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総合支援学校の寄宿舎は「通学困難のための寄宿舎」としての役割に矮小化しないことが大切です

 大学時代に障害者問題を学ぶゼミに所属していました。そのゼミの縦割り同窓会に先日参加しました。各々が近況報告を行ったのですが、特別支援学校の教員や寄宿舎の職員をされている方、おられた方が何人かおられ、帰路で寄った名古屋駅周辺の書店で、小野川文子著「特別支援学校寄宿舎のまどから」を購入して読んでいます。
 この本の後半にある「子どもの貧困と障害、これからの寄宿舎教育」という章を引用します。
 「『子どもの貧困』が大きな社会問題となり、2013年には『子どもの貧困対策の推進に関する法律』が成立し、子どもの貧困問題が政策課題として認識されることとなった。人間形成の重要な時期である子ども時代の貧困は、心身の発達に重大な影響を及ぼし、子どもに複合的な不利をもたらし、将来をも脅かす。さらには世代間連鎖を引き起こす可能性もある。『子どもの貧困』とは『育ちと発達の貧困』にほかならない。とりわけ、多様な発達困難を有する障害児においては、経済的貧困をベースに、生活の質、人間関係、社会性を含めた『育ちと発達の貧困』状況に陥りやすく、さまざまな困難が集中する(小野川・高橋2018)。窪田(2015)は『貧困により障害児本人の成長・発達が阻害され、障害が固定化し、さらなる困難や障害の重症化をもたらすばかりでなく、そうした状態を回避するために生じる家族のケアや経済的負担がさらに家族の生活を縮小させるという悪循環』を指摘する。平野ら(2015)は『障害児にはそこに(障害)という特別なファクターがあり(子どもの貧困)と(障害ゆえの問題)が二重の困難として表出している』と述べている。障害児やその家族の問題は、『子どもの貧困』だけではくくれない独自の課題を内包していると言える。『障害』と『貧困』は重なりやすく、ともに社会の構造的問題としてとらえなければ解決しない問題だと言える。ようやく子どもの貧困が可視化されつつあるが、障害者やその家族の貧困については、かろうじて障害者本人の就労収入・手当・年金などの把握はされているものの、障害児者を抱える家族の貧困については、ほとんど把握されず放置され続けている。社会の責任でその実態を明らかにし、社会福祉制度のあり方を含め考えていかなければならないと思う。貧困と社会的格差の広がりによって、ますます発達の土台である『生活』が厳しくなっている今、寄宿舎教育の役割も新たな段階にきていると考える。それは、これまでの『通学困難のための寄宿舎』といった行政的解釈ではなく、発達困難を有する子どもとその保護者の生活支援・発達支援双方の役割を果たす寄宿舎教育へ発展させていく必要がある。また、障害のみならず発達困難を有する地域の子どもも含めた寄宿舎教育の在り方も問われている。」
 山口県教委は、「通学困難のための寄宿舎」に役割を矮小化している傾向にあると考えます。文科省が言う「生活基盤を整え、自立した社会参加する力を養う場」としての寄宿舎の役割を重視する必要があると思います。
 先日、宇部総合支援学校の寄宿舎を見学しました。築50年、部屋の入口には段差があり、身体障害と知的障害を両方抱えた子どもさんなどの入居は難しいと感じました。障害者差別解消法にある「合理的配慮」という点からも早急な建て替えが必要だと感じました。
 私は、一般質問の項目に寄宿舎問題を含めています。
 寄宿舎に関する皆さんのご意見をお聞かせください。

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