「遺体」の著者、石井光太さんの最新作「津波の墓標」を読んでいます。
「遺体」は、釜石市の遺体安置所を中心に震災の状況を活写したものでした。
本作は、石井さんが、震災直後から2ヶ月半、毎日、被災地に身を置いて観て来た様々な物語をまとめたものです。
世界の紛争地を歩いてきた石井さんが、「津波による破壊は、一切の感情を介さない。(中略)その徹底した破壊の跡に底知れぬ恐怖を覚えた。」と書いていることに津波の怖さに対する説得力を感じます。
私は、岩手県宮古市の日本最大の堤防が構築された田老地区の被害状況や町長さんも命を落とされた大槌町の役場周辺を視察した時のことを想い出しました。
中盤で、マスコミ関係者の苦悩を描いている部分にも心打たれました。
あるテレビ関係者が、石井さんに、震災4日目頃から「視聴者は悲惨な話にはうんざりしているから、日本全体を勇気づけるような話を持ってこい。」と指示が変わったと話します。
そのテレビ関係者は、「目の前で被災者が生活に困っていたり、遺体にすがりついて泣いていたりしているのに、それを無視して無意味に明るいニュースばかりつくらなければならなくなったのです。」と石井さんに語ります。
しかし、その事実を石井さんが活字にしたことに価値があるように思います。
マスコミというのは、ある意思が働き事実が報道できない場面があることを知りました。
ここ数日、石井さんの文章に触れていますが、筆力に感服しています。
文章が上手であることは当然ですが、現実を描写する力を感じます。
さて、今日の読売新聞に、岩手県宮古市の昆愛海ちゃんの今が報道されていました。
2年前の読売新聞に愛海ちゃんが「ままへ。いきているといいね。おげんきですか」と紙に大きな字で書き、その横でウトウトしている姿が写されていました。
私は、その写真を観て涙がとまりませんでした。
今朝の朝刊には、真新しい机の前で、ライドセルを開いている愛海ちゃんの姿がありました。
34面の関連記事を読んで胸を打たれました。
愛海ちゃんのお母さんの遺骨は震災後約3ヶ月後にDNA鑑定で確認されましたが、お父さんと妹はいまだに見つかっていません。
愛海ちゃんは、父方の祖母と元気に暮らしているそうです。
東北から遠く離れた山口県で暮らす私に、今後とも被災地の生きた姿を伝えてほしいと思います。
本日、山口県立こころの医療センター医療観察法病棟の開棟式が行われ、出席しました。
開棟式で式辞を述べる県立病院機構の前川理事長
心神喪失又は心神耗弱の状態で、重大な互い行為を行った人に対して、適切な医療を提供し、社会復帰を促進することを目的に、医療観察法が制定されました。
山口県内には、医療観察法に基づく病床が県立こころの医療センターに2床ありましたが、今回の病棟建設によって8床となりました。
昨年から、約8億円の予算で工事が行われていました。
完成したこころの医療センター内の医療観察法病棟
開棟式では、兼行院長が、「医療観察法病棟の開棟にあたり当院が担うべき今後の役割について」と題して説明を行いました。
兼行院長は「無断退去時の対応・緊急連絡の手順」などについて説明を行いました。
この病棟の開棟にあたっては、地域の方々から様々な意見や要望が出されています。
引き続き、地域の理解を得ながら、この病棟が運営されていくことを望みます。
医療観察法病棟に対する皆さんのご意見をお聞かせ下さい。
長男と一緒に、古本屋に行きました。
「遺体」の著者、石井光太さんの「地を這う祈り」があり、半分程度読みました。
この本の帯には、「世界最貧層のむきだしの姿」とあります。
石井さんが撮影した写真が多く使われているのがこの本の特徴です。
その写真の中には目を覆いたくなるようなものもあります。
しかし、これが、世界の現実なんだとページを進めました。
冒頭に、石井さんが、世界の貧民層を取材するようになったきっかけが書かれてあります。
石井さんは、大学1年生の時、アフガニスタン難民キャンプで「体中に血の滲んだ包帯を巻き、両方の眼球を失った」少女と出会いました。
石井さんは、彼女を直視できず、逃げてしまった自分を今でも悔いているといいます。
彼女に再び会い「あの時は臆病者で、上から目線の青年だったのに、ちょっとはマシになったじゃん」と言われたいといいます。
彼女がなぜ、あのような環境に置かれなければならなかったのかを知るために、今も世界を旅し路上で生活している人々を追う石井さんの著作に胸を打たれました。
「遺体」もそうですが、この本にも現実を真摯に表現しようとする目線に共感します。
石井さんの他の作品も読んでいきたい今日この頃です。
映画「遺体 明日への10日間」の原作「遺体 震災、津波の果てに」を読みはじめました。
本の最初に地図があります。
私は、2011年6月に岩手県宮古市で震災ボランティアをしました。
車で行きましたので、ボランティア終了後、南下し、山田町、大槌町を通り、釜石市を通りました。
大槌町は、町一面が津波によって流された様子がよく分かりました。
釜石市は、山が近くに聳えていたので、「町一面の被害」を観ることはできませんでしたが、この町でも多くの犠牲者が生まれ、こんなにも多くのドラマがあったのだということを知りました。
君塚良一監督が、被災者や遺族の方々に「もし批判されたとしてもこの作品を撮らなければならない」と感じたというこの本を私もしっかり読んでいきたいと思います。
原作者の石井光太さんはノンフィクション分野で多くの著作がある方です。
この本の後にも少しづつ石井光太さんの本を読んでいきたいと思います。
山田洋次名作映画DVDマガジンVol.6「故郷」を観ました。
この映画は、1972年の作品です。舞台は、瀬戸内海の倉橋島。
海のダンプカーと言われる「石船」で生計を立てる家族の物語です。
船が古く、故障が続きます。新しい船を買うにも資金がありません。
この夫婦を井川比佐志と倍賞千恵子が演じます。
井川・倍賞夫婦は、「家族」でも同じでした。
倍賞は、酪農家の妻役も石船の機関長役も様になっていますね。
働く女性を見事に演じています。
働く母役の倍賞の演技を観ていて、私の子どもの頃の母の姿を思い出しました。
我が家は農家で、父は教師をしていましたので、平日は母が農業をしていました。
私が子どもの頃は、お茶の栽培もしていました。
摘み取ったお茶を納屋に積み上げていました。
竹で編んだ円筒形の大きな籠を背中に担ぎ、お茶を畠から納屋まで運んでいました。
いっぱい汗をかいた母が、大きな籠を納屋に運んで籠を下ろして一息ついている姿を昨日のように思い出します。
その時の緑輝くお茶の葉がむされた匂いも思い出されます。
母を誇りに思うような子どもの頃の気持ちも思い出されます。
母は強しです。
時代の波には勝てず、我が家で営んでいた肥育やお茶の出荷を止めたように、家族で営む石船も今ではすっかりなくなってしまいました。
主人役の井川が「なんでワシら、大きなもんには勝てんのかいのう」の言葉は明言です。
過疎・過密が進み、日本は高度経済成長の坂を駆け上っていきます。
その真っただ中の時代、家族がどのようにさせられたのかの記録がこの映画です。
シナリオのある映画ではあるが、「家族」同様ドキュメンタリーのような映画でした。
この映画も涙涙でした。
次回は、「学校Ⅱ」です。この映画は当時映画館で観ました。
現在では特別支援学校といいますが、当時は養護学校と呼ばれていた「障がい児学校」高等部を取り扱ったドラマです。
この作品も今から楽しみです。
高校受験が終わった長男も、このシリーズを観てくれています。山田作品が、我が家の子どもたちにも受け継がれることに喜びを感じます。
あなたの好きな山田作品をお教え下さい。
昨日、オスプレイ4機が突然、岩国基地に飛来しました。
国から飛来情報があったのは、13時43分。
その直後の14時10分頃オスプレイ2機が岩国基地に飛来しました。
初めて、オスプレイが本格訓練のために岩国基地に飛来した3月6日には、山口県は、「オスプレイの訓練の時期や訓練場所などの事前の情報提供がされた」ことなどを理由に「遺憾」の意は表明しませんでした。
しかし、今回の飛来に関して山本知事は「オスプレイに関しては、県民の不安が十分に解消されるまでには至っていない中で、今回、飛来の目的等の事前の情報提供もなく岩国基地に飛来したことは遺憾であると言わざるをえない」とのコメントを発表しました。
小松総務部理事が私の2月県議会の一般質問に答えたように、環境レビューでのオスプレイの岩国基地での訓練頻度は「毎月2日間から3日間程度、2機から6機」です。今月は、6日から8日に訓練をしたばかりなのに、今月2回目の訓練は、約束違反です。
突然の飛来、頻度の多い飛来と、オスプレイの岩国基地の使用は二重の約束違反です。
小松総務部理事は、私の質問に、オスプレイの岩国基地での運用は「一時的」だとの認識を示しましたが、このような頻度で、一時的と言えるでしょうか。
やはり、オスプレイの岩国基地での運用は「岩国基地の機能強化」であり、県は、国に厳しく抗議すべきです。
そして、沖縄県の建白書にあるように、沖縄県と連帯して「オスプレイの配備撤回」を国に求める時です。
オスプレイの突然の岩国基地への飛来について皆さんのご意見をお聞かせ下さい。