子どもが暮らすイギリス・ロンドンを拠点に、パートナーと一緒に、4月上旬からヨーロッパを散策しました。4月10日から、パートナーの友人が住むドイツ西部のミュンスター近くのオーラフさん宅にホームステイしました。ドイツ・デュッセルドルフ空港に降り立ち、「ナチスの犠牲者追悼記念館」(以下、追悼記念館)を訪れました。
追悼記念館は、デュッセルドルフにおけるナチス党の歴史の研究、学習、保存の場として、1987年9月17日にオープンしました。1933年から1945年の間に、ナチス党によって迫害されたデュッセルドルフの人々の生涯に焦点をあてた展示が行われています。
私は注目したのは、「ナチス下のデュッセルドルの子どもと若者」の展示コーナーで紹介されたダウン症児のアリーです。
アリーは、1938年9月8日にデュッセルドルフで生まれました。彼女は、1943年6月2日、ヴァルドニアという施設で、致死性の薬物の過剰摂取によって死亡しました。アリーの人生は、わずか4年9カ月でナチスによって奪われました。追悼記念館には、アリーが殺害された際に使われた麻酔薬「ルミナ―ル」が展示されています。「アリーに3ユニットのルミナ―ルが投与されアリーが亡くなった」とあります。
ダウン症児・アリーの殺害に使われた麻酔薬(ルミナ―ル)が追悼記念館に展示されていました。
(記念館の学生員の許可を得て撮影しました。
彼女の医療記録に、死因は「麻疹による肺炎」とありましたが、彼女は麻疹に対する免疫は持っていました。つまり、彼女の死は、ナチスによる「隠ぺいされた暗殺」と言えます。
アリーの亡骸は、母のカロリンの意向により、1943年6月7日、デュッセルドルフ北墓地の子ども専用の墓地に埋葬されました。母の意向がなければ、施設の共同墓地に埋葬されていたでしょう。家族はアリーの埋葬費用46マルクを支払いました。展示版には、「ヴァルドニエルという施設では99人の子どもたちが殺害され、その多くが施設の共同墓地に匿名で埋葬された。1943年7月にこの施設が閉鎖されると、残っていた183人の子どもたちは、別の移設に移設された。デュッセルドルフの子どもたちの何人かは、カルメンホフに運ばれ、今度は精神科医のヘルマン・ヴェッセ博士によって殺された」とありました。
日本障害者協議会代表の藤井克徳さんの著作に「わたしで最後にして―ナチスの障害者虐殺と優生思想」(2018年・合同出版)があります。この中に、ナチスが行った障害者殺害作戦=「T4作戦」の詳細が記述されています。T4とは、作戦本部があった地名と番地を組み合わせたものです。藤井さんは「『障害者の殺害作戦』などとそのまま表すと、市民社会からの同情や反発が予想されます。計画をカモフラージュするために、意味を判らない記号表記にしたのです。実際は『価値なき者の抹殺を容認する作戦』と言い表したほうが正解でしょう。」と述べ、「第二次世界大戦中のドイツで虐殺された障害のある人の数は20万人、ドイツ占領下の欧州各国を含めると30万人を下回らないとされています。」と書いています。
ナチスの障害者殺害作戦で虐殺された20万人の内の一人が、デュッセルドルフに住んでいた4歳のダウン症児・アリーだったのです。
藤井さんは、ドイツによるT4作戦は、優生思想によるものだと指摘し「遺伝の領域と結びつく優生思想ですが、その基本は、『強い人だけが残り、劣る人や弱い人はいなくてもいい』という考え方です。この優生思想、けっして過去の話ではありません。私たちの日本社会にも深く潜み、いまもときどき頭をもたげるのです。」と書いています。
私は、これからの人生、アリーがなぜ殺されたのかを考え続け、「弱い人はいなくてもいい」という社会を繰り返さないために、力を尽くそうと決意を新たにしました。
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