葉室鱗さんの存在は、昨年まではほとんど知りませんでした。
書店に「蜩ノ記」が置かれているのを見て、「読んでみようかな」と思ったことがあった程度です。
そして、「蜩ノ記」が第146回直木賞受賞。
それを報じる毎日新聞の葉室さんのインタビューが忘れられません。
葉室さんが大学4年生の時、「追われゆく坑夫たち」などで知られる筑豊の記録文学作家の上野英信さんを訪ねた経験があるそうです。
そこで、葉室さんは、インタビューに「僕が歴史の中の敗者を追うのは、弱者に優しい上野作品に引きつけられた若いころの思いが根っこにあるのかもしれない」と答えています。
この記事を読んで、葉室さんの作品を読もうと決意し、「蜩ノ記」「いのちなりけり」「銀漢の賦」を立て続けに読みました。
「蜩ノ記」では、羽根藩、「銀漢の賦」では、月ヶ瀬藩という九州の架空の藩の下級武士を主人公に生きる意味を読者に説きます。
「蜩ノ記」の秋谷と「銀漢の賦」の源五。受けた苦難に差はないと思われますが、対象的な結末です。
しかしながらどちらも佳作。映像化を期待します。個人的に、私は、源五の人生に憧れます。
葉室作品は、藤沢作品の海坂藩に通じます。
文庫「秋月記」の解説で、文芸評論家の縄田一男さんは、「現時点において、葉室作品は、藤沢氏のそれを超える可能性を持った唯一の存在である」と語っています。
私は、縄田さんの言葉を信じてこれからも葉室作品を読み続けていこうと思います。
「オール読物2月号」で「藤沢周平大特集」がありました。
藤沢周平が業界紙の記者だった時代のコラムが掲載されており大変興味深いものでした。
この特集に、葉室鱗さんが「ラスト一行の匂い」と題する文章を寄せています。
葉室さんは、「藤沢作品に描かれる藩の家老や出世したひとびとは、『万骨』の中のひとりとして生き、悲しみを負っている。その鬱屈や慟哭を見逃さない鋭い眼差しは、取材の中で培われた『記者の眼』だ」と書いています。
葉室さんも、地方紙の記者としての経験を持っています。「銀漢の賦」の中の将監が憎めないのは、葉室さんにも『記者の眼』があるからでしょう。
これらの葉室作品に大いに期待します。葉室ファンの皆さん。感想をお聞かせ下さい。
全国的にも、山口県内でも、インフルエンザが猛威を振るっています。
子どもたちが通う西宇部小学校でも今日現在63名の子どもがインフルエンザで欠席しています。
我が家でもインフルエンザは猛威を振っています。まず、り患したのが、三男。先週の3日(金曜日)にインフルエンザと診断され、7日の火曜日から登校しています。
次に、私がり患。日曜日の行事に参加中、背中に寒気が。月曜の朝には、咳症状もあり、受診。インフルエンザと診断されました。
火曜日から熱は下がったので、明日以降に仕事を再開しようと思っています。
次に、り患したのが、長男。火曜日の朝から高熱。私が病院に連れていくのも余りなので、妻が仕事を早退し、受診。インフルエンザと診断されました。
今日から熱は下がったので、順調にいくと、金曜日から登校できるでしょう。
そして、今日、り患したのが、次男。朝から咳をしてしていたのですが、今日帰って熱を計ったら38度を越えています。
私も病み上がりですが、一緒に受診。インフルエンザと診断されました。今、最初のタミフルを飲んで横になっています。
次男は、順調に熱が下がって来週から学校に行けるかどうかというところでしょうか。
り患していないのが、妻と長女。女性は強しという所でしょうか。
平熱になって、二日を経て、三日目に登校させるなど、親も落ち着いた対応が必要なのかも知れません。
私も月曜日、火曜日は、じっくり休むことができました。
読みかけの本も数冊読むことができました。
今、読んでいるのは、先日、直木賞を受賞した葉室鱗さんの本です。
受賞した「蜩ノ記」に感動し、「いのちなりけり」を読み、今日、「銀漢の賦」を読了しました。
次は、「秋月記」を読もうと構えています。
そして、今、読みかけにしていた山崎豊子さんの「運命の人」を読んでいます。文庫本の2巻をほぼ読み切ったところです。
ドラマも一回も欠かさず見ています。ドラマも3巻に話しが以降しそうなので、この休みに原作を読み進めておきたいところです。
病気をして健康のありがたさが分かります。
今回は、インフルエンザですので、周りに迷惑をかけてならないと少しゆっくり休みを確保しました。
眠りから覚め、読書して、眠る。そして、読書をして眠る。こんな時間も、時々必要ですよね。
「蜩ノ記」以来、読み続けている葉室鱗さんの作品については、明日あたり詳しく感想を書きたいと思っています。
中国新聞の昨日、「在沖縄米海兵隊のグアム移転に関する日米両政府の見直し協議をめぐり、米政府が日本政府に対し、沖縄からグアム以外に移る約3300人のうち、1500人前後を岩国市の米軍基地に移設、常駐させることを打診していたことが6日、分かった」と報道しました。
今日の朝刊各紙でも「在沖の海兵隊の一部を岩国へ」とする報道が大きく行われていました。
私は、この事実について県の認識を質しました。先程回答が帰ってきました。
まず、在沖縄米海兵隊のグアム移転に関する岩国基地への移転報道についてです。
県は、「2月6日夜、一部報道を受け、防衛省に事実確認を行ったところ、翌7日、「在沖海兵隊を岩国に移駐させることについて、日米間で協議は行っていない」との回答があった」との認識を示しました。
次に、今後の対応についてですが、県は、「基本スタンス(①地元の意向を尊重する②これ以上の負担増は認められない③普天間基地移設の見通しが立たないうちに空母艦載機の移住のみを切り離して進めることは認められない)を堅持して対応する」との認識を示しました。
防衛省が言う「日米間で協議は行っていない」というのは、米側から打診はあったが、正式な協議を行っていないというのでしょうか。引き続き注視する必要があります。
岩国基地は、厚木から空母艦載機部隊の移駐、沖縄から空中給油機部隊を受け入れようとしています。その上、更に沖縄から海兵隊1500人というのは到底認められません。
また、米軍再編を見直す協議が日米で行われていることは、極めて重大です。
米軍再編の内、普天間移設は切り離して考えるという方向で議論が日米で行われているようです。
日米協議はパッケージです。少なくとも、日米両国が普天間の見通しが立たないことを認めたものと思われます。
ですから、空母艦載機の岩国移駐だけが、進められることは認められません。これは、県の基本スタンスの立場から見ても当然と思います。
知事は、昨日の記者会見で「普天間移設と岩国への艦載機移駐のパッケージは維持されている」との考えを示したと報道されています。
私には、知事の論拠が理解できません。
しかしながら、国は、米軍再編の見直し作業の内容を関係する自治体に正確に説明する責任があります。
いずれにしても、基地のたらい回しはご免です。沖縄にいらない基地は、岩国にも全国にもいらない。
米軍再編の見直しをはじめるのであったら、在日米軍基地を本国に帰し、抜本的に基地撤去を協議のテーブルに上げるべきです。
岩国をめぐる米軍再編問題に対する皆さんのご意見をお聞かせ下さい。
本日、西宇部北の法面と側溝の改修を宇部市に要望しました。
当該地域は、戦後は、市営住宅でした。払い下げを行い、法面や側溝が市の保有物として残っています。
その法面や側溝が歪み、周辺地域住民から改善の声が出されています。
今日は、私と真鍋市議が立ちあい、宇部市西丸住宅課長らが現地調査を行いました。
まず、法面の崩壊です。
下の場所は、この十数年で、数十センチ法面がせり出してきているとのことです。
次に、側溝の崩壊です。
所どころ法面下の側溝が壊れ、改善の要望が出されています
また、住宅中央には大きな側溝があります。管理が大変なので、暗渠にしてほしいという要望が出されました。
要望が多岐に渡っていますが、今後、市住宅課で整理し、可能なところから改善する方向が示されました。
当該地域は、自治会が同じ地域です。多くの住民の方が調査に立ちあい関心の高さを感じました。
引き続き、皆さんの身近な要望をお寄せ下さい。
本日、宇部市内で、長生炭鉱水没事故70周年犠牲者追悼集会が行われました。
最初に主催者を代表して「長生炭鉱の『水非常』を歴史に刻む会」の山口代表が「70周年の時が、真の歴史を紡ぎ出し、真の平和をつくり出す時となることを願って止みません」と挨拶を行いました。
長生炭鉱の『水非常』を歴史に刻む会山口代表
次に、長生炭鉱水没事故大韓民国遺族会の金会長は「今からでも日本政府は反省し、遺骨の発掘にも追悼碑建立にも積極的に先頭に立って一日も早い解決策をだすべきだ」と訴えました。
遺族を代表してあいさつをした金会長(右端)
次に、遺族の次男である全さんが、当時の状況を証言しました。全さんは、事故があった当時西岐波小学校5年生だったそうです。運動場からピーヤの方を見るとピーヤから水が溢れだしていたそうです。
坑口付近には、家族の「アイゴー(お父さん)」という叫びがこだましていました。全さん家族は、日本で終戦を迎えますが、社宅は追い出され、母親に安定した職はなく、苦労の連続でした。
「にんにく臭い」などという差別も受けたそうです。
終戦後、韓国に帰りますが、全さんは、学校にも行けず、山の小枝を集める仕事などで生きて来たといいます。
全さんは、「私は、県庁や市役所で様々な要望を行ってきたが、私たちの望む答えを聞いたことがない」と語ります。
私は行政に関わる一人として責任を痛感しました。山口県は遺族の声を国などの関係機関にこれまでどう伝えてきたのか調査することから始めたいと思いました。
全さんは、訥々と事故後の人生を語りました
次に、遺族の長女である尹さんが証言しました。
尹さんは、事故があった当時、6ヶ月の赤ちゃんでした。尹さんが、20才の時に母も亡くなり、日本を恨みながら暮らしてきたといいます。
現在は、尼として生活する尹さん。ある人との出会いで、昨年、70年ぶりに父の位牌と面会します。
尹さんは、父の位牌の前で1時間のお祈りをしたそうです。
尹さんは、「(長生炭鉱の歴史を刻む会の方々など)すばらしい日本人がいることを知った。過ちを認めることが出来る日本人であってほしい」と語りました。
私も戦後を生きる日本人の一人として、朝鮮半島の方々と友好関係を築く上で、知らなければならない歴史があることを痛感しました。
すばらしい日本人がいることを知ったと語る尹さん
長生炭鉱の歴史を描いた合唱「海の墓標」が歌われました。
『悪魔の飽食』をうたう東京合唱団と『海の墓標』をうたう山口合唱団が力強く歌いました。
歴史的事実を芸術作品として残すことの大切さを痛感しました。
長生炭鉱を題材にした「海の墓標」の合唱
来賓として辛駐広島大韓民国総領事があいさつを行いました。
大韓民国として長生炭鉱での被害を調査し2007年の報告書をまとめ、県や市、そして日本政府に誠実な対応を要請していることが報告されました。
1942年2月3日の事故から70年。183名の犠牲者の内、137名が朝鮮人の方でした。
犠牲者の多くは、日本の植民地政策のため強制連行された方々だったと思います。
この70年間、遺族の方々の要望に対して、日本政府がほとんど何も対応していないことの異常を痛感した追悼集会でした。
私も自らの役割を発揮して、遺族の想いを行政機関に届ける懸け橋になろうと決意を新たにしました。
昨年、10月4日の本ブログに、宇部市吉部大棚地区の県道小野田美東線で、自動車が田に転落する事故が相次いでいることを報告しました。
その後、県宇部土木建築事務所で検討が行われ、当該地へガードレールが設置される見通しが立ちました。
県土木担当者は、「年度内に工事が完了する見通し」と話しています。
道路沿線で耕作を行っている地元の方に報告すると「これで安心して今年の田植えが出来る」と喜んでおられました。
引き続き、宇部市北部地域出身議員として、中山間地域の振興に努めてまいります。
ガードレールの設置が決まった県道小野田美東線