藤本かずのりサポーターズ はじめました

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障害者と戦争

 12月8日は、障害者の日です。障害者の日にちなんで、障害者の福祉をすすめる会が、「障害者と戦争」をテーマに、学習会を開催しました。二人の障害者の方から貴重な話しを聴くことができました。

 最初は、会長の米原さんです。米原さんは、下肢の障害が重く、生まれた頃から箱の中で生活してきた方です。米原さんは、昭和8年生まれ。終戦が12才です。終戦前は、毎日のように空襲が宇部を襲っていたそうです。その度に米原さんは、自分を入れた箱を大人に運んでもらって防空壕まで行きます。ある日の空襲の時、1歳半に栄養失調で亡くなった弟さんの遺骨を入れた箱を膝の上で運ぶのが米原さんの仕事だったのですが、運んでもらう米原さんが入った箱が大きく揺れて遺骨を入れた箱がどこかに行ってしまいました。幸い、見つかったのですが、その晩、米原さんはお父さんに大変叱られました。「何も出ないおまえが、なぜ、遺骨を無くしたのか」と。米原さんは、初めて死を意思しました。それから、米原さんは、「ぼくを、防空壕に運んでくれなくてもいい。」と大人に告げます。

 それから宇部市に大変大きな空襲が襲います。米原さんは頑として防空壕に行こうとしません。米原さんは、自分が入った箱を畑のくぼみに沈めてもらい、空襲を迎えます。目の前をB29がやってきます。遠くは火の海となります。一番近く落下した爆弾は、5メートルでした。翌朝早く、お母さんが迎えに来てくれました。

 米原さんは、「戦争は、障害者をつくる」と最後に訴えました。

 西村さんは昭和12年生まれ。終戦が8才です。西村さんの片腕の手の先がありません。それは、戦後すぐに、隣の家にあった焼夷弾で遊んでいたからです。先の風車を触っていると突然大爆発。両手はこなごな。大八車に乗せられて、最初に行った病院で断られて、二つ目の炭鉱の中の労災病院で手術。何とか片手だけは残すことが出来ました。3カ月後にようやく退院し、1年遅れで学校に戻ったものの、大変ないじめに合います。苦労して通常に学校に行きだしたのは中2の頃からでした。

 西村さんは、「戦争を繰り返してはいけない。」と力説されました。

 私は、日本中国友好協会の手伝いを始めました。その中で、戦争を記録する活動を続けています。この二人の方には、ぜひ、新しい記録集に登場いただきたいと思います。

一般質問の通告を提出しました。

 本日、一般質問の通告を提出しました。今議会は、30分の持ち時間ですが、その権利を最大限行使して頑張っていこうと思います。原稿はほぼ完成しました。土日に仕上げをして万全を期します。

 昨日も今日も妻が遅くに帰宅で、子どもたちと私だけの夕食です。これも議会中ならではの状況でしょうか。今日は、みんなで、広島風お好み焼きを作りました。最近、妻がいないときの、我が家の定番になってきました。お好み焼きは、子どもたちが手伝ってくれます。生地は長男が。めんを炒めるのは次男。三男は、飯台を拭いてくれます。3歳の長女も、今日はいい子でした。

 

さあ、一般質問の原稿書きです。

 昨日は、宇部市の中学校・小学校のPTA連合会の懇親会でした。PTAは、異業種の方々と知り合いになれるのがいいですね。昨日は、土木・建設関係の方々が近くで、「最近、低入札が多い」などのお話しを聴くことができました。

 議員としても大いに勉強になります。

 昨日から一般質問の原稿書きに入っています。今日は、少しこもって集中的に書こうと思います。

荒滝山が県指定文化財に

 私は、旧楠町吉部荒滝の出身です。私の家は荒滝山の登山口の入口にあります。合併して、荒滝山が宇部市で一番高い山になり、登山客も増えています。我が家の敷地に車を停めていただくこともよくあります。父は、長い間、荒滝山と滝を守る景勝保存会の会長と務めていました。小学校の春の遠足は、いつも荒滝山でした。新年には、幼稚園の頃から毎年、荒滝山に登って初日の出を拝んでいました。ですから年に数回は登る山でした。新年を荒滝山で過ごすのは、この数年の我が家の定番になっています。来る新年も荒滝山で迎えよと思います。

 そのような我が愛する荒滝山が、この程、県指定文化財に指定されよとしていることは大変喜ばしいことです。指定されたのは、城跡で、大内氏の重臣で、長門国の守護代だった内藤家の家督を継ぐ内藤隆春の居城と伝えられています。

 荒滝山には、雄岳と雌岳があり、私の子どものころに実際に見た記憶では、雌岳の方に、石垣が多く残っていたように思います。この間の調査で、「主郭」「出丸」「西郭」が置かれた跡が発見されているようです。その上に、どのような構造物が建っていたのでしょうか。以前、岡山県の吉備を訪ねたことがあり、その時、鬼ヶ城で山城が再建されている様子を観ました。荒滝山でもと期待はしますが、そこまでは無理としても、画像上でどのようなものだったのは復元していただけたらと思います。今後の発掘調査の結果に期待したいと思います。

 私の祖先が築城の作業に従事していた可能性は大きいです。地域の文化を掘り起こすことは大切なことだと思います。

宇部地域後期高齢者医療制度の中止・撤回を求める連絡会議準備会を開催

 本日、宇部地域後期高齢者医療制度の中止・撤回を求める連絡会議準備会を開催しました。日本共産党北南地区委員会が進めてきた署名を今度は、共同組織に広げて取り組んでいくことが確認されました。

 会議では、以下の事を決めました。一つは、署名行動を統一して行うことです。12月24日(月)10:30~北向地蔵の例祭に合わせて行うことを決めました。

 二つ目は、山口県広域連合議会への請願署名の提出です。1月29日に提出しようと話し合いました。三つ目は、学習会の開催です。岡山県の広域連合の議員で、日本共産党倉敷市議の田辺さんを講師に来年1月19日(土)の午後に学習会を行うことを決めました。田辺さんは、私の大学の先輩でもあります。田辺さんは快く講師を務めて下さいました。

 そのほかに、県知事には、検診に対する補助金を広域連合に行うよう求めていこうと話し合いました。宇部市長には、はり・きゅうを今まで通り受けることができるように求めていこうと話し合いました。

 住民いじめを跳ね返していくためには、住民の意思を、国をはじめ関係機関に届けていくことが大切であることを岩国での1万人集会で学びました。後期高齢者医療制度の問題でも、この教訓を生かして、しっかり行動していくことが重要だと以上のことを確認しました。

障害者自立支援法に怒り

 今日は、障害者の自立と福祉を考える会主催の「障害者自立支援法を考えるフォーラムⅡ」に参加しました。厚生労働省社会・援護局障害保健福祉部蒲原基道障害福祉課長が自立支援法について基調報告を行いました。

 その後、参加者から、①利用料に関わる問題②所得保障の問題③区分認定に関わる問題④報酬単価の問題⑤グループホームの課題などの諸問題が率直に出されました。

 蒲原課長は、所得保障に関わる問題で、年金の増額の要望に対して、「私の分担を越える国全体の問題」として回答を控えました。ならば、今日の障害者の所得水準を掌握しながら、厚生労働省は、なぜ、このような制度設計をしたのでしょうか。蒲原課長は、制度設計がされた後の課長だから、その責任は、自分にはないと言うかも知れませんが、自立支援法の制度設計をした厚生労働省の責任は重大です。

 「障害が重いほど利用料が高くなるのは大問題」。この点は多くの参加者から出されました。この問題を解決するには、障害者の所得を上げるか、利用料を下げるかしか方法がないのです。所得を上げることは、国家的な課題ならば、当面する障害者の方々の苦難を取り除くためには、やはり、利用料を下げる対策を直ちに講じなければならないのです。「生活保護より低い年金でどうやって利用料を払うのか。」このような声も出されました。この辺りの障害者の方々の苦悩が課長にどこまで伝わったのでしょうか。

 蒲原課長は、「制度を前に戻すわけにはいかない。制度を前に進めながら改善を図るというのが基本的姿勢だ」と冒頭述べましたが、私は、これだけ問題のある法律ですので、制度を一旦前に戻す勇気も必要だと思います。

 しかしながら国の課長の話しを直接聴くことができる機会を作ってくださった方々には感謝します。

 国でも県でも障害者自立支援法から障害者の命と暮らしを守る改善が急がれていることを痛感しました。