議員日誌

宮森小学校米軍機墜落事故

 1959年6月30日に、アメリカ空軍のノースアメリカンF100Dジェット戦闘機が沖縄県石川市(現在はうるま市)にある宮森小学校に墜落する事故が起こりました。

 事故当時の死者は17人(小学生11人、一般住民6人)、17年後に後遺症で一人が亡くなり、死者の数は、18人となっています。

 この事故に関し「ウイキペディア」は「事故当時、学校には児童・教職員ら約1000人がいた。当時は2時間目終了後のミルク給食の時間で、ほぼ全児童が校舎内にいた。特に直撃を受けた2年生の教室の被害が最も大きく、火だるまになった子供たちは水飲み場まで走り、そのまま次々と息絶えたと伝えられている。」と書いています。

 今日、「宮森小学校米軍機墜落事故」の事を取り上げたは、私が今読んでいる真藤順丈さんの「宝島」にこの事件が取り上げられいるからです。

 主人公の一人である「ヤマコ」が苦難を乗り越え教員となり、病気療養中の先生の代替教員として石川市の小学校の仁先生の担任となります。

 真藤さんは、小説で、事件当時の学校の内部をこう描写しています。

 「校庭じゅうが砂煙で埋めつくされた。鉄棒や百葉箱がたちまち下敷きになる、窓の外でまた跳ねると、巨大な翼と機首がヤマコたちの校舎に覆いかぶさった。頭のてっぺんから足の爪先まで、激しい衝撃に呑みほされた。飛行機が跳び箱を跳びそこねて、いちばん上の段を崩しながら超えていったみたいだった。燃えさかる鉄の機体が、二重窓もトタン屋根も引き飛ばし、天井や壁を粉砕し、硝子のつぶてや火の雨を降らせながら、ヤマコたちの教室を通過していった。校舎を薙ぎはらった貪欲なえエネルギーのかたまりはそのうちに火を呑んでいく、燃える瀑布と間欠泉がせめぎあうような上下左右からの高熱に巻かれ、教室はたちまち火の海となった。」

 事故当時の校舎の中にいるような臨場感がこの文章から伝わってきます。

 普天間第二小学校に軍用ヘリコプターの窓枠が落下する事故が発生し1年が経過しました。

 運動場の使用を開始した2月から約7カ月間で、学校の上空を軍用機が飛来し、児童が避難した回数は700回以上となっています。

 宮森小学校米軍機墜落事故は終わっていないことを実感します。

 志位委員長は、党創立96周年の記念講演で、普天間第二小学校の状況を「まるで戦時下の空襲警報です。体育の授業中に避難する学校などありえないことです。米軍機は事故を起こしても何事もなかったかのようにすぐに飛行を再開してしまう。ところが日本政府は米軍の言い分をうのみにして飛行再開を容認してきました。これで主権国家の政府と言えますか(「言えない」の声)。政府は、子どもたちに避難指示を出すのでなく、米軍に飛行中止を求めるべきであります。」と語りました。

 沖縄の日本の縮図です。日本の主権が問われています。

 引き続き、真藤さんの「宝島」から沖縄を学びたいと思います。

 皆さんの沖縄への思いをお教え下さい。

 

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