先日、李相日監督の映画「国宝」を観ました。
ここ数年に観た映画の中でも屈指に魂が揺さぶられた作品でした。
11日のしんぶん赤旗日刊紙の文化欄に、古典芸能エッセイストの盛田梢路さんの、「映画『国宝』を見る」と題する次のエッセイが紹介されました。
「今や社会現象化の様相を呈している映画が『国宝』(李相日監督)だ。若い人たちの間でも話題となり、都心などではチケットの完売が続いている。驚くべきは人気漫画の映画化でもなく、歌舞伎役者の一代記である芸道もの映画であるという点だ。名門の血筋が重視される歌舞伎界で、極道の家の息子として生まれた主人公が、その類いまれなる美貌と芸で人間国宝の名女形にまで昇り詰める物語である。背中に彫り物のある主人公の少年は天賦の才で歌舞伎にのめり込み囚われていく。兄弟のように育つ名門御曹司との血のにじむ切磋琢磨を越えてついに頂点に立つ。あらゆるものを犠牲にして芸の到達を目指す主人公の残酷なまでに美しい舞踏には魂を揺さぶられる。この映画は重層的な驚嘆に満ちている。まず映画化されたという驚きだ。7年前、ベストセラー作家吉田修一が原作を発表して大いに話題となったが、歌舞伎ファンは、映画化は不可能だと思っていた。独自の芸界の中で幼少期よりの厳しい修練の結果として存在するのが歌舞伎役者だと知っているから、一般の役者がまねて演じることは不可能だと。これを見事に覆して見せた。なぜここまで特殊な世界を描くことができたのか。なんといっても主人公を演じた吉沢亮の、女形としての息をのむような圧巻の演技が大きい。名門御曹司役の横浜流星も同様だ。しかしそれだけでは、これほどの感銘は覚えなかったろう。当たり前になりつつある映像におけるAI技術と相反する、吉沢亮の生身の演技という身体性に私たちは打ちのめされたのだ。原作者の吉田も取材のため黒子として3年間楽屋働きをし、吉沢は1年半過酷な女形の舞踏の稽古を重ねた。特に市川歌右衛門を彷彿とさせる田中泯の演技など、歌舞伎役者役の俳優たちの身体性も心に迫ってくる。キャストだけではない。制作陣が歌舞伎という化け物じみた古典芸能に命がけで挑んでいるのがひしひしと観客に伝わってくるのである。いっさいの吹き替えや加工などない生身の芸だけで貫いた身体性が、映像のAIに勝利した作品ともいえるのだ。」
今、吉田修一著「国宝」の「青春篇」をほぼ読み終えました。
白虎が亡くなる直前に、喜久雄にこう言います。
「ほんまもんの芸は刀や鉄砲より強い」
この言葉は、沖縄の歌手である喜納昌吉さんの「全ての武器を楽器に」を思い起こしました。
世界には、「ペンは剣よりも強し」という言葉もあります。
武器や兵器がはびこる世界ではなく、言論や歌や芸が自由に行える世界を望みます。
今日は、参議院選挙投票日です。そのような選挙結果になることを望みます。
投票がまだの方は、投票所で一票を投じてください。政治を変えていきましょう。
No comments yet.
コメント公開は承認制になっています。公開までに時間がかかることがあります。
内容によっては公開されないこともあります。
メールアドレスなどの個人情報は、お問い合せへの返信や、臨時のお知らせ・ご案内などにのみ使用いたします。また、ご意見・ご相談の内容は、HPや宣伝物において匿名でご紹介することがあります。あらかじめご了承ください。