来年から、宇部市野球場で始める太極拳教室の生徒さんを大募集しています。現在、申し込みは11名です。
昨日夕方、岳先生と野球場でお会いし簡単な打ち合わせをしました。岳先生は、30代の女性の先生で、やる気満々です。萩市でも山口市でも教室を持っておられるベテランです。先生から「宇部教室は、何歳位の生徒さんが申し込まれていますか。」と聞かれたので、「4才から60才位です。」と答えると、「山口の教室では、80代の方もおられます。」とのこと。宇部教室でもどうぞご年配の方も安心しお申し込みください。先生は、1月に中国に帰省される予定だったそうです。しかし、宇部教室開設のために帰省を延期されるそうです。
1月分の会場は、入口入って左手奥のトレーニングルームです。早速、見学しましたが、岳先生も大満足。しっかりした板張りでまさに、小さな体育館です。30人~40人位の生徒さんにも対応できる広さがあります。駐車場も野球場ですから十二分にあります。
19日には、宇部日報を訪れて取材をお願いしようと思います。最低、20名程度でスタートできたらと思っています。申し込もうかどうかと悩んでおられる方は、是非、お早めにお申し込みいただきたいと思います。詳しくは、本ブログのインフォメーションを参照してください。
さて、いよいよ明後日が質問です。第一質問がほぼ完成し、今晩と明日で再質問を考えます。与えられた時間は、30分ですが、今議会もその権利をフルに発揮し、県民の立場で精進します。
今、「精進」という言葉を使いました。
今日帰りの車の中で聴いていたNHKラジオに今度、林家三平を襲名する林家一平さんが出演しておられました。「自分は、頑を張るという頑張るという言葉は好きではない。精進という言葉が好きだ。」と話しておられました。私も頑張るという言葉は好きではなく、何か違う言葉はないかなと常日頃思っていました。この話に感化されて、今日は、「精進」という言葉を使ってみましたがどうでしょうか。結構、感化されやす私です。
今日の一般質問で、わが党の水野県議が、後期高齢者医療制度の検診事業に対する県の補助を求める質問を行ないました。今村部長は、「広域連合から要請がないので補助しない」と答弁しました。
11月27日、広域連合に検診の補助を行うよう県知事は県市長会からの要望決議を受けています。県が、「広域連合から補助の要請がない」ことを理由に補助を行わないという答弁には納得できません。
先日、傍聴を行った山口県後期高齢者広域連合は、新年度以降の収入に「健康審査に対する国庫補助金」1億8千万円を計上しています。岡山県の広域連合の新年度以降の収入には、国の補助金と同額の「健康診査に対する県補助金」が計上されています。岡山県の後期高齢者医療制度は県の補助金分が、保険料が低く設定できたことは明らかです。山口県の後期高齢者医療制度の保険料は、全国で、9番目に高いものです。それは、高齢化率が高いだけではなく、県の補助金が計上されていないからです。県は、山口県市長会の要望決議を受けて、健康診査への県補助金を広域連合に支出すべきです。
私は、来週からの厚生委員会で、この問題を更に追及していきます。
岩国市錦帯橋河原で「国の仕打ちに怒りの1万人集会」
1万1千人の「怒」の文字
山陽小野田・宇部地域からバス4台で参加
十二月一日、岩国市錦帯河原で「国の仕打ちに怒りの一万人集会」が開かれ、地元岩国はもちろん県内各地、近県や全国各地から一万一千人が参加しました。
井原市長は、「納得できなければ前にはすすまない。市民を守る立場をつらぬいてがんばりたい。」「今日が、日本の民主主義の輝かしい第一歩になると感じる。」と発言し、参加者から大きな拍手が沸き起こりました。
この集会には、国会議員も多数参加しました。日本共産党からは、穀田恵二衆議院議員、仁比聡平参議院議員があいさつをしました。
岩国市民の代表が発言したあと、参加者全員が掛け声にあわせて、「怒」と書いた紙をいっせいに掲げ、国への怒りを爆発させました。
最後に参加者で「故郷」の歌を歌って集会は終了しました。この集会には、山陽小野田・宇部地域で貸切バス四台を運行して参加しました。
会場を埋めた「怒」の文字
植松川土手の舗装スタート
藤本県議と荒川宇部市議が、地元の要望を受けて、改善を求めていた宇部市東岐波地域の植松川の土手の舗装が宇部市の生活道路整備事業により、この程スタートしました。藤本県議や荒川市議が、議会でこの問題を取り上げる中で、県と市と地元の話し合いがまとまり、今度の事業スタートとなりました。
舗装が始まった植松川の土手
12月県議会藤本県議一般質問項目
藤本県議は、十四日に一般質問で登壇します。
1、大型開発の見直しについて
①地域高規格道路整備
②企業局に関わる問題
2、行政改革にかかわる諸問題
①県産業技術センターの独立行政法人化に関わる問題
②県立病院の給食の民間委託に関わる問題
③ウイニィーを通じての県民情報漏えいに関わる問題
3、入札制度について
①県警の入札に関わる問題
②入札制度改善に向けての提言
4、中小企業振興について
①中小企業振興条例の制定について
②大規模店対策について
③責任共有制度導入後の中小企業金融対策
5、教育問題について
①県教育委員会の障害者法定雇用率未達成問題
②小中学校の敷地内禁煙の拡大について
一気
「障害者と戦争」をテーマにした学習会に参加しました。Yさんの話は衝撃的でした▼Yさんは、下肢の障害が重く、生まれた頃から箱の中で暮らしてきました。空襲の度にYさんは、自分が入った箱を大人に運んでもらって防空壕まで行きます。Yさんは、栄養失調で亡くなった弟の遺骨を運ぶ役割を負います。その日は、Yさんが入った箱が大きく揺れて遺骨の箱が飛びました。その晩、Yさんはお父さんに「何も出ないおまえが、遺骨まで無くして」と怒られます。Yさんは、翌日「私を、防空壕に運んでくれなくてもいい。」と大人に告げます。次の空襲の時は、Yさんは、自分を入れた箱を庭のくぼみに沈めてもらいます。一番近くに落下した爆弾は、Yさんから五メートルでした▼Yさんは、、「戦争は、障害者をつくる」と参加者に力強く訴えました。
二井知事が、来夏の県知事選挙に出馬することを、今日の本会議で表明しました。私は、4選だからいけないという立場には立ちません。しかし、今の二井知事は、県民の立場に立っているとは言いがたい状況です。
最大の課題である、米軍再編後の岩国基地問題に限って知事の政治姿勢を見てみます。私は、以前の議会で、「知事は、一休さんだ。」と言いました。私の近所の仏壇屋に、一休さんらしい小僧さんが、座って手を合わせている像があります。この像は、少しづつ動いています。これを岩国問題にたとえると、県民の立場に立つと言っていた知事が、半年、1年とたってみると、国の方へ国の方へ顔が向いていることが分かります。知事は、①今以上の機能拡大は認めない、②NLPの実施は容認できない、③地元の意向は尊重するというのが、米軍再編に対する自分の基本的立場だと言いました。知事は、①の基地機能強化については、問題を騒音や安全性の面に矮小化し、「現状より悪化するとはいえない」としました。国自体が、機能を強化する米軍再編交付金の対象自治体に岩国市を上げているのに、機能強化ではないとする知事の姿勢に納得出来ません。②のNLPについても、低騒音機の岩国基地での訓練を国は認めています。また、国は、米軍再編後も岩国基地をNLPの予備基地にすることもありうると明言しています。この点も「低騒音機以外のNLPについては、基本的に硫黄島で行われると説明があった」との見解で、この問題はクリアーされたとする知事の姿勢は納得できません。③の地元意向尊重という点について、H18年3月に当時の麻生大臣らに要望書を出した段階で知事は、米軍再編について「地元の意向を尊重する立場にある県としては、直ちにこれを容認できる状況にはない」との立場を表明していました。しかし、その後、住民投票の結果を尊重し、米軍再編に異議を唱える井原岩国市長に対して知事は、「現実的対応」を求めたり、「思考停止」と批判したりしています。このような発言をする二井知事は、地元意向を尊重していると言えるでしょうか。
私は、1万人集会に参加をしました。私は、岩国市は、しかたがないからお金を受け取るべきだという立場には立ちません。「自分の将来は自分で決める」という民主主義が花開く社会を望みます。
だから、私は、二井知事の知事選出馬を支持しません。
今日は、「憲法9条の会うべ」が来年行う講演会、「品川正次講演会」の実行委員会に参加してきました。
憲法9条の会うべでは、昨年10月に作家の澤地久枝さんの講演会を行い、今年5月には映画「日本の青空」の上映会を行いました。第三弾の企画が、「品川正次講演会」です。
品川正次さんは、大正13年生まれ、東京大学法学部を卒業され、日本火災海上取締社長を務められました。その後、同社会長、経済同友会副代表幹事、専務理事を歴任。現在、経済同友会終身幹事、日本興亜損保相談役、財団法人国際開発センター会長を務めておられます。
品川さんは、「戦争のほんとうの怖さを知る財界人の直言」という著書の中で、「憲法9条第2項の旗は、これ以上破れようがないほどボロボロになった。でも、国民はその旗竿を放そうとしない。それを今、放せという形で国民に迫っているのが憲法改正なのだと」強調します。
私も市民の一人として、日本の経済界で大きな発言力を持った品川さんの講演会がとても楽しみです。実行委員会ではボランティアを募集しています。また、チケットが完成しました。様々な問い合わせは藤本にメールにてご連絡ください。
12月8日は、障害者の日です。障害者の日にちなんで、障害者の福祉をすすめる会が、「障害者と戦争」をテーマに、学習会を開催しました。二人の障害者の方から貴重な話しを聴くことができました。
最初は、会長の米原さんです。米原さんは、下肢の障害が重く、生まれた頃から箱の中で生活してきた方です。米原さんは、昭和8年生まれ。終戦が12才です。終戦前は、毎日のように空襲が宇部を襲っていたそうです。その度に米原さんは、自分を入れた箱を大人に運んでもらって防空壕まで行きます。ある日の空襲の時、1歳半に栄養失調で亡くなった弟さんの遺骨を入れた箱を膝の上で運ぶのが米原さんの仕事だったのですが、運んでもらう米原さんが入った箱が大きく揺れて遺骨を入れた箱がどこかに行ってしまいました。幸い、見つかったのですが、その晩、米原さんはお父さんに大変叱られました。「何も出ないおまえが、なぜ、遺骨を無くしたのか」と。米原さんは、初めて死を意思しました。それから、米原さんは、「ぼくを、防空壕に運んでくれなくてもいい。」と大人に告げます。
それから宇部市に大変大きな空襲が襲います。米原さんは頑として防空壕に行こうとしません。米原さんは、自分が入った箱を畑のくぼみに沈めてもらい、空襲を迎えます。目の前をB29がやってきます。遠くは火の海となります。一番近く落下した爆弾は、5メートルでした。翌朝早く、お母さんが迎えに来てくれました。
米原さんは、「戦争は、障害者をつくる」と最後に訴えました。
西村さんは昭和12年生まれ。終戦が8才です。西村さんの片腕の手の先がありません。それは、戦後すぐに、隣の家にあった焼夷弾で遊んでいたからです。先の風車を触っていると突然大爆発。両手はこなごな。大八車に乗せられて、最初に行った病院で断られて、二つ目の炭鉱の中の労災病院で手術。何とか片手だけは残すことが出来ました。3カ月後にようやく退院し、1年遅れで学校に戻ったものの、大変ないじめに合います。苦労して通常に学校に行きだしたのは中2の頃からでした。
西村さんは、「戦争を繰り返してはいけない。」と力説されました。
私は、日本中国友好協会の手伝いを始めました。その中で、戦争を記録する活動を続けています。この二人の方には、ぜひ、新しい記録集に登場いただきたいと思います。