12日の毎日新聞の書評に、石井光太さんの「原爆 広島を復興させた人びと」が取り上げられていました。
石井さんは、原爆に関心を持ったのは20代の頃だと言い、記事は次のように書いています。
「親しくしていた女性が広島出身の被爆3世。『私は被爆しているかもしれないから子どもをつくちゃいけないの」。げんばくは遠い過去の話だった。しかし、『目の前にいる、よく知っている女性が今も原爆の被害で苦しんでいる』現実に衝撃を受けた。作家になってからはいつか書くべく、準備をしていたという。」
本書は、「原爆市長」と呼ばれた浜井信三さん。世界に平和を発信する拠点の建築構想に応じた建築家の丹下健三さん。原爆ドームの保存に突き進んだ広島市職員の高橋昭博さん、初代広島平和記念資料館の初代館長の長岡省吾さんを取り上げたノンフィクション作品です。
一番丁寧に取り上げられているのは、長岡省吾さん。記事は次のように書いています。
「膨大な被爆資料を残し、広島平和記念資料館(原爆資料館)の初代館長も務めたが『長らく歴史から消されてきた。資料館を建てた最大級の功労者であるにもかかわらず、一冊の評伝もない』。書き手のエネルギーに火が付いた。」
今、本書を読んでいますが、長岡さんは、戦中、中国にあった陸軍の特殊機関にいたことが書かれています。
長岡さんは、ドイツ出身のユダヤ系ジャーナリストのロベルト・ユンクさんに原爆資料の収集をする覚悟について次のように語っています。
「売って食べものに変えることができる品物を追い求めるかわりに、こんな(値打ちのない古いもの)にかかりきりになっているということで嘲笑する者がいるなら、勝手に嘲笑するがいい。しかし、後世に広島の犠牲がどんなものであったかをまざまざとわからせるのは、だれかがしなければならない仕事なのだ。少なくともだれかが、人間の歴史のどん底を、良心のない人びとや空想力の乏しい人びとの眼前に警告としてよみがえらせなければならないのだ」
「原爆の実情を後世に残そうとする決意」と言えばその通りですが、長岡さんの鬼気迫る想いが表現された言葉です。
長岡さんのこの想いがなかったら、原爆資料館さえなかったかも知れないと思うと、彼の功績の重さを実感します。
後に市長になる浜井信三さんの戦後にも感じるものがありました。
浜井さんは、旧制第一高校に進学し、東京帝国大学法学部を卒業しますが、卒業間近に結核にかかります。
故郷の広島に帰省し、幸い、病気は快復し、広島市役所に就職します。
原爆投下で多くの市役所の職員が亡くなるなか、浜井さんは、市民へ食料の配給や冬に備えた防寒着の配布を率先して行い、市民から喜ばれます。
その評判もあって、浜井さんは、助役への就任を要請されます。
浜井さんは固辞しますが、前市長の藤田若水さんの次の言葉に胸を打たれます。
「君は、いわば天が広島市のために生かしておいた人間のようなものだ。よけいなことをいわず、君は広島市のために死ね。」
広島市は、戦中までは、陸軍を主とした軍事施設が集まる「軍の町」でした。
浜井さんは、広島市の中心に据わり、広島市を「平和の町」として再生させようと尽力します。
何度も、本ブログに書いてきましたが、私は大学1年生の冬、犀川スキーバス転落事故に遭遇しました。
一瞬の内に、22名の学友を失い、自分がなぜ生き残ったのかを考え続けてきました。
亡くなった学生は、誰も学業に励み、将来の夢も鮮明でした。
自分は死ぬ資格がない人間だとも思いました。
藤田前市長が浜井さんにかけた「広島市のために生かしておいた人間」という言葉は私の心にも突き刺さりました。
人間は、生まれた瞬間から、亡くなる瞬間まで、様々な偶然が重なって生きているのだと思います。
「生かしておいて人間」という言葉を、私は、「生かされている自分」と受け止めました。
「生かされている人間が、人類が共存できる社会のために、出来る役割を果たしていく」
これが、生きるということなのかなあと考える今日この頃です。
人類が共存できる社会のために、広島で起こった事実を私たちは決して忘れてはならないと思いました。
戦後の平和都市・広島市の礎を築いた、長岡さんや浜井さんの遺志を引き継がなければならないと思いました。
生かされている私たちは、広島を想い、考えることが必要だと感じました。
石井光太さんは、私が尊敬する作家の一人です。石井さんの「原爆 広島を復興させた人びと」から学び、石井さんの他の作品からも学びたいと思います。
この作品を読まれた皆さん、感想をお聞かせ下さい。
私も人並みにお盆は少しゆっくり過ごしました。家族や友人と過ごす時間の間に、下重暁子さんの最新刊「極上の孤独」を読了しました。
下重さんの本は書店で何度も見ていますが、実際に読んだのは、この本が初めてです。
まだまだ子育て真っ最中に私ですが、少しずつ、家族のために費やす時間が少なくて済むようになりました。
後10年経てば、中二の長女も社会人になっている年です。
10年後は、子どもに関わる団体などとの関わりも少なくなり、費やす時間も大きく変わっていることでしょう。
この本の大きなテーマは「中年からの孤独をどう過ごすのか」です。
私が心を打たれたのは「孤独と品性は切り離せない」という章です。
下重さんは、冒頭でズバリこう書いています。
「年をとるにつれて、だんだんいい顔になる人といやな顔になる人がいるが、その差は品性にあると思う。歳と共にその人の持っている内面が見事に表情にあらわれてくるからだ。」
盆には、毎年、同窓会があり、多くの同級生や先輩後輩にお逢いします。
年々、いい顔になっている人というのは確かにいるものです。
下重さんは、次に、品とは何か。こう書いています。
「お金があっても変えないし、体力があっても作ることが出来ない。精神的に鍛え上げた、その人にしかないもの。賑やかなものではなく、静かに感じられる落ち着きである。」
「品とは恥の裏腹にある。恥とは自分を見つめ、自分に問うてみて恥ずかしいかどうかである。」
下重さんは、その上で、恥と誇りとは表裏一体と言い、次のように書いています。
「自分を省み、恥を知り、自分に恥じない生き方をする中から、誇りが生まれる。それがその人の存在を作っていく。そして、冒すことの出来ない品になる。いつも外へばかり目が向いていると、誇りも恥も生まれては来ない。黙ってじっと自分の内面と対峙している人には、外の人間が入り込めない雰囲気があり、それがオーラとなっている。」
下重さんは、その上で、本書のテーマである孤独と本章のテーマである品との関係についてこう書いています。
「品とは内から光り輝くものだと考えれば、輝く自分の存在がなければならない。自分を作るためには、孤独の時間を持ち、他人にわずらわされない価値観を少しずつ積み上げていく以外に方法はないのだ。」
私は、小学校の通信簿に毎年「落着き」がないと書かれていました。
私に「静かに感じられる落ち着き」が未だに育っていないことは自ら認めるところです。
私は、このブログを、ほぼ毎日、10年以上、書き続けています。
私にとって、ブログを書く時間が、自分と向き合う時間であることは確かです。
来年の選挙に向けて、自分自身のための時間は、これから、益々少なくなってくる時期です。
その中でも、孤独の時間を持ち、自分を見つめ直す時間を確保したいと思います。
そして、自分の顔を少しでも内面から輝かせたいと思います。
下重さんは、私の母と同世代の方です。
五木寛之さんは父と同世代の方です。
これからは、下重さんを母からの言葉と思い、五木さんを父からの言葉と思い、人生行路の参考書にしたいと思います。
下重暁子ファンの皆さん、お勧めの本をお教え下さい。
妻の実家のある大阪に下宿して大学に通っている長男と次男が帰省してきました。
昨日は、長男と一緒に細田守監督の映画「未来のミライ」を観ました。
11時前からの第一回目の上映を観る予定でしたが、満席ということで、第二回目の上映を観ることができました。
その映画は、長男の「くんちゃん」が未来の妹「ミライ」に出会う物語です。
細田監督の映画のパンフレットで、この映画のアイデアは、自分の子どもさんが何気なく言った言葉にあったと述べています。
細田監督の息子さんは、ある日の朝、「大きくなった妹に逢ったよ」と言いました。
二人の子どもの子育てに奮闘する若い夫婦の日常は、私の20年前を見てるようでした。
忙しかったけれど、充実した毎日だったことを、この映画を通して思い出しました。
子どもは小さい内に、一生分の親孝行をするといいますが、子どもの寝顔や笑顔に癒された日々を思い起こしました。
そして、くんちゃんは、小さい時に、母に出合い、ひいじいじの若い頃に出合います。
特に、ひいじいじのシーンは胸に沁みました。
戦争で、移動中の船が爆撃され、ひいじいじは足に大きな傷を負います。
生きて帰り、ひいばああと向こうの木まで自分が早く着いたら結婚してくれとプロポーズします。
ひいじいじは、動かしにくい足を動かしながら、木の下まで懸命に走ります。
ひいばあばは、唖然として走ることができませんでした。
こうして、命が引き継がれて、今の「くんちゃん」や「ミライ」まで繋がっているんだと、母が子ども達に伝えるシーンは圧巻です。
この映画を長男と一緒に観ることができたことに感謝します。
今日は、終戦73年の日です。
改めて、多くの犠牲者の方々にお悔やみを申し上げます。
そして、私たちに命が繋がったことに感謝したいと思います。
この映画を観て、改めて、そのようなことを感じました。
細田守監督の「未来のミライ」は、未来に伝えたい秀作です。
まだ、お盆休みという方も多いと思います。一人でも多くの方に映画館で観ていただきたいと思います。
亡くなった方々を偲ぶ、お盆にぴったりの映画だと思います。
家族の事と考え、未来を考えることが出来る映画です。
細田監督、すばらしい作品をありがとうございました。
アジア・太平洋戦争が終わって、明日で73年になります。
太平洋に浮かぶパラオの小島、ペリリューは戦争末期、1万人の日本軍兵士が命を落とす激戦地でした。
今朝の毎日新聞は、ペリリユーで戦った兵士を描いた漫画「ペリリュー 楽園のゲルニカ」が取り上げられています。
本ブログでも一度、この漫画の事を取り上げたことがあるので、今日の「戦争を知らないけれど」の特集を興味深く読みました。
ペリリユーでは、戦後1年9か月たった1947年5月、ようやく終戦を知った34人の兵士が日本に帰還しました。
漫画の作者である武田さんは、生還者に会いに行きます。
私が、今回の特集で一番興味深かったのは、漫画への協力を拒否した生還者の永井さんへのインタビュー部分です。
永井さんに関する記述は次の通りです。
「7月下旬、私は太平洋戦争の激戦地・ペリリューから生還した34人の一人、茨木健の永井敬司さん(97)の自宅を訪ねた。なぜ、漫画でペリリューの兵士を描く武田一義さん(42)への享禄を断ったのか。永井さんは、はっきりした口調で、「あそこで戦っていない人には分からない」と語り出した。18歳で志願し陸軍に入隊。満州で国境整備をした後、ペリリューへ派遣され、飛行場を米軍から守る最前線で戦った。23歳だった。戦闘はすさまじかった。米軍に挟まれ、身を隠した堤防を仲間と飛び出した。銃弾が地面に当たってあがる土煙で前が見えず、近くにいる仲間の安否すら分からない。『天皇陛下万歳!』と叫ぶ声が聞こえた。爆弾の破片が右の太ももを貫通しても痛みがなく、流れた血の冷たさで初めて気づいた。火炎放射器で、生きたまま壕の中で焼かれた兵士たちも見た。永井さんはそう語り、涙を浮かべた。『ペリリューで亡くなった人を思うと、漫画は軽い。賛成しません』」
この特集を書いた竹内記者は、最後にこう書いています。
「永井さんは私に悲惨な体験を語り、『昔のことを一人でも二人でも、若い人に知ってもらえれば』と話した。だが、私が『ペリリュー』の単行本を差し出しても、最後まで手に取ることはなかった。漫画の主人公・田丸は、悲惨な戦場でも人を思いやる気持ちを忘れず、ささやかな平穏が訪れると小さな手帳に絵を描く。私はその人間さしさに引き込まれ、自分を重ねられる気がした。」
毎日新聞の特集記事に、原作者の武田さんは、永井さんの言葉を受け止め「知らないということを忘れたくない。だからこそ必死に、想像して近づこうとしている」と話しています。
永井さんの「あそこで戦っていない人には分からない」という言葉はとても重く。1万人の命の重さを感じることができる言葉です。
武田さんの「知らないことを忘れたくない」という言葉もとても重く受け止めました。戦場の現実を伝える姿に真摯な姿勢を感じます。
自らも満州で戦争を体験した漫画家のちばてつやさんが、この漫画を次ように推薦しています。
「若くて可愛らしい日本の兵隊さんが南海の美しいサンゴ礁の島で・・・『戦争』という地獄にまきこまれてゆくリアル。今こそ、子どもから大人まで、いや世界中の人々に読んで貰いたい漫画だ。」
私は、戦争の現実を漫画で伝えようとする「ペリリュー」。今だからこそ、世界中で読んでいただきたいと思います。
「ペリリュー」の単行本は現在までに5巻発行されているようです。
この夏、漫画「ペリリュー」からしっかり学びたいと思います。
漫画を通じて、主人公の田上を通じて、少しでもこの作品が多くの方に読み継がれることを期待します。
漫画「ペリリュー」を読んだ皆さん、乾燥をお聞かせ下さい。
吉田裕著「日本軍兵士-アジア・太平洋戦争の現実」を引き続き読んでいます。
吉田さんは、アジア・太平洋戦争における日本軍兵士の死亡について「形式上は戦死か戦病死に区分させられているものの、実態上はまったく異なる死のありようとして、非常に数が多いのは、日本軍自身による自国軍兵士の殺害である。その一つは、『処置』などと呼ばれた負傷兵の殺害である。」と書いています。
1935年、日本政府は、「戦地軍隊における傷者及病者の状態改善に関する1929年7月27日の『ジュネーブ』条約」を公布しました。
ジュネーブ条約は、戦地における負傷兵は「国籍の如何を問わず」、人道的に処遇しその治療にあたらなければならないとを定めた条約であり、その第一条には、退却に際して、負傷兵を前線から後送することができない場合には、衛生要因をつけて、その場に残置し敵の保護にゆだねることができると定められています。
負傷兵が捕虜になることを認める条文です。
しかし、日本軍は、兵士が捕虜になることを事実上禁じませんでした。
この方針を決定的にしたのが、1941年に東条英機陸軍大臣が示達した「戦陣訓」でした。
戦陣訓は「生きて虜囚の辱めを受けず」と捕虜になることを事実上、禁じています。
同年12月に陸軍航空総監部が作成した「空中勤務者の嗜」には「敵地上空において、ひとたび飛行不能に陥り友軍戦線内に帰還の見込みなき時は、(中略)潔く飛行機と運命を共にすべし。いやしくも生に執着して不覚を取り、あるいは皇国軍人の面目を忘れて虜囚の辱めを受くるが如きこと断じてあるべからず」と明記されています。
吉田さんは、ガダルカナル作戦に関する田辺参謀次長の報告電から、次のように書いています。
「七割の兵士が戦死・戦病死(その多くは餓死)し、三割の兵士が生存しているが、その身動きのできない負傷兵は昇汞錠(強い毒性を持つ殺菌剤)で自殺させた上で、単独歩行が可能な者だけを撤退させる方針である。対外的には赤十字条約に批准しながら、国内的には残置を認めないという典型的なダブルスタンダードである。」
「戦陣訓」の「生きて俘囚の辱めを受けず」の言葉が多くの死者を生んだことは、纐纈厚先生やその他の方先生方の講演でもお聞きしました。
吉田さんの本で、戦陣訓の具体的現れを深く知ることができました。
吉田さんが、赤旗日曜版のインタビューで述べた「日本軍の極端な人命軽視の体質」の究極が、「日本軍自身による自国兵士の殺害」だったのではないかと思います。
引き続き、吉田さんの本から「アジア・太平洋戦争の現実」を学んでいきたいと思います。
この本を読まれた皆さん、感想をお聞かせ下さい。
NHKラジオ「すっぴん」。パーソナリティーの高橋源一郎さんの「源ちゃんの現代国語」で少し前に紹介されていたのが、大来る尚順さんの「訳せない日本語」でした。
大来さんは、山口県の浄土真宗本願寺派のお寺で生まれ、アメリカで仏教を学んだ方です。
現在は、僧侶であり、仏教の通訳や翻訳の仕事をされています。
この本には、大来さんが出会った「訳せない日本語」の数々がエピソードとともに語られています。
大来さんは、僧侶でもあるので、仏教に基づく解釈も加えられています。
この本から、二つの言葉を引用しようと思います。
一つは、「おかげさま」です。英語では「Because of You」が近い意味の翻訳になるそうです。
大来さんは、「おかげさま」についてこう書いています。
「『おかげさま』に、漢字を当てはめると『御蔭様』となります。この『御蔭』は、元来『神仏の加護に感謝する』といった意味を持ちます。つまり、『おかげさま』という言葉には『目には見えないさまざまな支えによって』という自己顕示欲を反省し、また自分を支えてくれている『ご縁』というものに感謝する精神が流れているのです。」
その上で、大来さんは、「『おかげさまで』という日本語を作りだした精神の根本とは、一体何なのでしょうか。」と問い、次のように書いています。
「これは、今日のようなテクノロジーや文明などがなかった時代に、自然の中で生き抜いてきた日本人の独特の感性に関係していると思います。地震などの自然災害の多い日本では、度重なる苦難の結果、人は自然には逆らうことはできなことを理解してきたのではないでしょうか。その証拠として、古来、日本では山川草木には神や精霊が宿るとして、すべてのものに対して感謝と畏怖の念を持って崇拝してきました。これがいわゆる日本のアニミズムというものです。思うように支配できない大いなる自然の力を前にし、平和な生活を願うとき、人は目に見えない力に頼らざるを得なかったのではないでしょうか。」
昨日は、父の13回忌を私の家族と母と姉たちの家族で行いました。
「人が自然に逆らうことができない」の最たるものは、「死」ではないかと思います。
だからこそ、亡くなった父へ感謝の気持ちを持って仏壇に手を合わせました。
大来さんは、「合掌」という言葉についてこう書いています。
「人は、忙しい日常生活では、自分の初心や足元を忘れがちになり、ときとして一時的な感情に任せて誤った判断をしてしまいがちです。そんなとき、仏壇に手を合わせることで、亡き人の生前の教えや思い出を噛みしめ、自己の反省をしたり、冷静な自分を取り戻すのです。」
先日も故郷の父と同年代の方から、「あなたのお父さんとの楽しかった出を、今でも思い出す。」と話していただきました。
仏壇に向かい合掌し、「おかげさま」と心で父と話す昨日でした。
今日は、高校の同窓会です。同級生と交流をし、自分の初心や足元を見つめなおしたいと思います。
皆さんは、どのような盆をお過ごしでしょうか。お教え下さい。