私が敬愛する山際寿一京都大学総長の最新刊「ゴリラからの警告『人間社会、ここがおかしい』」を読んでいます。
この本は、7月29日号のしんぶん赤旗日曜版で紹介され、山際さんご本人がインタビューに応じておられます。
この本の大きな柱が、人間社会が「サル化」していることを憂い山際さんの論説です。
赤旗のインタビューに山際さんは、次のように述べています。
「サルは非常に個人主義的です。食物は分けないし、子育てもメスがわが子を育てるだけです。人間は共感力を高め、大きな社会をつくって発展してきました。ところが人間はいまその社会性を捨てようとしています。一人で食べる個食が増え、子育ては単独の家族が背負うようになってきました。個人を血縁や共同体から切り離して、欲求をかなえるのは、資本主義が目指してきた方向です。でも、それは人間の社会性を弱めるものでもありました。」
山際さんは、本の中で、今日の人間社会の個食化について次のように述べています。
「私たちがこれまで食事によって育ててきた共感能力や連帯能力を低下させる。個人の利益だけを追求する気持ちが強まり、仲間と同調し、仲間のために何かをしてあげたいという心が弱くなる。待ち負けが気になり、勝ち馬に乗ろうとする傾向が強まって、自分に都合のいい仲間を求めるようになる。つまり、現代の私たちはサルの社会に似た閉鎖的な個人主義社会をつくろとしているように見えるのだ。」
先日、大学教員をしている方から「学生に共感能力や連帯能力が低下している」というお話をお聞きしました。
我が家の食卓でも個食化が進んでいることを実感します。
同じ時間に食べていても、それぞれが、スマホなどを観ながら食事をしている風景があります。
私たちの子どもの頃は、テレビで、ホームドラマという領域があって、家族で食事を囲む姿が見られましたが、今では食卓が様変わりしました。
社会は非寛容になり、人びとから共感能力や連帯能力が低下していることは実感します。
私も父たちの時代の人は、更に、共感能力があった人たちが多かったことを思い起こします。
それを「サル化する」人間と言う視点で分析する山際さんの論説に納得しました。
しかし、社会が人と人が共同する方向に変化すれば、人間だけが持っている共感能力が発揮されて、社会は好循環に変化するという展望を、山際さんの論説から感じることができます。
山際さんは、人間と暴力についても後半で論説しています。
この辺りの問題は、次回以降のブログで触れていきたいと思います。
以前から、山際寿一さんの本を何冊が読んできました。この本は、山際さんの人類学をわかりやすく集約した良著だと思います。今の時代を乗り越える展望を示してくれる本です。
山際ファンの皆さん、皆さんのご意見をお聞かせ下さい。
18日に、「人権フェスティバルIN宇部」が開催され、毛利博物館顧問の小山良昌さんのお話をお聞きしました。
演題は、「松下村塾の俊才 吉田稔麿 ~維新団・一新組の生みの親~」でした。
吉田稔麿は、松下村塾の近く、萩市松本村に生まれます。父は武士ではありましたが、中間という身分の低い階層でした。
16歳の時、松下村塾に入り、「人間に貴賤なし」を学びます。
稔麿が23歳の時に、藩の指導者たちに、「屠勇取立之建議」という提案を行います。
この提案は、了承され、稔麿は、「屠勇取立方」に任命されます。
稔麿は、被差別民を藩兵に登用する「屠勇取立令」を諸郡に回達します。
その結果、玖珂郡出身者により「維新団」が、三田尻出身者により「一新団」などが誕生します。
私の本棚に、周東町教育委員会が編集した「維新の扉を開いた 諸隊の雄 遊撃軍」があります。
この本の中に、「遊撃軍・維新団の活躍」という章があります。
この章の筆者は村崎修二さんです。
維新団は、江戸幕府と長州藩が戦った時に、広島方面で戦ったのが、遊撃軍。
遊撃軍の中心は、遊撃隊でしたが、遊撃隊と行動を共にしたのが維新団でした。
この章の「吉田稔麿の提案」という節があります。
稔麿の「屠勇取立之建議」について、村崎さんは次のように書いています。
「『屠勇』というのは簡単にいうと、江戸時代に士農工商の身分階層のしたに位置付けられていた賤民のことです。恐らく吉田松陰の影響と稔麿その人の人格から、差別的な考え方や、感情を取り除くかのように、あえて賤民階層の人々を『屠勇』という新語を作って呼んだものと考えられます。」
吉田稔麿は、この建議を提案した翌年に、「池田屋事件」で新選組によって殺されます。
村崎さんは、この節の終わりにこう書いています。
「維新団の名前とともに『屠勇取立策』という革命的な提案を行った吉田稔麿についても、歴史的に忘れてはならない人物だと思います。」
身分差別が制度化されていた江戸時代の末期に、身分制度を乗り越えて、身分が低かった人々を登用する提案を行った吉田稔麿のことを更に知っていきたいと思いました。
吉田稔麿について、皆さんの想いをお教え下さい。
現役の内科医である南杏子さんの小説「サイレントブレス」を読んでいます。
この小説は、大学病院から、在宅の訪問クリニックへ「左遷」された女性医師・倫子が最期を迎える患者と格闘する物語です。
最初の患者は、乳癌、二人目は、筋ジストロフィー症、三人目は、胃瘻手術を受けた患者さん。
患者さんの最期は壮絶だけれども、倫子をはじめスタッフな真摯が姿勢に心が清らかになります。
大河内教授が倫子にこのような声かけをします。
「平和な治療だけしているとね、人が死ぬということを忘れがちなんだよ。でもね、治らない患者から目をそらしてはいけない。人間は、いつか必ず亡くなるのだから」
作者の南さんが、本書に関わるインタビューでこう答えています。
「長く医療の現場では、患者の死は『負け』と位置付けられていました。私自身医師として、同じ哲学のもとに病気と闘った時期もあります。その一方で、祖父を介護した経験に始まり、終末期を迎えた多くの患者と向き合いながら、徐々に考えが変わりました。」「死を『負け』と考えるのではなく『ゴール』と考えることで、終末期医療の風景は180度異なってくるはずです。」
私の川柳の師であった故時実新子さんの句に「今ぞ今 死は生きること 生きて死ぬこと」があります。
死ぬ直前まで自分らしくありたいと患者は願います。その願いにそえる医療であってほしいと思います。
私の予想では、本作は必ず映像化されると思います。
主役の医者は、綾瀬はるかさんなどはどうでしょうか。
関係者の皆さんよろしくお願いいたします。
南杏子さんには、現役医師として、生きる力の湧く小説を書いていただくよう、これからも大いに期待しています。
ご家族を介護されている方などは、ぜひこの本を手に取っていただきたいと思います。
「サイレントブレス」を読まれた皆さん感想をお聞かせ下さい。
久保つぎこ著「あの日のオルガン 疎開保育園物語」を読んでいます。
アジア・太平洋戦争の末期、東京大空襲の戦火を逃れ、埼玉県に「疎開保育園」を立ち上げ、運営した取り組みがありました。
この本は、当時の保育士の方々などの証言を丁寧に追ったドキュメンタリー小説です。
この本を原作に、平松恵美子監督で映画「あの日のオルガン」が完成し、来年から上映が始まります。
疎開保育園を開いたのは、埼玉県南埼玉郡平野村高虫という所です。普段使われていないお寺を保育園にしました。
小説の中には、駅から6キロを往復して荷物を運び込む保育士の姿が鮮明に描かれています。
荒れ寺は、竈もトイレも壊れており、保育士がご近所の協力を得て、竈とトイレを作ります。
その中で、53人の子どもたちの保育を行うのです。壮絶ですが、保育士の生き生きとした姿には、こちらが、清らかな気持ちになります。
冒頭、家族全員が亡くなり、天涯孤独になった4歳の藤ノ木健之君へ福知保育士が声をかけるシーンがあります。
「先生のおてつだいを
いつも
一生懸命になってしてくれる
小ちゃい けんちゃん
日本の国が戦争に勝つために
けんちゃんは
まだ四つにもならない時
家のみんなとお別れして
ここに来た。
妙楽寺の 疎開保育園に。
けれど、
家族のことばかり心配していた
あなたのお父さんは
お船といっしょに
暗い海の中に沈んでしまった。
輸送船が爆撃されて。
四日前に知らせがきて
三月十日
東京に空襲があったという。
その日
あなたのお母さんが
死んでしまった
あなたが可愛がっていた
妹のたかえちゃんが
焼け死んだ
あなたが生まれた時
兵隊が生まれたと
あんなにも喜んだおじいちゃんが
焼けむされて死んだ。
あなたのお家だった
同潤会アパートに
アメリカの飛行機が爆弾を落として
みんな
死んでしまったのだ 一度に。
大勢の人が死んで
たくさんの場所が焼けた
あなたが
職場へ急ぐお母さんと手をつなぎ
いっしょに歌いながら通った
私たちのなつかしい保育園も
みんな焼けてしまって
今は
ない
小さい藤ノ木健之よ
あなただけが
ひとり 残ったのだ・・・」
疎開保育園を開設した母体の一つの保育園には東京帝大セツルメントが関わっていました。
私は、大学時代、セツルメント活動を行っていました。大先輩の頑張りに感銘を受けました。
戦争の最中、幼い子ども達の命を少しでも救おうと奮闘した、私の祖母世代の皆さんの努力から学びたいと思います。
子どもは平和の中で生きる権利があるという、子どもの権利条約の精神が日本で世界で発揮されることを願ってやみません。
映画「あの日のオルガン」。今から楽しみです。
久保つぎこさんの「あの日のオルガン」をお読みになった皆さん感想をお聞かせ下さい。
12日の毎日新聞の書評に、石井光太さんの「原爆 広島を復興させた人びと」が取り上げられていました。
石井さんは、原爆に関心を持ったのは20代の頃だと言い、記事は次のように書いています。
「親しくしていた女性が広島出身の被爆3世。『私は被爆しているかもしれないから子どもをつくちゃいけないの」。げんばくは遠い過去の話だった。しかし、『目の前にいる、よく知っている女性が今も原爆の被害で苦しんでいる』現実に衝撃を受けた。作家になってからはいつか書くべく、準備をしていたという。」
本書は、「原爆市長」と呼ばれた浜井信三さん。世界に平和を発信する拠点の建築構想に応じた建築家の丹下健三さん。原爆ドームの保存に突き進んだ広島市職員の高橋昭博さん、初代広島平和記念資料館の初代館長の長岡省吾さんを取り上げたノンフィクション作品です。
一番丁寧に取り上げられているのは、長岡省吾さん。記事は次のように書いています。
「膨大な被爆資料を残し、広島平和記念資料館(原爆資料館)の初代館長も務めたが『長らく歴史から消されてきた。資料館を建てた最大級の功労者であるにもかかわらず、一冊の評伝もない』。書き手のエネルギーに火が付いた。」
今、本書を読んでいますが、長岡さんは、戦中、中国にあった陸軍の特殊機関にいたことが書かれています。
長岡さんは、ドイツ出身のユダヤ系ジャーナリストのロベルト・ユンクさんに原爆資料の収集をする覚悟について次のように語っています。
「売って食べものに変えることができる品物を追い求めるかわりに、こんな(値打ちのない古いもの)にかかりきりになっているということで嘲笑する者がいるなら、勝手に嘲笑するがいい。しかし、後世に広島の犠牲がどんなものであったかをまざまざとわからせるのは、だれかがしなければならない仕事なのだ。少なくともだれかが、人間の歴史のどん底を、良心のない人びとや空想力の乏しい人びとの眼前に警告としてよみがえらせなければならないのだ」
「原爆の実情を後世に残そうとする決意」と言えばその通りですが、長岡さんの鬼気迫る想いが表現された言葉です。
長岡さんのこの想いがなかったら、原爆資料館さえなかったかも知れないと思うと、彼の功績の重さを実感します。
後に市長になる浜井信三さんの戦後にも感じるものがありました。
浜井さんは、旧制第一高校に進学し、東京帝国大学法学部を卒業しますが、卒業間近に結核にかかります。
故郷の広島に帰省し、幸い、病気は快復し、広島市役所に就職します。
原爆投下で多くの市役所の職員が亡くなるなか、浜井さんは、市民へ食料の配給や冬に備えた防寒着の配布を率先して行い、市民から喜ばれます。
その評判もあって、浜井さんは、助役への就任を要請されます。
浜井さんは固辞しますが、前市長の藤田若水さんの次の言葉に胸を打たれます。
「君は、いわば天が広島市のために生かしておいた人間のようなものだ。よけいなことをいわず、君は広島市のために死ね。」
広島市は、戦中までは、陸軍を主とした軍事施設が集まる「軍の町」でした。
浜井さんは、広島市の中心に据わり、広島市を「平和の町」として再生させようと尽力します。
何度も、本ブログに書いてきましたが、私は大学1年生の冬、犀川スキーバス転落事故に遭遇しました。
一瞬の内に、22名の学友を失い、自分がなぜ生き残ったのかを考え続けてきました。
亡くなった学生は、誰も学業に励み、将来の夢も鮮明でした。
自分は死ぬ資格がない人間だとも思いました。
藤田前市長が浜井さんにかけた「広島市のために生かしておいた人間」という言葉は私の心にも突き刺さりました。
人間は、生まれた瞬間から、亡くなる瞬間まで、様々な偶然が重なって生きているのだと思います。
「生かしておいて人間」という言葉を、私は、「生かされている自分」と受け止めました。
「生かされている人間が、人類が共存できる社会のために、出来る役割を果たしていく」
これが、生きるということなのかなあと考える今日この頃です。
人類が共存できる社会のために、広島で起こった事実を私たちは決して忘れてはならないと思いました。
戦後の平和都市・広島市の礎を築いた、長岡さんや浜井さんの遺志を引き継がなければならないと思いました。
生かされている私たちは、広島を想い、考えることが必要だと感じました。
石井光太さんは、私が尊敬する作家の一人です。石井さんの「原爆 広島を復興させた人びと」から学び、石井さんの他の作品からも学びたいと思います。
この作品を読まれた皆さん、感想をお聞かせ下さい。
私も人並みにお盆は少しゆっくり過ごしました。家族や友人と過ごす時間の間に、下重暁子さんの最新刊「極上の孤独」を読了しました。
下重さんの本は書店で何度も見ていますが、実際に読んだのは、この本が初めてです。
まだまだ子育て真っ最中に私ですが、少しずつ、家族のために費やす時間が少なくて済むようになりました。
後10年経てば、中二の長女も社会人になっている年です。
10年後は、子どもに関わる団体などとの関わりも少なくなり、費やす時間も大きく変わっていることでしょう。
この本の大きなテーマは「中年からの孤独をどう過ごすのか」です。
私が心を打たれたのは「孤独と品性は切り離せない」という章です。
下重さんは、冒頭でズバリこう書いています。
「年をとるにつれて、だんだんいい顔になる人といやな顔になる人がいるが、その差は品性にあると思う。歳と共にその人の持っている内面が見事に表情にあらわれてくるからだ。」
盆には、毎年、同窓会があり、多くの同級生や先輩後輩にお逢いします。
年々、いい顔になっている人というのは確かにいるものです。
下重さんは、次に、品とは何か。こう書いています。
「お金があっても変えないし、体力があっても作ることが出来ない。精神的に鍛え上げた、その人にしかないもの。賑やかなものではなく、静かに感じられる落ち着きである。」
「品とは恥の裏腹にある。恥とは自分を見つめ、自分に問うてみて恥ずかしいかどうかである。」
下重さんは、その上で、恥と誇りとは表裏一体と言い、次のように書いています。
「自分を省み、恥を知り、自分に恥じない生き方をする中から、誇りが生まれる。それがその人の存在を作っていく。そして、冒すことの出来ない品になる。いつも外へばかり目が向いていると、誇りも恥も生まれては来ない。黙ってじっと自分の内面と対峙している人には、外の人間が入り込めない雰囲気があり、それがオーラとなっている。」
下重さんは、その上で、本書のテーマである孤独と本章のテーマである品との関係についてこう書いています。
「品とは内から光り輝くものだと考えれば、輝く自分の存在がなければならない。自分を作るためには、孤独の時間を持ち、他人にわずらわされない価値観を少しずつ積み上げていく以外に方法はないのだ。」
私は、小学校の通信簿に毎年「落着き」がないと書かれていました。
私に「静かに感じられる落ち着き」が未だに育っていないことは自ら認めるところです。
私は、このブログを、ほぼ毎日、10年以上、書き続けています。
私にとって、ブログを書く時間が、自分と向き合う時間であることは確かです。
来年の選挙に向けて、自分自身のための時間は、これから、益々少なくなってくる時期です。
その中でも、孤独の時間を持ち、自分を見つめ直す時間を確保したいと思います。
そして、自分の顔を少しでも内面から輝かせたいと思います。
下重さんは、私の母と同世代の方です。
五木寛之さんは父と同世代の方です。
これからは、下重さんを母からの言葉と思い、五木さんを父からの言葉と思い、人生行路の参考書にしたいと思います。
下重暁子ファンの皆さん、お勧めの本をお教え下さい。