19日付、読売新聞「編集手帳」はこう書いていました。
「圓朝、圓生、圓歌・・・と言えば、落語の三遊亭の名跡である。継いだはなし家は伝統を損わないよう旧字体の『圓』を使うことになっている◆ところが二代目・三遊亭円歌(1964没)はかたくなに『円』の字を使い続けた。理由がおもしろい。『はなし家はどこかが抜けていないといけない』というのが持論で、なるほど圓が抜けるところがないのに対し、円は下の一本線が抜けている◆圓の字のほうもよく眺めれば含蓄がある。お金の単位の名のもとに『員』が囲まれている。政治家が後援会『員』との付き合いに、最も慎重さを欠いてはならないのがお金の絡むことだろう◆後援会会員らを招待した『桜を見る会』前日に催した夕食会について、安倍首相は参加者自身が会費を支払っていると改めて説明した。有権者を事務所費など使ってもてなした事実はないということだが、野党は衆参予算委員会での審議を声高に求めている◆たとえ資金面の問題はなくとも、慎重な催しとは言えまい。会の参加者は約800人だという。長期政権の傲りだろう。政治家はどこかが抜けていてはいけない。まして首相は。」
文中の「たとえ資金面の問題はなくとも」の部分に異議はありますが、残りの部分は、とても興味深い内容です。
今朝のしんぶん赤旗日刊紙は「主張」でこう書いています。
「安倍晋三首相の在職日数が20日で戦前の桂太郎の通算2886日を抜いて歴代最長となります。もちろん明治憲法下の戦前と主権在民が確立した戦後とは制度が違いますし、長ければいいというものでもありません。とりわけ安倍政権で際立つのは、政治の私物化です。いまの『桜を見る会』の疑惑をはじめ、『森友・加計』疑惑などはその典型です。閣僚に起用した側近政治家の相次ぐ辞任、2度にわたる消費税増税や戦後政府の憲法解釈を大転換した安保法制の強行、9条明文改憲を公言する憲法破壊策動など、モラルの崩壊と民意に反する暴走はあらわです。」
「落語・昭和の名人極めつき」No20で二代目・三遊亭円歌が登場します。
演目は、「社長の電話」「紋三郎稲荷」です。どちらも「騙す」がテーマです。
「紋三郎稲荷」の最後に、「一番怖ろしいのは人間だ」という狐の言葉が出てきます。
「桜を見る会」の領収書も明細もないという安倍首相の説明に納得いった県民は少ないと思います。
安倍首相の在職日数が、歴代最長を素直に祝えない県民も多いと思います。
これら県民の気持ちをしっかり受け止めて県議会で発言を続けていこうと思います。
安倍首相が今日、在職日数が最長となるそうです。皆さんの感想をお聞かせ下さい。
昨日に、引き続き、齋藤孝著「なぜ本を踏んではいけないのか」から印象に残ったところを引用したいと思います。
齋藤さんは、本書の39ページで「『なぜ本を踏んではいけないのか』、それは権力者が支配している目の前の世界をたった一冊の本が変える力があるからである。恐るべし本の力である。だから本は踏めないし、逆に踏ませようと思う(燃やそうと思う)人もいるのである。」と書いています。
権力者が本を踏ませようと思う(燃やそうと思う)例として、齋藤さんは、まず、秦の始皇帝による「焚書坑儒」について触れています。
「医薬や農業などの書物以外の書物をすべて焼き捨てさせ(焚書)、始皇帝に批判的な儒者を生き埋めにする(坑儒)という、思想弾圧事件だった。儒者たちが政権批判をしているとして、民衆が知恵をつけるとやっかいな事態を招くとの理由から、本を燃やしただけでなく、唱えた者たちを根絶やしにしようとしたものである。」
齋藤さんは、ナチス・ドイツにも次のように触れています。
「ナチスに扇動された学生たちが広場に集まり、『享楽的、堕落的な作家たちをドイツから追放せよ』と叫びながら、ナチズムの思想に合わないとされた2万5000冊にのぼる『非ドイツ的な書物』が焼き払われた。それらの書物には、マルクスらの共産主義的な書物、『腐敗した外国の影響』としてアメリカ人作家ヘミングウェイの作品、ファシズム批判を支援したトーマス・マンの作品、ナチスのイデオロギーを非難したレマルタの『西部戦線異状なし』、ケストナー、ブレヒトなどの作品も含まれていた。自身の戯曲のなかで『焚書は序曲にすぎなかった。本を焼く者は、やがて人も焼くようになる』と書いた十九世紀の詩人ハイネの著作も焼き払われた。」
齋藤さんの指摘は、忘れてはならない歴史的事実を明らかにするものです。
さて、目を現在の政治に向けると、安倍晋三首相主催の「桜を見る会」の問題が今日的に大きな課題になっています。
その問題の一つに、参加者名簿があります。
このことが、16日のしんぶん赤旗日刊紙に次のように書かれてあります。
「内閣府は14日の野党合同ヒアリングで、招待者名簿を5月9日に廃棄したと明らかにしました。『桜を見る会』を国会で初めてただしたのは、5月13日の衆院決算行政監視委員会での日本共産党の宮本徹議員の質問です。その質問の準備のために宮本氏が内閣府に招待者が増加した理由や選考基準などの資料を要求したのが5月9日でした。同氏の資料請求当日に内閣府が『招待者名簿』を廃棄したことになります。」
本は民主主義に置き換えます。
齋藤さんの指摘の本の部分を民主主義に置き換えて考えるならば、安倍政権は、今、民主主義を燃やそうとしているのではないかと疑いたくなる状況です。
国民主権の下で、政府の資料を破棄することは、国民の知る権利を閉ざす行為です。
それは、安倍政権が、一つの資料が目の前の世界を変える力があることを知っているからかも知れません。
安倍政権は、民主主義の前提である国民の知る権利を閉ざしてはなりません。
齋藤さんの本のこの辺りのくだりを読みながらこのようなことを考えた今日この頃です。
引き続き、齋藤さんの本から様々な問題を考えていきたいと思います。
昨日、UBE読書のまちづくりフォーラムが宇部市渡辺翁記念会館で行われました。
私は、明治大学教授である齋藤孝さんの講演を聞きました。
齋藤孝さんは、「読書力とコミュニケーション力」と題して講演されました。
見事な話術で、あっという間の1時間でした。
会場で齋藤孝さんの書籍が販売されていました。
齋藤さんの近著と思われる今年6月に発行された「なぜ本を踏んではいけないのか」を読み始めました。
序説に齋藤さんの本への想いが書かれてあります。昨日の講演の内容と通じるものでした。
齋藤さんは、「なぜ本を踏んではいけんのか」の問いに対して、「本には人格があるから」と答えています。
その理由として齋藤さんは次のように述べています。
「本には著者の生命と尊厳が込められている。著者そのものがそこに生きているようなものなので、本を踏むことは、著者の人格を踏みにじる行為なのである。」
齋藤さんは、「インターネットで情報を入手するから本はいらない」という風潮に対して次のように答えています。
「インターネットの隆盛によって、すべてを情報として見る見方がどんどん進んでいる。自分に必要な情報を素早く切り取り、それらを総合する力は、これからの社会ではますます不可欠になってくるであろう。しかし、断片的な情報を処理し総合するだけでは、深い思考力や人間性・人間力は十分につちかわれない。私は『本を読むからこそ思考力も、人間性や人間力も深まる』と考える。人間の総合的な成長は、優れた人間との対話を通じてはぐくまれる。しかし、身辺に先導者と呼ばれるような優れた人がいるとはかぎらない。しかし本であれば、いつでもどこでも優れた人と『対話』できる。その出会いが、向上心を刺激し、思考力や人間性を高めることにつながる。」
私は、齋藤さんの主張に共感します。
齋藤さんは、こうも書いています。
「紙の本はいずれ、『絶滅危惧種』になるとも言われる。しかし、私はそうは思わない。人間が生きていくには酸素が必要なように、本はこれからも私たちにとって欠くことのできない『精神の糧』でありつづけると思っている。本を読むという営みは、たんなる情報摂取ではなく、生きていくために必要な『糧』を得るためのものなのである。」
私は、齋藤さんのこの主張にも共感します。
私は、読書が生活の一部になったのは、大学生になって以降です。以来、30年以上、紙の本から多くの事を学んできました。
私は、ブログを書くようになってから、より本を読むようになったように思います。
それは、感想を書くことを意識して読んでいるからなのかも知れません。
齋藤さんの本から学び、更に、読書(紙の本)を生活の一部とし、成長していきたいと思います。
今後とも齋藤さんの著作に注目していきたいと思います。
齋藤さん昨日は、ご講演ありがとうございました。
12日、13日の東京出張の途中、有楽町の三省堂書店により、平積みしてある文庫本の中から偶然手にしたのが、丸山正樹さんの「漂う子」でした。14日の大分出張の移動中の電車の中で読了し、今、丸山正樹著「デフ・ヴィオイス 法廷の手話通訳士」を読んでいます。
有楽町の三省堂は、東京出張の際、昔からよく立ち寄る書店の一つです。
確か、西加奈子著「サラバ!」のサイン本もこの書店で購入した記憶があります。
私にとって三省堂書店有楽町店は、新しい本に出合う場所になっています。
さて、丸山さんの本の特徴は、フィクションなのに、ノンフィクションのように社会問題を鋭く描きだしている点だと思います。
それでいて、問題を見守る目の温かさを感じます。
「漂う子」は、表題の通り「居所不明児童」の問題を扱った作品です。
本の裏表紙を引用しましょう。
「恋人の教え子・沙智が父親と共に突然姿を消した。彼女を探すことになった二村直は、ただ一つの手掛かりをもとに名古屋へ向かう。所在が分からない子供、『居所不明児童』という社会の闇を知るうちに、直は重大な決断を迫られる—。」
2016年に出版されたこの本に、「住民登録抹消の子 940人」「集計の結果、『消えた子どもたち』は、この10年間の間に施設に保護されただけでも、少なくとも1039人いたことが明らかになった。」「文部科学省が把握した無戸籍児童は、小学生相当年齢116人、中学生相当年齢26人の計142人」「全国に1500人近くの居所不明児童がいる」「そのうちの半数は、いなくなった原因も分かっていないんだって。もちろん、今もみつかっていない。原因も分からずに、700人以上子どもがいなくなっているのよ。」
この本の最後に、参考文献が多数紹介されています。この作品はフィクションですが、これら数字は、当時、何等か報道された数字だと思います。その当時から5年経過した今日。「居所不明児童」は増加しているのではないかと私は推察します。
直が、恋人の教え子を探すために名古屋に向かい、児童相談所や子どもの人権救済を行う団体などが描かれています。
その一つに「情緒障害児短期治療施設」があります。
小説では、子どもの人権救済を行う団体の中心である夫婦が出会った場所として描かれています。
子どもを取り巻く問題が深刻化する中で、「情緒障害児短期治療施設」の存在が大きな役割を果たしていることを学びました。
私は、近く、県内にある同様の施設を見学する予定にしています。
この本を読んで、社会の貧困が子どもの貧困に結びつき、様々な問題を派生させていることを学びました。
それに立ち向かう行政の対応をもう少し太くしていかなければならないことを痛感しました。
この小説のもう一つのテーマは、「子を持つとは、親になるとはどういうことか。」ということです。
直は、恋人に子どもが宿ったことを知らされるなかで、名古屋で、「居所不明児童」を探します。
子どもの人権擁護団体の中心である河原が、虐待する親の心境ついて直にこう話します。
「子供なんて自分の所有物だと思っているからです。自分がつくって、自分が育てている。だから好きにしていいんだってね。まるで神様のような気分なんでしょう。」
ストリートチルドレンとして育ち、今は、人権擁護団体に協力している「シバリ」という少年が、こんな言葉をはきます。
「血はもうとっくに入れ替わった。今の俺は、細胞から全部俺のもんだ。」
この小説を通じて、子どもの人格や人権を尊重することの大切さを学びました。
そのことを理解することが親になるということなのかも知れません。
このように考えると私自身まだまた親になりきれていない自分を感じます。
親の想いを子どもに押し付けようとする自分が時々顔を出します。
親子が、人格をもった人間同士として話し合いをしていくことが必要なのでしょう。
さて、子どもはいらない、親にはなれないと思っていた直が、どのように選択をしたのか。
恋人の教え子が見つかったのか。
この二つは、皆さんがこの本を手に取っていただいて、確かめていただきたいと思います。
今年の後半に素晴らしい作家=丸山正樹さんに出会えました。
年内に、丸山さんが出版されている「デフ・ヴィオイス」シリーズを読破したいと思っています。
丸山正樹ファンの皆さん、好きな作品や感想をお聞かせ下さい。
14日、大分市美術館の「磯崎新の謎」展を視察する中で、菅館長から、磯崎新さんの初期の代表作である「大分県立図書館」が、紆余曲折の後、大分市立「アートプラザ」として蘇ったことをお聞きしました。
私は、大分市立美術館を視察後、磯崎新さんが手がけ、現在は、「アートプラザ」として蘇った建物を視察しました。
磯崎新さんの写真が飾られているアートプラザ
「アートプラザ」の3階に、「磯崎新建築展示室」があります。ここに、18個の建築模型が展示され、2階に10個、合計、国内外の28個の木造の建築模型が展示されています。1974年から2006年までの模型が展示されています。これだけでも大変な価値のあるものだと感じました。
大分市美術館のギャラリーに、大分県立大分図書館が「アートプラザ」としてどのようによみがえったのかを詳細に記した「建物が残った 近代建築の保存と転生」(岩波書店)という書籍があり、帰りの電車の中で、ほぼ読み切りました。
この本は、磯崎新さんご本人を含む建物の再生に関わった方々が執筆しておられます。
執筆当時、大分合同新聞社の論説委員だった浅間久さんの文章を中心に概略を紹介したいと思います。
県立図書館は、磯崎新さんの設計で、1966年に完成し、多くの方に親しまれてきました。また、磯崎新さんが国際的に活躍する中で、初期の重要な建築物の一つとして注目されてきました。
大分県は、新しい図書館を磯崎新さんの設計で、1995年に豊の国情報ライブラリーとして開館させます。
この過程で、磯崎さんが設計した県立図書館(以下旧図書館)の保存再生が問題となりました。
まず、1992年11月に日本建築学会から保存と活用を求める要望書が大分県に提出されました。
旧図書館は、1966年に日本建築学会賞を受賞しました。受賞理由は「一言でいえば、平面と構造と設備の見事な統合とその統合を踏まえながら大胆な手法でなされた力強い造型のずばらしい調和にある」とされています。
日本建築学会は要望書の最後に「このように芸術的・文化的価値の高いこの作品は永く後世に遺すべき建築であると評価する。その新たな用途に適したすぐれた保存・活用を願うしだいである。」と述べています。
1993年には、保存を求める建築関係者ら約50人が参加して、今後の活用などを検討する「現県立図書館を考える会」(以下考える会)が発足します。考える会は、北九州市などに多数ある磯崎新さんの建物を見学するツアーや磯崎新さんを招いてのレクチャーなどを行います。
同年11月には、米国イエール大学の学生44人の県立図書館保存と再利用を要望する署名が考える会に届き、公表されました。
県は、図書館を取り壊し女性センターを建設しようとしていました。
しかし、国内外の建築家や市民の運動があり、県が計画している女性センターの用地を市が提供し、県立図書館用地を市が取得し、耐震改修などを行い、市民芸術文化センターを設置することで決着しました。
その耐震工事は、磯崎新さんの設計をそもままにしてどのように行うのか大変な作業であったようです。
この本の後記に都市建築編集研究所の石堂威さんが次のように書いています。
「本書の副題は『近代建築の保存と転生』である。磯崎氏の文中にもあるように、この建物は氏にとって近代建築研究の卒業制作に等しいものであることからきている。しかしひと回り後の世代に属する私にとっては、建築における近代と現代を分け隔てる分水嶺に匹敵する、まさに現代建築として受け取ったのである。完成が1960年代の後半に入るこの建物について、多くの人は同じように見たのではないだろうか。近代建築の保存もまだままならない状況で、現代建築の範疇に入る建物の保存はさらに困難を極める。それゆえ無手勝流で保存を考える運動を起こした人々はとにかくやむにやまれぬ気持ちではじめたに違いない。とにかく、一陣の風が吹き抜け、道が開けた。大分県と大分市が1960年代の公共建築を市民運動の展開のなかで、互いの協力の下に『転生』への道筋を刻印したことは、これからの建築と都市を考える上で一つの(事件)として語り継がれる意味があろうと思われる。」
翻って、秋吉台国際芸術村です。今、芸術村の存続がかかった重大局面です。
芸術家が滞在して活動できる国際的な役割としての芸術村、世界的な評価を受けている磯崎新さんの重要な建築作品としての芸術村。
ぜひ、大分市での経験も参考にして、芸術村を存続させたいと思います。
磯崎さんの故郷・大分市の二つの施設を訪ねその事を痛感する視察となりました。
秋吉台国際芸術村に対する皆さんのご意見をお聞かせ下さい。
今年、建築界のノーベル賞と呼ばれているプリッツカー賞を受賞した世界的な建築家である磯崎新さんの展覧会が故郷・大分市で開かれています。
磯崎新さんが山口県内で手掛けられた建築物は、1998年の秋吉台国際芸術村と2003年の山口情報芸術センターです。
2006年以降は、全て海外での建築物となるので、磯崎新さんが手がけた国内の作品しては、山口芸術センターが新しい作品となります。
県内に二つしかない磯崎新さんによる建築物の一つである秋吉台国際芸術村を県が「廃止」を含めて検討しているとの報道が行われている中、私は、昨日、大分市美術館で行われている「磯崎新の謎」展を視察しました。
菅館長、長田副館長から、磯崎新さんについて、展覧会について詳しく説明を受けました。
菅館長、長田副館長から磯崎新展の説明を聞く私
磯崎新展は「いき」篇、「しま」篇で構成されています。
「いき」とは息で、「間のことを表しています。
10月24日の読売新聞は、「いき」篇について「70~80年代、機能主義に反発するポストモダン建築の騎手となった磯崎さんの思想的背景をみることができる」としています。
「いき」篇で大きなウエイトを占めているのが、「秋吉台国際芸術村」です。
会場には、ホールの模型とともに、実際に上演された現代オペラの映像が流れています。
会場には、秋吉台芸術村に再現されているN邸の模型も展示されていました。
磯崎さんは、「GA ARCHITECT」の中で、秋吉台国際芸術村を作成する過程を書いています。
「設計をはじめるにあたって、細かいプログラムは決まっていなかった。敷地も改めて捜すことからはじまった。地元の秋芳町が建設のために取得可能な候補地を4ヶ所提示してくれた。地形的にいずれも特徴があった。カルスト台地に接するこの付近は、里山と呼ばれていいような低い丘で、その中間の耕地のほとんどは休耕している。ここから平地、傾斜地、台地、それに隠れ里のような袋状地が示された。そのすべてを調査して私は袋状地を選んだ。これは地元関係者には意外な選択だったようで、彼らは人里や道路からよく見える場所につくられることを期待していたことが後で判った。だが私はあえてまったく外側から建物が見えない場所を選択した。道路上の騒音が到達しないためである。敷地を囲んだ丘の尾根を強化線にしてこの輪郭をこの全施設の外壁線と呼ぶことにした。いいかえると、この施設は都市的な建物に特有のファサードをもたない。狭くくびれた入口を敷地内に踏み込むと、ここがもう内部なのである。低い棚や植え込みで庭園を囲いこみ、そのなかにパヴィリオンを点在させるという日本の伝統的な建築配置の形式は都市の内部につくる住居の基本形で今日まで継続している。」
秋吉台国際芸術村は、磯崎新さんの建築思想を反映した代表作であり、周辺の自然環境を含めた作品なのだということ特別展に行ってよくよくわかりました。
このような磯崎新さんの代表作である秋吉台国際芸術村を廃止してはならないと痛感しました。
今日はここまでとし、次回は、全国の建築家と市民が残した大分県立図書館について視察内容を報告したいと思います。