議員日誌

悪と往生ー親鸞を裏切る『歎異抄』

 山折哲雄著「悪と往生-親鸞を裏切る『歎異抄』」を読んでいます。

 特に、第一章の「悪と往生」は、目から鱗が落ちる想いでした。

 よちよち歩きながらも、特に、この2年、親鸞の教えについて学んできたことが山折さんの文章で、きちんと整理できた思いです。

 以下、山折哲雄さんの解説を引用します。

 山折さんの説は、「『歎異抄』と親鸞のあいだには絶対の距離がある。同じように蓮如と『歎異抄』のあいだにも越えがたい距離がある」というものです。

 親鸞の弟子の唯円が書いた「歎異抄」において「悪ないし悪人」について三種類の言明があると山折さんは指摘します。

 「第一が、第三に出てくる『悪人往生』の問題である。『善人なをもちて往生をとぐ、いわんや悪人をや』。悪人こそが阿弥陀如来によって救われる第一走者(=正機)であるということだ。

 「第二が、第13条にあらわれる善悪=宿業の論である。われわれが日常的につくりつづける罪のすべては『宿業』によるということだ。千人殺せといわれても、殺せない場合もある。逆に、一人でも殺すまいと思っていても、千人殺してしまう場合もある。そのどちらに転ぶにしても、要はその人間の宿業によるものであって、心の良し悪しによるものではない。『卯毛羊毛のさきにゐるちりばかりもつくるつみ』の言葉で知られる条文である。

 「第三が、この同じ13条の後半に記されている。海や河で魚をとり、野や山でししや鳥をとって生活する人びとにかんしていわれるところだ。かれらは毎日のように生き物を殺す悪を犯しているが、しかしそのかれらも如来の本願によって救われる対象だという。『うみかはに、あみをひき、つりをして、世をわたるものも、野やまにしゝをかり、鳥をとりて、いのちをつぐともがらも』とある個所である。」

 山折さんは、親鸞の著書「教行信証」について次のように指摘しています。

 「さきに整理してみた『歎異抄』の三種の観点のほかに、第四のカテゴリーが存在しているという事実がみえてくるはずである。」

 山折さんは、「可能性における悪のみを問題にしている『歎異抄』は、罪の大逆転のために必然とされた善知識と懺悔の問題に、一言半句もふれてはいない。気がついたとき殺人を犯してしまっていた人間の戦慄の感覚が、そこではなったく欠けているからだ。」と解説しています。

 その上で、蓮如について「蓮如は『歎異抄』の危うさとあいまいさに、すでに気がついていた。」と山折さんは解説します。

 「蓮如はそこで、『廻心懺悔』といい、『廻心改悔』『改悔懺悔』と言葉を重ね、『無二の懺悔』といっている。『教行信証』における悪人救済の主題をみちびきだす印象的な旋律である。それが『歎異抄』の頭上をはるかに飛びこえて『御文』の世界に蘇っている。」

 悪の視点から「歎異抄」と「教行信証」との関係が整理され、蓮如がその関係をよく理解して「御文」を書いていたことが山折さんの指摘でよく分かりました。

 山折さんのガイドを手がかりとして、「歎異抄」「教行信証」「御文」をこれからしっかり理解していこうと思いました。

 山折哲雄さんの著作も少しづつ読んでいこうと思っています。

 「歎異抄」について皆さんのご意見をお聞かせ下さい。

 

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