月別アーカイブ:2019年3月

レール供出に異議 その中に祖父の名

 3月10日付の山口民報に私の「レール供出に異議 その中に祖父の名」という小論が掲載されます。

 掲載される文章は以下の通りです。

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 初めて現職国会議員である仁比参議院議員を迎えた私の故郷・吉部での「春を呼ぶくすのきの集い」は会場一杯の90名の参加者で大成功しました。

「春を呼ぶくすのきの集い」終了後、仁比参院議員と私と有志の方々が参加し、戦争中の船木鉄道(船鉄)の歴史を学ぶツアーを行いました。案内人は、えんぴつ画家・岡本正和さんです。

 終戦直前の1943年の暮れに、国は船鉄に対して、吉部・万倉間のレールを撤去して供出するよう命じました。吉部村民はその事を知り直ちに「吉部村民有志大会」を開き、「船木鉄道存置擁護期成同盟会」を結成しました。村民大会では、「鉄道撤去に反対」を決議し、一戸当たり3円の運動資金を集めました。村民は、陳情団を結成して、山口県選出の貴族院、衆議院の両議院及び、運輸大臣ならびに事務局に対して、「鉄道存続」を陳情しました。

 「船鉄五十年史」には、陳情団は二度上京してことが記されています。最初に上京した一行に対して佐藤栄作監理局長は、「戦争追求に総力を結集しなければならない時、一鉄道の存亡を考慮すべきではなく、命令を拒否することは国賊にも等しい」と答えました。

 そこで、撤去期日の延長とその後の交通対策の確保の確約に方針を変更し、第二陣が上京します。第二陣の陳情団について「船鉄五十年史」は「第二陣には由利庸夫の外に藤本一人、重枝弥三郎、田中康人、隣村の雄弁家藤村勝一が特別参加した一行五名に、会社から国吉省三取締役が同行した。」と書いています。

 この文にある藤本一人は私の祖父です。当時、吉部村役場に勤めていました。祖父は、吉部村助役を務めましたが、当時の役職は分かりません。祖父が死んで生まれた私は、祖父を知りませんが、私の名前「一規」の「一」は祖父の名前から取ったと父から聞いています。

 第二陣の交渉に対して国は、「二か月の撤去延期、代行機関として山陽電気軌道の厚狭、船木間のバスを吉部まで延長し、これに対し自動車5台の割当」を約束しました。

 国の命令を拒否することは国賊と呼ばれた戦時中に、村民の声を政府に堂々と届けた村民の中に祖父の姿があったのです。祖父が吉部村役場で、東京で、吉部の住民と泣き笑いした姿が目に浮かぶようです。

 安倍首相は、憲法9条を改定し、日本を「戦争する国」へと改造しようとしています。私は、祖父を含む故郷・吉部の先人の歴史を知り、安倍首相の歴史逆行の暴走を許さない決意を新たにしました。

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 父の亡くなり、資料に名前が掲載されている人を直接する人物が少なくなりました。

 引き続き、この歴史を遺す活動を続けていこうと思います。

 吉部のレール供出の歴史を知るツアー希望の方は、私までご連絡下さい。

花博の暗

 今日の中国新聞は、「昨年秋の明治維新150年の中核事業『山口ゆめ花博』の運営に関わった県職員16人のうち、約6割の10人が月の時間外労働が100時間を超えていたことが5日、分かった。2人は150時間に上った。予想以上の人出で現場の繁忙は華やかどころではなく、県は『今後このような時間外勤務が起きないようにしたい』としている。」「実行委員会の事務局で管理職を除く県職員16人が勤務した。10人は9、10月のいずれかの時間外労働が100時間を超えた。うち5人は2か月連続で100時間以上だった。花博は当初の目標50万を大きく上回る約136万人が来場した。土日祝日は混雑が激しく、休憩時間を挟んで午前6時から午後10時まで会場に拘束される職員もいた。県は2016年12月、連合山口や山口労働局など13団体と『働き方改革宣言』を締結している。県総合企画部の北村敏克部長は『多くのお客さんが来られ、やむを得なかった』としている。」と報じました。

 いくら、「多くのお客さんがこられ、やむを得なかった」とはいえ、労働安全衛生法や労働基準法を超える働かせ方を県職員にしてはなりません。

 長時間労働が明らかになった初期の段階で、追加の職員派遣など検討すべきだと緒と思います。

 管理者である知事及び担当部長らの責任は重大だと思います。

 花博では、職員に入場券の販売や、博覧会開催期間中のボランティアの強制があったのではないかとの指摘もあります。

 「花博」の暗の部分を明らかにして、その責任を明確にすべきだと考えます。

 昨年の花博で、事務局職員の長時間労働の実態が明らかになりました。

 この問題に関する皆さんのご意見をお聞かせください。

 

「安倍・麻生道路」2000億円超

 今朝のしんぶん赤旗「日刊紙」には、下関北九州道路の問題が掲載されています。

 「無駄な大型公共事業への批判の高まりから2008年に凍結された全国6カ所の『海峡横断プロジェクト』のうち本州と九州を結ぶ関門海峡道路が、安倍政権のもとで『下関北九州道路』と名を変え事業化に向けた動きが強まっています。2000億円を超える巨額の整備費に厳しい目が向けられ、一度は中止に追い込まれた計画が『復活』した背景には何があるのか-。」

 「下関北九州道路調査検討会が始まったのは2017年5月です。しかし、いまだに費用対効果の見通しすら示すことができていません。福岡県の担当者は『ルート、構造、整備手法の3点について議論を進めている。さまざまな指摘があり、まだスタートラインにも立てていない』と説明します。」

 関門橋は設計時に予想された交通量1日7万2千台に対して半分の3万8千台(17年)しか通行しておらず、関門トンネルの交通量も減り続けています。

 記事の中で、下関市の自民党関係者がこう話しています。

 「九州経済連合会の会長は麻生太郎副総理の弟の泰(ゆたか)氏だ。自民党内の会議では、安倍・麻生の関係でスタートした計画だと言われている。それだけに総理・副総理の在任中に事業化させたという思いは両県の政治家に共通している。ここで動かなかったら経済界にも顔向けできない」

 安倍首相は、「モリカケ」問題などで国政私物化が指摘されていますが、「安倍・麻生道路」も国政私物化の最たるものです。

 国の借金は、関門海峡道路を中止した時より増えています。

 関門海峡の交通量は、減り続けています。

 それでも道路を作るということは、国民がどうなってもいい、自分たちだけが潤えばいいと思っているとしかいいようがありません。

 「安倍・麻生道路」=「下関北九道路」はきっぱり中止すべきです。

 下関北九州道路は国政の問題に留まらず、負担金や取り付け道路など県財政に関わる重大問題です。

 私は山口県議会議員選挙の候補者として、下関北九州道路ストップの論戦を行っていく決意です。

 下関北九州道路に関する皆さんのご意見をお聞かせ下さい。

ノースライト

 横山秀夫さんの最新作「ノースライト」を読んでいます。

 横山秀夫さんは、私の大好きな作家の一人で、ほとんどの作品を読んでいます。

 最近は、刊行された作品の殆どが映像化されています。

 直近の「64」も前後編で映画化されてヒットしました。

 私が、映像化された横山作品で一番印象に残っているのは、「クライマーズハイ」です。NHKのドラマも映画も良かったです。

 一人ひとりの人物を丁寧に温かく描く横山さんの筆致が私は大好きです。

 1日の読売新聞の文化欄に横山さんインタビューが掲載されていました。

 作品のストーリーがこう書かれてあります。

 「バブル崩壊後に自らを見失い、家庭を壊した青瀬は、自らの持てる力を全て注ぎこんだ家に、施主の吉野が住んでいないことを知る。家の中には、戦前に日本美を再発見した建築家、ブルーノ・タウトの作品さしき一脚の椅子が遺されていた。わずかな手がかりから、青瀬は吉野を追い始める。」

 私が読んでいるのは、青瀬が、吉野の家を訪ねるシーンです。

 記事には、こんな横山の苦悩が書かれています。

 「今作は2006年に雑誌連載を終えていたが、『一言でいえば小説になっていなかった』。心身の不調を乗り越えて、12年秋に渾身の大作『64』を刊行し、『ノースライト』を直す作業にも取り組んだが、その後も『後遺症』は続いた。主人公の名前さえも、時折、思い出せなくなる。文章が前後と呼応せず、何度も筆が止まった。編集者と毎月会っても、まずかな原稿しか渡せないこともあった。それでも『逃げると自分にはね返ってくる』と、家から出ずにパソコンに向かい、『脳内や体中の細胞、神経まで探るように』青瀬に迫って物語を再構築した。」

 記事は、横山さんの次の言葉で締めくくられています。

 「とことん力を尽くして、重いの全てをこめた作品であれば、もしかしたら残るかもしれない。それ以外のものは残るはずがないし、残る必要もない」

 この作品は、横山さんの思いのこもった残る作品だと実感します。

 同世代の青瀬の苦悩をしっかり受け止めたいと思います。

 関係者の皆さん「ノースライト」の早期の映像化をお願いいたします。

 横山さん今度も素晴らしい作品をありがとうございます。

 横山秀夫ファンの皆さん、あなたの好きな作品をお教え下さい。

 やっぱり、横山秀夫作品は最高ですね。

陸上イージスは巡航ミサイル「トマホーク」の発射に利用可能

 昨日のしんぶん赤旗日刊紙は、「米軍事企業に貢ぐ安倍政権」と題して特集記事を掲載しました。

 この中で、「イージス・アショア」に関して次のように書いています。

 「北朝鮮の弾道ミサイルを迎撃するためという説明で安倍政権が導入を狙うイージス・アショアは、米朝対話の進展で口実を失っています。配備候補地の秋田、山口両県で反対運動が広がっています。山口県阿武町では16の自治会長らが『配備計画の撤回を求める請願』を提出し、町議会は18年9月30日に全会一致で請願を採択しました。花田憲彦町長も「『まちづくり』がぶち壊しになる」(同年10月21日付『赤旗』日曜版)と反対を表明しました。秋田市の穂積志市長は小野寺五典防衛相(当時)に対して『質問事項』(同年6月22日)を提出。『国際情勢の変化に応じて配備計画を見直すべきではないか』『中国やロシアは両国への包囲網構築の一環などと反発している』と主張しました。小野寺防衛相は『万全の備えをする』『中国やロシアを含め、周辺諸国に脅威を与えるものではありません』(同年7月19日『回答』)などと釈明に追われました。他方で防衛省はイージス・アショアが必要な理由として『(北朝鮮の)他にも我が国を射程に収めるミサイルが多数存在』することを強調します。中国やロシアとの軍事的対立を想定していることをほのめかすものです。ロシアのラブロフ外相は2月5日、イージス・アショアは『巡航ミサイル(トマホーク)の発射に利用可能』で恋檄にも転用できると指摘し、安倍政権の配備方針を批判しました。」

 イージス・アショアが巡航ミサイル発射に転用されれば、萩市のミサイルは、平壌を始め、中国内陸部へ到達します。

 秋田市のミサイルは、ウラジオストクを始め、ロシアや中国内陸部へ到達します。

 先日、TBS系の「報道特集」でイージス・アショアを特集していました。

 自衛隊の元幹部がインタビューに答え「イージス・アショアは、北朝鮮の飽和攻撃に対抗出来ない。」と明言していました。

 ある集会参加者が、「ミサイル基地建設は、中国の故事「矛盾」そのもの。」と発言していたことが印象に残りました。

 秋田と萩へのミサイル基地建設は、日本と諸外国との軍事的「矛盾」を深めるなにものでもありません。

 盾だけではなく矛になるミサイル基地の建設は行うべきではありません。

 日朝会談のように、多国間の問題は、話し合いで解決することが最良の道です。

 軍事的緊張を強化することは「矛盾」の深まりしか呼ばず、その先は「軍事的争い」=「戦争」への道です。

 私は、県議会議員選挙をたたかう候補者の一人として、「萩市へのミサイル基地建設は認められない」の立場で残り1カ月訴えぬいてまいりたいと思います。

 イージス・アショアに関する皆さんのご意見をお聞かせ下さい。

立川談志

 「落伍 昭和の名人極めつき」第4巻は、「立川談志」壱でした。

 マガジンに寄席文字書家の橘左近さんが立川談志をこう書いています。

 「独特の理論と型破りな芸風で、昭和の後半から平成の時代を疾風迅雷のごとく駆け抜けたのが立川談志」

 実は、これまでじっくり立川談志の落語を聞くことはありませんでした。

 ここに収められているのは、「道灌」と「桑名船」

 「道灌」では、談志のマクラの凄まじさに感服しました。

 「インド」の歴史などの博学ぶりにも感服しました。

 「桑名船」では、談志の演じる講釈の場面に驚嘆しました。

 談志特有の「あく」は、実力に裏付けられたものだったことに感じ入りました。

 放送作家の和田尚久さんは、談志の時代の落語界の様子をこう書いています。

 「当時の落語は、明らかに衰微していたということである。真打はもちろん、二ツ目までもが大ホールで独演会を開き、寄席にも観客が集まる現在と違い、当時の落語界では、定員300人の国立演芸場で月例独演会を開く談志が、いちばん客を呼ぶ落語家であった。それにしても、当日の夕方に演芸場に行けば、気軽に入場できた。志ん朝や小さんは独演会をめったに開かず、寄席は開いていた。1980年代のことだ。」

 談志は、「伝統」と「現代」を繋げようと力を尽くしてきました。このことは、「道灌」のマクラで言葉を解説しながら話を進める姿勢にも官官ることができます。

 しかし、談志とその時代の落語家の努力があったから、現在の落語の復興があったのだと思います。

 落語の浮き沈みはこれまでも何度もあったのかも知れませんが、1980年代から落語を復興させた、談志は、落語の中興の祖と言えると思います。

 談志は、多くの落語論を書いた人でもあります。談志の文章と何よりも落語で、談志の奥深い世界をこれから少しづつ知っていきたいと思いました。

 移動中の車の中で、今は、立川談志を聴く、今日この頃です。

 立川談志ファンの皆さん、皆さんのお勧めの一席、一冊をお教え下さい。