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核のごみ処理マップ

 経済産業省は先月28日、高レベル放射性廃棄物(「核のゴミ」)の最終処分場候補になりうる地域を示す全国地図を同省資源エネルギー庁「科学的特性マップ公表用サイト」で掲載しました。

 29日付しんぶん「赤旗」日刊紙は「応募自治体を待つ方式では一向に進まないことから、政府があらかじめ『敵地』を示し、政府が個別に申し入れる方式に変えました。政府は公表した地図に基づいて国民の理解を得たいとしています。しかし、国民の間には最終処分場の合意が、原発の永続的利用につながるのではないかという懸念があります。政府は原発の是非にかかわりなく今も使用済み燃料が存在することをもって、『現世代の責任』を強調します。しかし、国民の過半数が再稼働に反対するなか、核のゴミをさらに増やす原発再稼働を強引に進める政府のもとでは、処分場受け入れの合意を得ることは極めて困難とみられています。このため地図公表に続いて、上から押し付けを強める危険があります。」と書いています。

 31日付中国新聞は社説で、この問題を取り上げ、「原子力政策の将来像をはっきりさせることが先だろう。福島第一原発事故で、国民の多くは原子力政策に批判的・懐疑的になった。しかし政府は、それを無視して再稼働を急いでいる。これでは最終処分場の必要性について理解は得られまい。」と書いています。

 同日付の中国新聞は、「経済産業省は8月上旬にエネルギー基本計画の見直しに着手することが30日、分かった。2014年に閣議決定した前回の計画で盛り込まなかった原発の新設や建て替えにどこまで踏み込むかが焦点となる。」と報じました。

 政府は、新しいエネルギー基本計画で原発の新設や建て替えを認めない方針を明確にすべきです。そして、原発再稼働をぱっぽん的に見直す時です。

 繰り返し、本ブログで訴えていますが、上関原発の新設を新しいエネルギー基本計画に決して盛り込むべきではありません。

 これ以上危険な負の遺産を増やさない対策を徹底する前提なしには、核のゴミの処分に向けた国民的な議論を進めることは出来ません。

 皆さん、「核のごみ」と原発の新増設や再稼働の問題をどうお考えですか。

「ときを紡ぐー昔話をもとめて」読書ノート①

 口承文芸学者の小澤俊夫さんのインタビューが16日の中国新聞に掲載されていました。

 小澤俊夫さんは、小澤征爾さんのお兄さん、歌手の小澤健二さんのお父さんです。

 私が、宇部市PTA連合会総務委員長をしていた時、読み聞かせをされている団体の方から、小澤俊夫さんを講師とした学習会を合同でやらないかとの申し出がありました。

 私は、その時まで、小澤俊夫さんの事を知りませんでしたが、宇部市民会館での学習会で先生のお話しをお聞きして以来、傍観者の域を出ませんが、小澤俊夫さんに注目してきました。

 その後、宇部市で行われた「昔ばなし大学」を聴講し、小澤先生の昔話の講義を何度か聞かせていただきました。

 その当時、雑誌「子どもと昔話」を購読しており、小澤先生の平和主義のお考えを拝察し、本ブログで紹介したこともありました。

 この程、小澤さんの自叙伝とも言える「ときを紡ぐ-昔話をもとめて」を読み、改めて、先生の平和主義の考え方に幾度となく共感しました。

 今日から数回にわたって、先生の言葉を引用しながら感想を述べていきたいと思います。

 小澤さんが小学生の頃、北京に暮らしておられました。

 ある日、人力車から日本兵が降りのを目撃します。

 その日本兵は、代金を払いません。中国人の車引きが料金をせがむと軍人は、軍刀を途中まで抜いてどなりつけます。

 その姿を見て小澤さんは次のように語っています。

 「この日本兵にも家族があるだろう。家族はこの人がこんな横暴な、野蛮な人だということを知っているだろうか、とぼくは思った。知っているはずはない。日本人はみんな、自分の夫は、父は、息子は、恋人は、天皇陛下のために聖戦に身を投じている勇者なのだと思っているだろう。そう思うと、ぼくは心の底から悲しかった。なぜだかわからなかったが、ものすごく悲しかった。」

 小澤さんが北京で病院に作業に行き傷痍軍人の人からこんな話を聞きます。

 「軍隊が進軍していって、村に近づき、畑でおばあさんが働いていると、必ず射殺した。なぜなら、日本軍が近づいてきたことを中国軍に知らせるからだ、スパイをするからだと、当然のようにいっていた。村に入ると、にわとりや豚を食料として調達した。軍票(軍隊が発行するお金)で買うこともあったが、ほとんどの場合は奪ったということだった。それらのことを、日本の傷痍軍人たちが、ぼくら子どもに得意になって話していた。南京攻略に参戦した兵隊がいて、てこずったときには毒ガスを使ったと、これも得意になって話してくれた。」

 戦中に中国に滞在した経験を受けて小澤さんは、現在の政治の問題点を次のように指摘します。

 「今にして思うと、このギャップが、戦後後になっても、日本人全体の、あの戦争に対する認識の誤りとして、いつまでも尾を引くことになったのである。つまり、日本の建前としては、日本が大東亜共栄圏の盟主として、アジアの国々を欧米の支配から解放してやることが戦争の目的だった。しかし実際には、アジア人に対して悪鬼のような振る舞いをしていたのである。中国、韓国をはじめアジアの人たちは、今もってこの悪鬼のような日本人を責めているのである。ところが、日本国内では、建前としての戦争しか知らない。しかも、戦争で心ならずも命を失った日本軍人ばかりを神として崇拝している。そればかりか、あの戦争を指導した軍や政治の指導者たちをも神として祀って、そこに首相が参拝しているのである。アジアの人たちが怒るのは当然と言わざるを得ない。」

 不破哲三社研所長は、日本共産党95周年記念講演会で、「安倍政治」について「戦前の態勢に戻りたい、『戦前回帰』という『日本会議』系のウルトラ右翼の怨念を大きな特徴としたものです。」と指摘しました。

 安倍内閣の閣僚が靖国神社参拝を繰り返し、首相自身も玉ぐし料・真榊の奉納を続けていることは、侵略戦争を美化する行為です。

 在日韓国・朝鮮人や中国人を罵倒するヘイトスピーチが根絶されません。

 安倍政権は過去の侵略戦争を反省しない政権だから、安保法制=戦争法を成立させ、憲法9条を改定して日本を戦争する国にしようとしているのではないかと思います。

 小澤俊夫さんの「ときを紡ぐ」を読みながら、今日の政治に対峙していきたいと思います。

 明日以降も、この本の読書ノートを続けていきたいと思います。

 小澤さんは、中国新聞でのインタビューで「平和ってさ、そんなに軽いもんじゃない。やっとの思いで手に入れたんだぜ。その重みを少しでも考えてもらえるような材料を残したかった」と語っています。

 小澤さんの本を座右に置いて、この夏、日本と世界の平和を考えていきたと思います。

 

山陽小野田市で「日本共産党を語る集い」

 日本共産党北南地区委員会は、昨日、清水忠史衆議院議員を迎え、山陽小野田市で「日本共産党を語る集い」を行いました。

 会場一杯の130名の参加者が山口県で初めての演説という清水議員の訴えに聞き入りました。

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訴える清水ただし衆院議員

 清水議員は、「総選挙で野党共闘を実現し、共闘の要である日本共産党を躍進させよう」と呼びかけました。

 その上で、清水議員は「都議選での自民党大敗北や安倍政権の支持率急落は、あらゆる分野で暴走する安倍政権への強い怒りの繁栄だ」と語りました。

 森友・加計問題では、「国民には痛みを押しつけ、友人には便宜を図る安倍首相を政権から引き降ろそう」と訴えました。

 経済や社会保障の問題では、税金の集め方を改め無駄遣いをやめることが大事だとし、「企業献金を受け取らない日本共産党だからこそ、大企業に相応の税金を納めよと言える。お金の心配なく介護を受けてというのが政治の役割で、誰も悲しまない経済政策こそ必要だ」と力説しました。

 集会の最後に、藤本衆院山口3区候補(私)、今秋の山陽小野田市議選に挑む中島好人市議、山田のぶゆき市議と新人の寺岡としあき候補、阿武町議選で初の党議席獲得を目指す、よねつ高明候補が紹介され、必勝を誓いあいました。

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左から山田、中島、寺岡、清水、藤本、米津各氏

 私は、集会の司会を務めました。清水議員は、元松竹芸能所属の漫才師です。軽妙な語り口で、会場は爆笑の渦でした。

 分かりやすく政治を語る姿勢を大いに学びました。

ジョン・マン

 日野原重明さんの「いのちの使いかた」という本を読んでいます。

 この中に、江戸時代に日本人として初めてアメリカで暮らしたジョン万次郎のホームステイ先を友好記念館にするという「ホイッツトフィールド・万次郎友好記念館」つくるプロジェクトに日野原先生が関わられた経過が書かれています。

 「万次郎を長期機関ホームステイさせ、教育の機会を与えたホイットフィールド船長の家は、マサチューセッツ州ボストン市から車で90分、かつては捕鯨で栄えた小さな町フェアヘブンにあります。廃屋寸前になっていたその家が競売に出されていると知ったのは、僕がたまたまメキシコ訪問中だった2007(平成19)年夏のことです。ニューヨークに住む知人の吉田礼三さんから、このままでは、日本人とアメリカ人の間に温かい交流が育まれた記念すべき家あ、壊されてしまうと聞いたのです。僕は即座に『それは買い取って修復し、友好記念館にしようではないか』と提案しました。」

 日野原先生は、お父さんから「3つのV」をいつも胸に持つよう教えられたといいます。

 Vision, Venture,Victory

  「ヴィジョンとは、将来を見据えて夢を持ちなさいということ。そお夢は見るだけで終わらせてはいけない。困難があっても勇気を持って行動するヴェンチャー精神で取り組むこと、そうすればその先には勝利のヴィクトリーが実現されるというものです。」

 2009年5月に、「ホイットフィールド・万次郎友好記念館」が開館します。

 この事業を100歳前後の日野原さんが取り組まれたパワーに感服しました。

 ジョン万次郎の事を知りたくなり、今、山本一力さんの「ジョン・マン」を読み始めました。

 まだ、1巻「波濤」を読み始めたところですが、ホイットフィールド船長が、西太平洋で鯨が枯渇してきたので、初めて太平洋に捕鯨の出発する様子が手に取るように分かります。

 また、万次郎は、土佐の中ノ浜で、カツオ漁師として生活を始める様子が生き生きと描かれています。

 万次郎と一緒に人生の航海をこの夏したいと思います。

 日野原さんの本には珠玉の言葉が綴られています。

 「人間の体は、土でできている器と同じ。いずれ土に還ります。医学の役割は器をいたずらに長持ちさせることではなく、本当は、その器に満たす大切な中身、人としての尊厳や生きざまを守ることであるはずです。いのちを寿ぐ、と表現する寿命だからこそ、生きてきた中身が大切なのではないでしょうか。」

 人間の体は、土でできている器と同じ。

 こう言い切れるのは、医師として100歳以上生きてきた日野原さんならではでしょう。

 この夏は「ジョン・マン」を読みながら、日野原さんからももっと多くの事を学びたいと思います・

 人としての尊厳や生きさまを守る器を高めるために、学び続けるのが人生なのでしょう。

 みなさん、日野原先生との想い出がおありでしたらお教え下さい。

 

 

 

 

歌われたのは軍歌ではなく心の歌

 7月18日聖路加国際病院名誉院長の日野原重明さんが105歳でお亡くなりになられました。

 山口県の湯田でお生まれになったということで、親しみを感じていました。

 心からご冥福をお祈りいたします。

 日野原さんは、2000年に75歳以上を老人と定義しようと「新老人の会」を発足させました。

 「新老人の会」の活動の一つに、戦争中や戦争直後の自分たちの生活体験を描写・記録し体験集としてまとめることがありました。

 「新老人の会」の戦争体験記録集を一冊の本にしたのが、「新老人の会」編「歌われたのは軍歌ではなく心の歌」です。

 日野原先生は、昭和16年に聖路加国際病院に赴任されます。結核の後遺症があり、軍隊への召集はありませんでしたが、昭和20年の東京大空襲の時に、医師として患者に対応します。

 日野原先生は、この時のことをこう書いています。

 「3月10日の大空襲は、地獄のようでした。大勢の患者さんが来院しても薬がなく、新聞紙を燃やして、その燃えカスを患部に振りかけて分泌物を吸収するしかありませんでした。」

 日野原先生は、これらの経験を経てこう書いています。

 「私は戦争体験をして空襲を受け、戦争のつらいこと、ミゼラブルなことを体で感じているから、戦争は世界のどこの国であっても決してあってはならないことだということを強く信じるのです。戦争というのは人をクレージーにしてしまうほど大変以上なことだから、これをないおうにするには、今の子どもが成長した時に、その世界がくるように、私たちは、子どもの教育に私たちの戦争体験をそのまま話して、今でも戦争に苦しんでいる人たちをなくすために、日本だけでなく外国にも出かけて行って、平和を守る意欲を持った第三世代の人をつくりたいと思うのです。」

 「戦争をするなということよりも、命を大切にするということを、シュバイツァー博士が蟻一匹でも殺すのはいやだと言ったヒューマンな気持ちを子どもに植え付けることによって、心からなる愛と平和の心をもっと心に強く芽生えさせるように、私たちの経験を伝えることがわれわれの使命であると思います。そのためには人から受けた過ちは許し、お互い愛しましょうと言いたいのです。そういう場合には強い国や弱い国を許さないと駄目です。そういう意味で、アメリカにも許しの気持ちがないと今のイラクなどとは百年戦争になります。」

 日野原先生は、1911年(明治44年)生まれでした。

 この本で戦争体験を語っておられる方は、1920年前後(大正9年)です。

 現在90歳後半の方々です。

 戦争を体験された方のお話しを直接お聞きする機会は少なくなりましたが、こうして活字になれば、将来にわたって戦争の事実を知ることが出来ます。

 紹介できませんでしたが、お一人お一人の経験は、まさに筆舌に尽くしがたいものばかりです。

 戦争を知らない私たち以降の世代がしっかり語り継いでいきたいと思います。

 日野原先生の命を大切にする戦争のない世界をの遺志を私たちはしっかり受け継いでいきたいと思います。

 これを契機に日野原先生の著作を少しづつ読んでいきたいと思います。

相模原 障害者殺傷事件1年

 19人の障害者の命が奪われ、27人が重軽傷を負った相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」の事件から昨日で1年がたちました。

 犠牲となった方々のご遺族の皆さまへ哀悼の意を申し上げたいと思います。

 「民医連医療」8月号に、岐阜大学の竹内章郎さんの「現代における優生思想の克服と真の共生のために~相模原事件をきっかけに~」と題する講演録が掲載されていました。

 竹内さんは、今回の犯人の言説と同じ内容の記述を含む本が、ナチス政権誕生前夜のドイツで出版されてることを指摘します。

 「今回の犯人の言説とほとんど同じ内容の記述を含む著名な本が、1920年にナチス政権誕生(1933年)に先立ち、刑法学者K.ビンディングと、精神科医A.ホッヘによって刊行されています。そこには、『重度の知的障害をもった存在は瓦礫の山』『殺したところで、誰も悲しまない』『そういう存在は社会の負担、お荷物になっている』といった記述があり、本の大明が『生きる価値のない命とはだれのことか』となっています。」

 ナチス政権は、ユダヤ人を約800万人虐殺したことは有名ですが、竹内さんは、ユダヤ人殺害の予行演習(T4政策)として、重度障害をもつ20万強の人をナチスは殺害した事実を明らかにします。

 その上で、竹内さんは、「我われ個々人自身にも浸透しかねない優生思想の問題があり、これの広がりをまずは押さえる必要がある」と指摘します。

 竹内さんは、優生思想と新自由主義の一体化を指摘します。竹内さんは、「新自由主義の大御所ハイエクは、市場秩序に適合的でない人間の健康を守ることを事実上、否定しています。また、私的所有物としての能力把握により、能力の劣ることやそれに基づく処遇も自己責任とする思想が新自由主義にあり、これは優生思想と一体なのです。」と指摘します。

 竹内さんは、優生思想について「優れた者の称揚と、劣った者の排除が一体となることが優生思想の恐い点で、ここから優生思想は、我われの日常社会にも入り込んでくるのです。」と指摘します。

 竹内さんは、13世紀の神聖ローマ帝国のフレデリック2世が命じた恐るべき実験を紹介します。

 赤ちゃんに授乳やおしめの取り換え、日光浴、室内の温度調整は行いつつ、微笑みかけなどのコミュニケーションは一切行いません。そうすると赤ちゃんは、1歳未満で一人残らず死んでしまいました。

 竹内さんは、「他者からの働きかけがあって、初めて維持され生きる能力になるということです。全ての能力の根源は共同的なものだということです。」と語り、能力を私的所有としてのみ捉える「優生思想」の問題点を指摘しています。

 竹内さんは、「病者、障がい者を真に受容しながら、同時に本当に病気や障がいの治療や軽減も重視できるような、両者が矛盾しない営みを可能にするような社会・文化、これはなかなか難しいのですが、そうした営みを少しでも構想し進める必要があると思います。」と講演で語っています。

 能力は私的所有ではなく、共同的なものという指摘は重要だと思いました。

 「優れた者の称揚と、劣った者の排除」する社会の構造を理解し、この構造を少しでも克服する社会を構想していく必要を感じます。

 私は、大学で「障がい者福祉」学びました。障害者殺傷事件から1年が経過しましたが「意味なき命はない」ことが日本で広がることを願います。

 「津久井やまゆり園」の事件から1年が経過しました。

 皆さんはこの事件をどのようにお考えですかお教え下さい。