今朝のしんぶん赤旗日刊紙に「天皇『代替わり』儀式の問題点」と言う特集が組まれていました。
私が敬愛する宗教学者の島薗進さんが、まず、大嘗祭と即位儀式について次のように問題提起をしてきます。
「新穀を天照大神にささげ、天皇が神と共に食するという大嘗祭は、大正期以前は宮中の限られた空間で行われ、国民の多くは関与していません。大規模な代替わり儀式は大正になるときからです。天皇が神聖な存在だと国民に印象づける大がかりな国家的行事や明確な神道儀式がある大嘗祭への公費支出は疑念があります。即位儀式とされた剣爾等継承の儀は、神話の中で天照大神が天孫に受けたという『三種の神器』を引き継ぐもので、日本の王権が神聖である根拠だという宗教的理念に深く関わるものです。これを国事行為とすることは政教分離の点で問題です。」
その上で、島薗さんは、天皇代替わりの儀式の政治的問題点について次のように指摘しています。
「新憲法下で皇室祭祀は皇室の私的なものとなりましたが、同時に天皇は日本国の象徴、国民統合の象徴であり公的な存在なので、そこに曖昧さがあり、天皇代替わりに露呈します。皇室祭祀を公的なものとするのは、信教の自由と政教分離を定めた憲法20条に反します。現憲法の下では、特定の宗教や信念体形が国民に押しつけられてはならないのです。皇室祭祀を足場とする申請天皇を求める動き、例えば天皇の役割は宮中祭祀にこそあるという主張や、靖国神社に国家的性格を与えようという日本会議などの運動が続いています。それに対する歯止めとして、思想・良心の自由を保障した憲法19条、それとミス美着いた20条、公金の宗教団体への支出を禁じた89条があります。戦前、国家神道、天皇崇敬は一般の宗教とは別だとして国民に押しつけられ、広められ、多くの国民が天皇のため命を投げ出すという悲劇的結末に追い込まれました。植民地化や侵略など対外的な膨張主義はむろん、国民自身の命も軽んじられた歴史があります。近代の形成期につくられたものは根が深く、新憲法による転換が押し戻される可能性もあるわけです。ことに歴史を肌身で知る盛大がいなくなる中で、メディアや教育でも認識が甘くなっています。」
山口県でも県知事が山口県護国神社に公式参拝を続けています。
これは、信教の自由と政教分離を定めた憲法20条に反する疑念があります。
皇室祭祀を足場として天皇の神聖化が進められ、新憲法の原則がなし崩しになることは許されません。
天皇代替わりの日に、改めて、島薗進さんの指摘を胸に刻む時だと思います。
天皇代替わりに関する皆さんのご意見をお聞かせ下さい。
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