子どもが通っていた保育園の保護者仲間の方ややっておられる「体幹チューニング教室」に妻と参加してきました。
体幹チューニングは、元日本キックボクシングのチャンピオンだった須田達史さんが考案されたものです。
以下、須田達史著「やせる!体幹チューニング」を引用しながら体幹チューニングを紹介します。
体幹チューニングの「体幹」とは、体の中心部のこと。
「チューニング」は、調律、つまり本来あるべき姿に戻すことを目的にしています。
最初に、妻と私が向き合い立った姿勢をチェックすると、それぞれどちらかの方が上がっていたり、横を向くと首が前に出ていたりと体のゆがみが分かります。
まず行うのが腹圧調整。
寝た姿勢で、お腹を「の」の字に7か所押さえていきます。
次は、キラキラ体操。
寝た姿勢で、両手を内側を向けて合わせ、思いっきり背伸びをします。
その手を「キラキラ星」のダンスをするように、手を伸ばしたまま、腰まで戻します。
基本は、この二つの体操です。
この本に「腹圧が低下すると体が前かがみになり、肩や背中、腰の筋肉に負担がかかります。さらに、内臓は、重力に負けて下垂し、押しつぶされて血液循環も悪化して、その本来の機能を発揮できなくなるのです。その状態が長期化すると、内臓が癒着を起こしたり、体全体の免疫力が低下します。この体のフレームワークの中心を担う体幹がゆがんだ状態(=腹圧の落ちた状態)を、体幹チューニングでは「体幹チューニングでは『体幹がブレる』と呼んでいます。」
この体幹のブレをただすのが、この二つの体操です。
体操を続けて今日で3日目です。体が軽くなったことを実感しています。
妻と二人で、これからも「体幹チューニング」を続けていきたいと思います。
私には、積年の夢があります。それは、「開脚」です。
何度も挫折してきましたが、「体幹チューニング」で体を整えながら、Eiko先生の「ベターッと開脚」の本で、開脚ができる体にしていきたいと思います。
この二つの体操を始めて感じることは、私の膝の裏の筋肉がとにかく固いことです。
開脚ができない理由の一つはこれだったことが分かってきました。
来年中には開脚が出来る体になるように、「体幹チューイング」「開脚」体操を続けていきたいと思います。
「開脚」への過程を本ブログでも報告していきたいと思います。
先日読んだ「ランナーズ」には、「50歳からは股関節の柔らかさが大切」とありました。
体の柔らかい50代を目指してアンチエージング目指して体操を続けたい思います。
皆さんの健康法をお教え下さい。
妻と一緒に
19日に朝日新聞文化欄に「障害者福祉の父」と言われた糸賀一雄さんの特集が組まれていました。
「今年7月、相模原市の障害者施設『津久井やまゆり園』で入所者19人が命を奪われた事件のあと、『この子らを世の光に』のフレーズがネット上で拡散された。その由来を知る者も知らない者も、この言葉にすがった。加害者の『障害者なんかいなくなればいい』という極端な発想に対抗するよすがとして。糸賀が54歳で早世してから半世紀近くが経つが、この言葉は社会の中で生き続けている。だがそれは、糸賀の理想とした社会がいまだに実現されていないことの裏返しでもあるのだろう。」
私は、日本福祉大学で3・4年生の時、障害者福祉のゼミナールで学んでいました。
担当教官の大泉溥先生の著書「障害者の生活と教育」に、糸賀一雄さんのことがこう書かれてあります。
「障害者の問題を単なる政治告発や体制批判のための手段に利用する態度をさっぱりと否定して、日本の国民と社会の発展を全体的に実践的に推進していく思想へと深化させていく。『この子らに世の光を!』ではなく、『この子らを世の光に!』だと糸賀一雄が言うとき、こられ一連のとりくみを通して彼の生命をかけて体得した『福祉の思想』(1968)が何であったのかを私たちは知るのである。それは、発達の科学的研究にうらうちされた障害者問題の実践的解決が日本の未来をきりひらく指針となるということに他ならない。とすれば、その創造的実践展開のなかで生み出された『発達保障』理論にはとくに注目すべきだろう。」
大泉先生は、糸賀一雄さんは、「発達保障」理論の父ではないかと指摘しています。
私が、1987年8月3日に、第21回全国障害者問題研究会に行った時に購入した「発達保障の探求」という本に、埼玉大学教授(当時)の清水寛さんのサインが記されています。「発達保障は、人類の新しい世紀を拓く」。
糸賀一雄さんは植えた「この子らを世の光に」との理論は、その後の研究者や実践家によって、「発達保障」論に発展し、人類の未来を拓く理論へと発展していることをこの度、実感しました。
その上で、大泉先生が本の中で取り上げている糸賀一雄さんの「福祉の思想」を見てみます。
「知恵おくれの低能児のことなどなにひとつ考えてみなかった社会に、呼びかけ働きかけ、この子らの立派な生き方を示すことによって、社会の人々にこの子らのことを考えさせるようにしたとするならば、それは、たいへんな大事業なのである。それは政治的、暴力的な革命ではない。しかし、もっとも理解しにくい精神薄弱の問題を、自分自身の問題として連帯的に真剣に取り上げるような社会が形成されたとすれば、それは社会全体の内面的な変化であり、進歩であり、むしろ教育的革命と呼んでよいのかも知れないほどの大改革である。」
糸賀さんが「この子らを世の光に」と言うバックボーンに一つとしてアメリカのケネディ大統領の言葉がありました。
「大統領精神薄弱委員会の席上、ケネディ大統領は次のように演説をした。『身体障害者、精神病者その他の病気にたいする治療や対策は長足の進歩を示したにもかかわらず、われわれは精神薄弱問題のために国家的な集中的調査研究を行うことをあまりにも後まわしにしてきた。この誤りも是正しなければならない。心身障害者に深い関心をもつように、叡智と人間性は命令する。-われわれがこれら薄倖の人びとに関心を寄せるのは、単なる政治の指標のためではないし、また国家に利益や人的資源の保護のためでもない。それはアメリカの未来を拓く鍵だからである。」
50年以上までにケネディ大統領は、障害者問題への対応は「アメリカの未来を拓く鍵である」と言いました。
日本では、知的障害者施設を創設した糸賀一雄さんが「この子らを世の光に」と言いました。
糸賀一雄さんのことを考えながら、私は30年前の学生時代に立ち返ることが出来ました。
ケネディ大統領や糸賀さんが求めた社会へいまの日本を近づけていくことが私の人生をかけての仕事であることに改めて気づかされました。
「この子らを世の光に」みなさんはこの言葉をどう受け止められますでしょうか。ご意見をお聞かせ下さい。
18日、しんぶん赤旗日刊紙は、時事通信の配信として「自衛隊が次期主力戦闘機として導入する予定の機体を含む空軍仕様のF35戦闘機(A型)57機で、燃料タンク内の冷却管の絶縁体が剥離する不具合が見つかったと分かりました。」と報じました。
しんぶん赤旗は、同記事の解説として「米空軍は14年にフェブサイト上で、F35には燃料温度に限界値があり、『非常に高熱になると、F35は正常に作動しない可能性がある』と明らかにしています。今回の不具合も、燃料の温度調整システムに関わるものだとみられます。F35の開発をめぐっては、これまでもエンジン出火やソフトウエアの不具合など、数々のトラブルに見舞われ、開発費は4000億ドル(約40兆9000億円)まで高騰。米国内で『史上最も高額な兵器』との指摘があり、日本の導入額も1機あたり約99億円(12年度)から約158億円(17年度概算要求)に上昇しています。日米両政府は事実関係を早急に明らかにする必要があります。」と報じています。
F35B〈海兵隊仕様)が来年から順次岩国基地に配備されようとしています。
この問題をめぐり「瀬戸内海の静かな環境を守る住民ネットワークは、15日、F35Bの安全性につて国に報告を求めるよう県に申し入れを行いました。
16日の毎日新聞は「申し入れは、F35Bの実戦部隊の配備の歴史が浅く『安全性が確認された』とは言えないと指摘。また、同じエンジンを持つF35A(空軍仕様)が2014年6月に米国内で離陸しようとしてエンジンから火を噴いた事故を起こしたとして、『重大な欠陥をもつ可能性がある』とした。対応した県の担当者は『F35Bの安全性や配備後の部隊編成について(国に)文書で事故についても追加で確認している。国からの回答を踏まえて適切に対応する』と話した。」と報じています。
来年早々から、航空自衛隊三沢基地にF35Aが、米軍岩国基地に、F35Bがそれぞれ配備されようとしています。
日米両政府は、急いでF35戦闘機の不具合に関する事実関係を青森県や山口県の関係者に丁寧に説明すべきです。
F35戦闘機に不具合があることが明らかになりました。皆さんはこの問題をどうお考えですか。
安倍政権が昨年9月19日に戦争法(安保法制)の成立を強行してから1年です。戦争法案の廃案を求め、空前の規模に広がった国民の運動や世論に背を向け、大多数の憲法学者や歴代の内閣法制局長官、元最高裁判所長官など、かつてない広範な識者からの「憲法違反」との批判にも一切耳を貸さなかった安倍政権の独裁的暴挙は、日本の戦後政治史上、最悪の汚点を残しました。安倍政権は今年3月に戦争法の施行を強行し、本格運用に乗り出しています。戦争法の発動を許さず、廃止を求める闘いをさらに発展させていきましょう。
毎日新聞に浜矩子同志社大学教授が「危機の真相」というコラムを連載しています。
戦争法が強行された2015年9月19日のコラムを見ていきます。
第28代アメリカ大統領、ウッドロー・ウィルソンは「革命の種は抑圧によってまかれる」という言葉を遺しています。
フランスの文豪、ビクトル・ユゴーは「独裁が現実となった時、革命は権利となる」という言葉を遺しています。
浜さんは、この二つの言葉を紹介した上で、安保法案に反対する市民運動について「彼ら革命に、体制転覆を目指す暴力性はない。彼らの目的は破壊的ではない。まっとうな人々が、まっとうな声を上げている。まともな市民たちの連帯だ。普通の市民たちの意気投合が。」と書いています。
浜さんは、この市民運動を「グローバル市民主義」と表現しています。
なぜ、グローバル市民主義なのかについて「ヒト・モノ・カネが国境を越えるグローバル時代において、国家ができることには限界があるからだ。国境なき時代において、国家が存在意義を持ち続けるためには、どうしても市民たちの声を聞かなければいけない。その意味で、グローバル時代こそ、真に民主主義的な時代でなければならない。そういえるだろう。そういえるのだということを、今、日本の国会周辺そして全国津々浦々で、市民たちの声が示している。」と語っています。
民主主義的な時代を阻む「戦争法」を発動させず、なくす運動を大きく展開していきましょう。
「戦争法」強行1年。皆さんのご意見をお聞かせ下さい。
信楽峻麿著「親鸞はどこにいるのか」を読んでいます。
信楽峻麿さんは、龍谷大学学長を務めた文学博士でした。2014年9月に亡くなられました。
信楽さんは、私が参加している「念仏者9条の会」の呼びかけ人代表でした。
さて、本著「親鸞はどこにいるのか」は、信楽さんの最後の著作となりました。
私は、過去に読んだ仏教関係の本の中で一番といっていい刺激を受けました。
その刺激とは信楽さんの「日本を二度と戦争する国にしてはならない」という本気度です。
本著の「はじめに」から少し引用します。
「この西本願寺教団は、すぐる昭和一二(1937)年の7月に、日中戦争がはじまると、それは明らかに中国大陸に対する侵略戦争であるにもかかわらず、いちはやくそれを『聖なる戦い』『聖戦』と呼んで、親鸞のき教言『世の中安穏なれ』(『親鸞聖人御消息集』真聖全二、六九七頁)という文章まで引用しながら、その戦争に全面的に賛同し、教団をあげて協力していったわけですが、かつての戦争協力にも明確には自己批判することなく、いままた戦争に賛成するとはどういうことか。このままだとするならば、日本国では、これから『憲法』を改悪して戦争のできる国にするという流れが生まれていますが、西本願寺教団は、またぞろ、そのような国家体制に同調して、戦争に賛成し、全国の信者をして、その戦列に動員していくのではありませんか。恐ろしいことです。西本願寺には、そのような過去を厳しく省み、未来を明らかにおもんばかって、自ら正しい進路を見とおせるような識者はいないのか。」
私は、門徒の立場で、教団の末端を担う一人として、腹にズシリと突き刺さる信楽さんの一言です。
信楽さんは、東西本願寺教団の戦時教学を丁寧に紐解いた上で、「今日の日本の政治状況は、憲法を改悪して、他国と戦争のできる軍隊の創設をたくらんでおりますが、この状況に対して、「兵戈無用」の教言を奉じるはずの東西本願寺の真宗教学者は、どう対応するのでしょうか。過去に、戦時教学という重大な罪科を背負うところのその信心の内実が改めて問われてくるところでしょう。」と書いています。
私は、残念ながら信楽さんから直接のお話しをお聞きする機会は逃してしまいました。
しかし、信楽さんには、膨大な著作が残されています。
その著作の一つ一つを学んでいきたいと思っています。
信楽さんの著作から「親鸞におけるまことの真宗教義」を学びながら、日本を二度と戦争する国にしないように力を尽くしていきたいと思っています。
戦争法=安保法制が強行して明日でちょうと1年。この本に出合えたことに感謝します。
信楽さんがお元気ならば、今この時に何を発言されたでしょうか。その事を考えながら、本書を最後まで読み進めたいと思います。
「念仏者9条の会」の先輩の皆さん、信楽さんについてお教え下さい。
チャップリンDVDコレクション②映画「モダン・タイムス」を観ました。
あらゆる作業が自動化された工場で働くチャーリー(チャップリン)は、単純作業の連続で正気を失い、工場内でやりたい放題の大暴れをした末に職場から放り出されます。
解説書には「当時は賛否両論沸き起こったこの作品だが、製作から約70年たった現代においてこそ、その「新しさ」が理解されるだろう。なにより、機械化が人類を幸福にすると信じられていた1930年代に、機械文明に抵抗して個人の幸福を求める物語をつくったチャップリンには、やはり先見の明があったというほかはない。『モダン・タイムス』は、そのタイトルどおり、紛れもなく〈現代〉の映画なのである。」と書いてありますが、私も映画を見てこのことを実感しました。
浜矩子さんは、「さらばアホノミクス」の中でブラック企業についてこう書いています。
「経済活動は人間の営みだ。経済活動を行う生き物は、人間しかいない。人間に固有の営みが、人権を脅かすはずがない。人間不在の活動を、経済活動と呼んではだけだ。経済活動が人間の営みである以上、経済活動は人権のいしずえでなければならない。」
「人権尊重から多少とも遊離した営みは経済活動にあらず、企業行動にあらずだ。この点についての黒白は、はっきりしておかないといけない。」
「モダン・タイムス」が胸を打つのは、今日も経済活動の中で人権が脅かされる実態が後を絶たないからでしょう。
「モダン・タイムス」が〈現代〉を問うものではなく、単に1930年代の〈現代〉を知る作品となることを願うばかりです。
「モダン・タイムス」は〈現代〉と痛烈に風刺する映画であると同時に、チャップリンの演技が光る映画でもあります。
画面左が工事中で落ちそうになりながら華麗にローラースケートで滑るチャップリン。
工場シーンはサイレントでありながら、後半のカフェシーンでは、チャップリンの見事な歌を聴くことができます。
幼少のころから舞台で鍛えたチャップリンの演技が炸裂する映画でもあります。
次回は「街の灯」。これも楽しみです。
チャップリンファンの皆さん。皆さんのお好きな作品をご紹介下さい。