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金足農業高校

 高校野球100回大会は、私たちに感動を与えてくれました。

 特に、金足農業高校の皆さんに私は元気をもらいました。

 今朝のしんぶん赤旗日刊紙の「潮流」に、金足農業高校が取り上げられていました。

 「プレーは、もちろん、体を反りながら歌う『全力校歌』も有名になりました。『可美しき郷 我が金足』から始まる校歌は唱和の初めに制定。『故郷』や『春の小川』などの唱歌で有名な岡野貞一氏が作曲し、国文学者の近藤忠義氏が作詞したものです。厳しい自然のなかで営む農への愛や敬い。『やがて来む文化の黎明 この道われらに拓かむ』と歌い上がる校歌には、戦前の暗い時勢に新しい時代を開く若者たちへの激励や期待が込められています。日体大の校歌も作詞した近藤氏はこの頃、東京音楽学校(現東京芸大)の講師でしたが、治安維持法で検挙され、敗戦の時を獄中でむかえました。戦後まもなく日本共産党に入党。国文学界の重鎮として、戦前は日本文学研究に新しい学風を開き、戦後は日本文学協会の創設に参加するなど民主的で科学的な文学研究の確立に尽くした評されました。」

 金足農業高校の校歌を作詞した近藤忠義さんが、戦中治安維持法で獄中につながれ、戦後は、日本共産党に入党していた事実を初めて知りました。

 金足農業高校の校是は3つあります。

 一つは、「寝ていて人を起こすことなかれ」の精神。

 二つは、勤労を尊び汗することをいとわぬ心。

 三つは、自他の生命を尊重し、自然の恵みに感謝する心。

 一つ目の「寝ていて人を起こすことなかれ」の言葉は、秋田県で明治から大正期の農業指導者であった石川理紀之助の言葉です。

 理紀之助は、毎朝3時に掛け板を打ち鳴らして村人たちを眠りからおこし、まだ夜が明けきらないうちから農事に専念し、困窮した村の再建に尽くしたとされる人物です。

 理紀之助が遺した「経済のことば14か条」の第一が、「寝ていて人を起こす事勿れ」です。

 意味は、「自分は動かないで他人にやらせてはいけない。自分が先頭に立って手本を示し、人を動かすこと。」です。

 理紀之助は自らが早起きをして農業の従事し、村人の模範になったことを言葉にしたものだと思います。

 私は、体を動かすことが大好きです。

 「寝ていて人を起こす事勿れ」の言葉が大好きになりました。

 今後の私の座右の銘にしたいと思います。

 この言葉を知ったのも金足農業高校が活躍したからです。

 この言葉を通して、石川理紀之助の事も知りました。

 金足農業の活躍で様々な事を学ぶことが出来ました。

 これからも、農業に従事する一人として、金足農業高校を応援していきたいと思います。

 

陸上イージス 防衛省再照会に回答

 山口県と萩市は、7月18日に、萩市に配備が計画されているイージス・アショア(以下陸上イージス)について、防衛省に照会文書を出し、8月20日付で回答が行われました。

 北朝鮮をめぐる情勢について認識を問う質問に対し、防衛省は、「北朝鮮は、現実に我が国を射程に収める数百発の弾道ミサイルを保有しており、我が国の弾道ミサイル防衛能力の強化は喫緊の課題であることに変わりはありません。特に、北朝鮮は2005年の六者会合の共同声明において、すべての核兵器及び既存の核計画を放棄することを約束したにもかかわらず、翌2006年には核実験を強行したことなど、北朝鮮が過去に国際社会との非核化等に関する合意を繰り返し廃棄してきた現実を直視する必要があると考えます。」などと、北朝鮮の脅威は依然あるとの理由で、陸上イージスの必要性を強調しています。

 配備候補地の一方が候補地として不適であった場合、もう一方も見直しになるのかとの問いに、防衛省は、「秋田県付近及び山口県付近の日本海側の組み合わせが適切であることから、一方が不適となった場合であっても、上記条件(約1キロ平米程度の広くて平坦な敷地の確保など)に合致し、可能な限りバランス良く我が国全域を防護できる地点を配備候補地として選ぶこととなるため、不適となった配備候補地から大幅に離れた地点が新たな配備候補地となるということは想定し難く、直ちにもう一方の方保知も見直しになることにはならないと考えます。」などと、秋田・山口が最適地であることを強調しています。

 防衛省は、北朝鮮の脅威をあおり、秋田と山口ありきで、陸上イージスの配備を強行する構えであることが、この回答で改めて強調されています。

 弾道ミサイル攻撃を回避する最も安全で有効な手段は、「撃たせない」ことに尽きます。北朝鮮の弾道ミサイルをめぐっては、まさに「撃たせない」ための外交努力が始まっています。端緒的ですが、北朝鮮が一部の核・ミサイル関連施設を廃棄したのもその表れです。日本政府がやるべきことは、こうした平和の流れの後押しです。

 日本政府が、北朝鮮に向けてミサイル基地を設置することは、朝鮮半島の和平の流れに水を差し、北朝鮮の姿勢を硬化させる行為そのものです。

 やはり、秋田と山口に陸上イージスを配備すべきではありません。

 防衛省は改めて、陸上イージスの秋田・山口配備を強行しようとする回答を山口県などに行いました。

 皆さんは陸上イージスについてどうお考えですか。

 

「ゴリラからの警告」読書ノート①

 私が敬愛する山際寿一京都大学総長の最新刊「ゴリラからの警告『人間社会、ここがおかしい』」を読んでいます。

 この本は、7月29日号のしんぶん赤旗日曜版で紹介され、山際さんご本人がインタビューに応じておられます。

 この本の大きな柱が、人間社会が「サル化」していることを憂い山際さんの論説です。

 赤旗のインタビューに山際さんは、次のように述べています。

 「サルは非常に個人主義的です。食物は分けないし、子育てもメスがわが子を育てるだけです。人間は共感力を高め、大きな社会をつくって発展してきました。ところが人間はいまその社会性を捨てようとしています。一人で食べる個食が増え、子育ては単独の家族が背負うようになってきました。個人を血縁や共同体から切り離して、欲求をかなえるのは、資本主義が目指してきた方向です。でも、それは人間の社会性を弱めるものでもありました。」

 山際さんは、本の中で、今日の人間社会の個食化について次のように述べています。

 「私たちがこれまで食事によって育ててきた共感能力や連帯能力を低下させる。個人の利益だけを追求する気持ちが強まり、仲間と同調し、仲間のために何かをしてあげたいという心が弱くなる。待ち負けが気になり、勝ち馬に乗ろうとする傾向が強まって、自分に都合のいい仲間を求めるようになる。つまり、現代の私たちはサルの社会に似た閉鎖的な個人主義社会をつくろとしているように見えるのだ。」

 先日、大学教員をしている方から「学生に共感能力や連帯能力が低下している」というお話をお聞きしました。

 我が家の食卓でも個食化が進んでいることを実感します。

 同じ時間に食べていても、それぞれが、スマホなどを観ながら食事をしている風景があります。

 私たちの子どもの頃は、テレビで、ホームドラマという領域があって、家族で食事を囲む姿が見られましたが、今では食卓が様変わりしました。

 社会は非寛容になり、人びとから共感能力や連帯能力が低下していることは実感します。

 私も父たちの時代の人は、更に、共感能力があった人たちが多かったことを思い起こします。

 それを「サル化する」人間と言う視点で分析する山際さんの論説に納得しました。

 しかし、社会が人と人が共同する方向に変化すれば、人間だけが持っている共感能力が発揮されて、社会は好循環に変化するという展望を、山際さんの論説から感じることができます。

 山際さんは、人間と暴力についても後半で論説しています。

 この辺りの問題は、次回以降のブログで触れていきたいと思います。

 以前から、山際寿一さんの本を何冊が読んできました。この本は、山際さんの人類学をわかりやすく集約した良著だと思います。今の時代を乗り越える展望を示してくれる本です。

 山際ファンの皆さん、皆さんのご意見をお聞かせ下さい。

吉田稔麿~維新団・一新団の生みの親~

 18日に、「人権フェスティバルIN宇部」が開催され、毛利博物館顧問の小山良昌さんのお話をお聞きしました。

 演題は、「松下村塾の俊才 吉田稔麿 ~維新団・一新組の生みの親~」でした。

 吉田稔麿は、松下村塾の近く、萩市松本村に生まれます。父は武士ではありましたが、中間という身分の低い階層でした。

 16歳の時、松下村塾に入り、「人間に貴賤なし」を学びます。

 稔麿が23歳の時に、藩の指導者たちに、「屠勇取立之建議」という提案を行います。

 この提案は、了承され、稔麿は、「屠勇取立方」に任命されます。

 稔麿は、被差別民を藩兵に登用する「屠勇取立令」を諸郡に回達します。

 その結果、玖珂郡出身者により「維新団」が、三田尻出身者により「一新団」などが誕生します。

 私の本棚に、周東町教育委員会が編集した「維新の扉を開いた 諸隊の雄 遊撃軍」があります。

 この本の中に、「遊撃軍・維新団の活躍」という章があります。

 この章の筆者は村崎修二さんです。

 維新団は、江戸幕府と長州藩が戦った時に、広島方面で戦ったのが、遊撃軍。

 遊撃軍の中心は、遊撃隊でしたが、遊撃隊と行動を共にしたのが維新団でした。

 この章の「吉田稔麿の提案」という節があります。

 稔麿の「屠勇取立之建議」について、村崎さんは次のように書いています。

 「『屠勇』というのは簡単にいうと、江戸時代に士農工商の身分階層のしたに位置付けられていた賤民のことです。恐らく吉田松陰の影響と稔麿その人の人格から、差別的な考え方や、感情を取り除くかのように、あえて賤民階層の人々を『屠勇』という新語を作って呼んだものと考えられます。」

 吉田稔麿は、この建議を提案した翌年に、「池田屋事件」で新選組によって殺されます。

 村崎さんは、この節の終わりにこう書いています。

 「維新団の名前とともに『屠勇取立策』という革命的な提案を行った吉田稔麿についても、歴史的に忘れてはならない人物だと思います。」

 身分差別が制度化されていた江戸時代の末期に、身分制度を乗り越えて、身分が低かった人々を登用する提案を行った吉田稔麿のことを更に知っていきたいと思いました。

 吉田稔麿について、皆さんの想いをお教え下さい。

サイレントブレス

 現役の内科医である南杏子さんの小説「サイレントブレス」を読んでいます。

 この小説は、大学病院から、在宅の訪問クリニックへ「左遷」された女性医師・倫子が最期を迎える患者と格闘する物語です。

 最初の患者は、乳癌、二人目は、筋ジストロフィー症、三人目は、胃瘻手術を受けた患者さん。

 患者さんの最期は壮絶だけれども、倫子をはじめスタッフな真摯が姿勢に心が清らかになります。

 大河内教授が倫子にこのような声かけをします。

 「平和な治療だけしているとね、人が死ぬということを忘れがちなんだよ。でもね、治らない患者から目をそらしてはいけない。人間は、いつか必ず亡くなるのだから」

 作者の南さんが、本書に関わるインタビューでこう答えています。

 「長く医療の現場では、患者の死は『負け』と位置付けられていました。私自身医師として、同じ哲学のもとに病気と闘った時期もあります。その一方で、祖父を介護した経験に始まり、終末期を迎えた多くの患者と向き合いながら、徐々に考えが変わりました。」「死を『負け』と考えるのではなく『ゴール』と考えることで、終末期医療の風景は180度異なってくるはずです。」

 私の川柳の師であった故時実新子さんの句に「今ぞ今 死は生きること 生きて死ぬこと」があります。

 死ぬ直前まで自分らしくありたいと患者は願います。その願いにそえる医療であってほしいと思います。

 私の予想では、本作は必ず映像化されると思います。

 主役の医者は、綾瀬はるかさんなどはどうでしょうか。

 関係者の皆さんよろしくお願いいたします。

 南杏子さんには、現役医師として、生きる力の湧く小説を書いていただくよう、これからも大いに期待しています。

 ご家族を介護されている方などは、ぜひこの本を手に取っていただきたいと思います。

 「サイレントブレス」を読まれた皆さん感想をお聞かせ下さい。

あの日のオルガン

 久保つぎこ著「あの日のオルガン 疎開保育園物語」を読んでいます。

 アジア・太平洋戦争の末期、東京大空襲の戦火を逃れ、埼玉県に「疎開保育園」を立ち上げ、運営した取り組みがありました。

 この本は、当時の保育士の方々などの証言を丁寧に追ったドキュメンタリー小説です。

 この本を原作に、平松恵美子監督で映画「あの日のオルガン」が完成し、来年から上映が始まります。

 疎開保育園を開いたのは、埼玉県南埼玉郡平野村高虫という所です。普段使われていないお寺を保育園にしました。

 小説の中には、駅から6キロを往復して荷物を運び込む保育士の姿が鮮明に描かれています。

 荒れ寺は、竈もトイレも壊れており、保育士がご近所の協力を得て、竈とトイレを作ります。

 その中で、53人の子どもたちの保育を行うのです。壮絶ですが、保育士の生き生きとした姿には、こちらが、清らかな気持ちになります。

 冒頭、家族全員が亡くなり、天涯孤独になった4歳の藤ノ木健之君へ福知保育士が声をかけるシーンがあります。

 「先生のおてつだいを

  いつも

  一生懸命になってしてくれる

  小ちゃい けんちゃん 

  日本の国が戦争に勝つために

  けんちゃんは

  まだ四つにもならない時

  家のみんなとお別れして

  ここに来た。

  妙楽寺の 疎開保育園に。

  けれど、

  家族のことばかり心配していた

  あなたのお父さんは

  お船といっしょに

  暗い海の中に沈んでしまった。

  輸送船が爆撃されて。

  四日前に知らせがきて

  三月十日

  東京に空襲があったという。

  その日

  あなたのお母さんが

  死んでしまった

  あなたが可愛がっていた

  妹のたかえちゃんが

  焼け死んだ

  あなたが生まれた時

  兵隊が生まれたと

  あんなにも喜んだおじいちゃんが

  焼けむされて死んだ。

  あなたのお家だった

  同潤会アパートに

  アメリカの飛行機が爆弾を落として

  みんな

  死んでしまったのだ 一度に。

  大勢の人が死んで

  たくさんの場所が焼けた

  あなたが

  職場へ急ぐお母さんと手をつなぎ

  いっしょに歌いながら通った

  私たちのなつかしい保育園も

  みんな焼けてしまって

  今は

  ない

  小さい藤ノ木健之よ

  あなただけが

  ひとり 残ったのだ・・・」

 疎開保育園を開設した母体の一つの保育園には東京帝大セツルメントが関わっていました。

 私は、大学時代、セツルメント活動を行っていました。大先輩の頑張りに感銘を受けました。

 戦争の最中、幼い子ども達の命を少しでも救おうと奮闘した、私の祖母世代の皆さんの努力から学びたいと思います。

 子どもは平和の中で生きる権利があるという、子どもの権利条約の精神が日本で世界で発揮されることを願ってやみません。

 映画「あの日のオルガン」。今から楽しみです。

 久保つぎこさんの「あの日のオルガン」をお読みになった皆さん感想をお聞かせ下さい。