市PTAコーラス交歓会出場のために、西宇部小学校PTAコーラス「グリーン・エコーズ」で歌った3曲の内の1曲。
コーラスで歌った歌は、何度も何度も練習しますので、歌詞が体の中にしっかり残っています。
「10000回だめで、へとへとになっても 10001回目は 何か 変わるかもしれない」
「この先も躓いて傷ついて終わりのないやり場のない怒りさえ もどかしく抱きながら どうしてわからないんだ?伝わらないんだ?喘ぎ嘆きながら 自分と戦ってみるよ」
「きみを叫ぶ声 力にしていくよ 何度も 明日がその10001回目かもしれない」
今の私への応援ソングNo1です。
歌詞は全て吉田美和さんによるものです。
28年間の音楽活動は順風満帆のように感じられますが、並々ならない挫折の後の成功だったことが「何度でも」の歌詞でよくわかりました。
50歳を過ぎて初めて買ったドリカム。この夏は、ドリカムの歌とともに快適に過ごしいこうと思います。
失敗をしても、私には「何度でも」があるのですから安心です。
ドリカムファンの大先輩の多くの皆さん。どの曲が好きですか。お教え下さい。
最近、道路関係で要望をお聞きしたいくつかの問題について経過を報告します。
第一は、市道松橋線への歩道設置についてです。
本市道に、7月下旬から歩道と縁石を設置する工事が行われる見通しとなりました。
本市道は、西宇部小学校の通学路になっており、当該地の前後は歩道と縁石の設置が完了していました。
この程、歩道と縁石の未整備区間で工事が行われるものです。
歩道と縁石の未設置区間で歩道が設置されることに
私は、県議会議員時代に、当該地区への歩道設置を要望していました。
歩道と縁石の設置を歓迎しています。
第二は、西宇部県営住宅の南側道路への亀裂修復についてです。
数年前から、西宇部県営住宅の南側道路に亀裂が生じていました。
西ケ丘自治会からの要請を受けて、私は県住宅課に改善を求めていました。
県と市が協議を行い、この程、修復工事が行われました。
西宇部県営住宅南側道路の亀裂が修復される
道路の南側は深い谷になっています。
引き続き、状況を注視し、新たに亀裂が生じる状況になりましたら、関係機関に改善を求めていきたいと思います。
第三は、宇部市万倉今富の県道小野田美東線隣接地で崖崩れが発生している問題です。
この間の大雨によって県道小野田美東線今富地区の県道小野田美東線隣接地で崖崩れが発生しました。
今朝、私は現地で、近所に住むかたから要望をお聞きしました。
県道小野田美東線の隣接地で崖崩れが発生
連休明けに私は、県土木建築事務所に崖崩れを改善するよう要望したいと思います。
皆さんの身近な要望を藤本にお届け下さい。
今日付けのしんぶん赤旗「日曜版」に、NHKの連続テレビ小説「とと姉ちゃん」が特集されています。
「とと姉ちゃん」は、ヒロインが雑誌「あなたの暮し」を創刊する場面に入りました。
ドラマのモチーフになったのは、「暮しの手帖」。モデルは、名編集といわれた花森安治さんと社主であり編集者でもあった大橋鎭子さんです。
しんぶん赤旗「日曜版」では、通算42年「暮しの手帖」編集部に在籍した河津一哉さんのインタビューが掲載されています。
「暮しの手帖」の原点について、河津さんは、「原点とは、終戦の年、花森さんと鎭子さんが交わした約束です。『女の人たちのための出版をしたい』と話す鎭子さんに、花森さんはこう言います。『戦争は恐ろしい。なんでもない人たちを巻き込んで、末は死までに追い込んでしまう。戦争に反対しなくてはいけない。君はそのことがわかるか・・・』『戦争をしない世の中にしていくための雑誌作り』は、こうして始まりました。戦中、大政翼賛会で国策宣伝に従事し、戦争推進に加担した花森さん。罪滅ぼしを仕事でしめした。花森さんは、そんな人でした。」と語ります。
同じ記事で、大橋鎭子さんと親交のあった脚本家の小山美江子さんがこう語っています。
「花森さんは、戦前、大政翼賛会の宣伝部にいて『進め一億火の玉だ』などの標語を世に出しました。戦後、『暮しの手帖』の編集にあたったのは、その深い反省でしょうね。いま安倍首相が、またぞろ『一億総活躍』でしょ。戦争の足音が迫っています。この雑誌を生んだみんなの思いを忘れちゃいけません。」
「暮しの手帖」は、1968年、戦争の記憶の風化を危ぶんだ花森さんが読者に「戦争中の暮らしの記録」を募集し、1736通の体験が寄せられました。
今こそ「戦争をしない世の中にしていくために」の花森さんや大橋さんの思いを大切にしなければならない時です。
NHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」の感想をお聞かせ下さい。