議員日誌

物語ること、生きること

 ここ数日は、上橋菜穂子さん原作の「精霊の守り人」のドラマを週一回観て、その間、原作を読む日々です。

 「守り人」シリーズは、今、シリーズ第二弾「闇の守り人」です。

 「闇の守り人」を読んでいると益々、ジグロに惚れてしまいます。

 ドラマでは、吉川晃司さんが好演されています。

 文庫の「闇の守り人」の解説で、アニメ作家の神山健治さんが、劇作家の寺山修司さんが「あしたのジョー」の力石徹の葬式を行ったことを例にとり、自分は、ジグロの葬式をしたいと書かれていますが、この物語を読んでいると神山さんの気持ちがよく分かります。

 さて、今日は、上橋菜穂子さんのエッセー集「物語ること、生きること」の感想をお伝えしたいと思います。

 上橋さんが何故、物語を紡ぐのかか書かれた本を読んで、上橋ファンタジーの今父的意義を再評価しました。

 「『わたし的には』の罠」には、文化人類学者としての上橋さんの持論が展開されています。

 「それぞれの価値を尊重した結果、埋めがたい溝が、溝のまま、法治されてしまう。それは、文化人類学で『相対主義の罠』と言われていたものに似ている気がします。」

 「国と国との戦いなら『戦争』と言ってもらえるけれど、国を失った人、国を持たせてもらえない人がそれをすると『テロリズム』と呼ばれます。テロリズムというのは、つまり、圧倒的な力の差があるとき、それでも自分たちは間違っていないということを証明するためには、他者を壊してもかまわないという論理です。」

 「確かに、時として、この世界は、強い者に有利な、ひとつの巨大なシステムとして機能しているように思えてきます。しかし、だからといって、恐怖を武器にして人を殺すことで、自分の正当性を証明しようとする考えかたは、やはり、どこか大きく間違っています。かつて日本が『奥にのために』と戦争に突き進んでいったように、何かを守ろうとすることは、時に他者を破壊することをよしとしてしまうほどの強さを持ちうるのです。だとしたら、そこには至らない別の道、境界線を越える別のやりかたを見つけるしかない。」

 上橋さんは「壁を超えていく力」の中でこう書いています。

 「私の好きな物語に、もし共通点のようなものがあるとしたら、それは背景の異なる者同士がいかにして境界線を越えていくかを描いているところかも知れません。」

 上橋さんは、境界線を越えていく世界の物語を読み、彼女自身が紡いだ物語の中で「境界線を超えていく」という別の道を描いてきたのだとこのエッセー集を読んで痛感しました。

 大国の横暴と一方でそれに抗する「テロリズム」が蔓延している世界の只中で、今こそ、上橋さんが描く物語が読まれる時だと感じました。

 「文化や伝統は守るべきもの、尊重すべきものという考え方を否定するつもりはありませんが、相手の中のよいところを見つけたら『自分の持っているものより、こっちのほうがいいような気がする』と思うことができる自由、かたくなに守らなくてもいい、捨てたっていい、どちらを選んでもいいんだという寛容さ、それこそが、本当の自由という気がするのです。」

 上橋さんの「『わたし的には』の罠」に書かれたこの言葉を世界が噛みしめたいものだと思います。

 これからも、年齢的には、一つだけお姉さんの上橋さんから多くのことを学んでいきたいと思います。

 それでは、「闇の守り人」を読み進めることにします。

 上橋ファンの皆さん、印象に残った登場人物の言葉などお教え下さい。

 

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