昨日の予定を変更して、今日は、先日の中国旅行の中で、三日の午前中に訪ねた撫順のことを報告したいと思います。
明日、大連と瀋陽の様子をまとめて報告しましょう。
それほど、私には印象深かったからです。
二日目の夜に、大連から瀋陽に移動しました。三日目の朝は、8時にホテルを出発して、撫順に向かいました。
撫順では、まず、現在の操業している撫順炭鉱の露天掘りの様子を見学しました。東西の長さ6.6キロ、南北の長さ2.2キロ。深さ500メートル。
現在でも年間260万トンの石炭を産出している現役の炭鉱だとガイドの趙さんが説明します。
しかし、この炭鉱も後20年で掘り尽くすことが想定され、政府は、今からそのための準備をしているとのことでした。
手前の線路の下は、露天掘りの底に至ります
次に訪れたのが、平頂山惨案遺跡を見学しました。
満州が建国されて間もない1932年9月16日、日本の独立守備隊は、「抗日ゲリラと内通している疑いがある」としてこの地域の炭坑で働く400世帯、3000人の住民を集め、皆殺しにしたのでした。
生存者は、わずか数十名に過ぎなかったそうです。
平頂山では、まず、人骨がそのまま保存されている「記念館」を訪ねました。
数十メートルに、わたって人骨が折り重なっている様子がそのまま保存されています。
所々、死体を置くガソリン桶の後もl残っています。壮絶の極みです。
日本中国友好協会山口県連合会として、花輪をお供えしました。
私は、「二度と同じ過ちを繰り返さないように」と記帳しました。
そして、2006年に完成したばかりという資料館にも足を運びました。
中には、この事件を再現した映像もありリアルでした。
事件が起きた前日は、「中秋節」で中国人は月餅を食べ、家族でお祝いを行う日でした。
その喜びもつかの間、「写真を撮ってやる」との口実も使った虐殺でした。
記念館の展示物の後半に、この平頂山事件を日本で最初に明らかにしたのが本多勝一氏だとありました。
妻は、本多勝一ファンです。帰国して本多勝一著「中国の旅」を妻から借り、「平頂山」の章を読みました。
この中に、当時12歳で生き残った韓さんが実際に見たという惨状の様子が描かれています。
「韓さんから数メートル離れて、一人の赤ん坊が、死んだその母の乳房に抱きついて泣いていた。兵隊はこの乳児を銃剣で突き刺すと、そのまま空中に放り上げて捨てた」
まさに人を鬼にしてしまうのが戦争なのだということを、現場で、そして、本多氏の本で再認識しました。
発掘された人骨がそのまま保存されています
撫順の最後は、日本人の戦犯者が収容された撫順戦犯管理所を訪ねました。残念ながら改修中で、中には入れませんでしたが、合計で1109名の日本兵が収容されていた場所です。
ガイドの趙さんは、「戦犯者には、改心させることを重視し、一人も殺すことなく最後は、全ての人を解放した」と説明した言葉を忘れることはできません。
この収容所には、「ラストエンペラー」の溥儀と弟の溥傑も入っていたそうです。
改装中の為、残念ながら入ることは出来ませんでした
平頂山の記念館の出口には、大きく「前事不忘 後事之師」と書かれてありました。
日本の将来のためにも、「平頂山事件」のことを忘れてはならないと痛感しました。
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