議員日誌

レール供出に異議 その中に祖父の名

 3月10日付の山口民報に私の「レール供出に異議 その中に祖父の名」という小論が掲載されます。

 掲載される文章は以下の通りです。

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 初めて現職国会議員である仁比参議院議員を迎えた私の故郷・吉部での「春を呼ぶくすのきの集い」は会場一杯の90名の参加者で大成功しました。

「春を呼ぶくすのきの集い」終了後、仁比参院議員と私と有志の方々が参加し、戦争中の船木鉄道(船鉄)の歴史を学ぶツアーを行いました。案内人は、えんぴつ画家・岡本正和さんです。

 終戦直前の1943年の暮れに、国は船鉄に対して、吉部・万倉間のレールを撤去して供出するよう命じました。吉部村民はその事を知り直ちに「吉部村民有志大会」を開き、「船木鉄道存置擁護期成同盟会」を結成しました。村民大会では、「鉄道撤去に反対」を決議し、一戸当たり3円の運動資金を集めました。村民は、陳情団を結成して、山口県選出の貴族院、衆議院の両議院及び、運輸大臣ならびに事務局に対して、「鉄道存続」を陳情しました。

 「船鉄五十年史」には、陳情団は二度上京してことが記されています。最初に上京した一行に対して佐藤栄作監理局長は、「戦争追求に総力を結集しなければならない時、一鉄道の存亡を考慮すべきではなく、命令を拒否することは国賊にも等しい」と答えました。

 そこで、撤去期日の延長とその後の交通対策の確保の確約に方針を変更し、第二陣が上京します。第二陣の陳情団について「船鉄五十年史」は「第二陣には由利庸夫の外に藤本一人、重枝弥三郎、田中康人、隣村の雄弁家藤村勝一が特別参加した一行五名に、会社から国吉省三取締役が同行した。」と書いています。

 この文にある藤本一人は私の祖父です。当時、吉部村役場に勤めていました。祖父は、吉部村助役を務めましたが、当時の役職は分かりません。祖父が死んで生まれた私は、祖父を知りませんが、私の名前「一規」の「一」は祖父の名前から取ったと父から聞いています。

 第二陣の交渉に対して国は、「二か月の撤去延期、代行機関として山陽電気軌道の厚狭、船木間のバスを吉部まで延長し、これに対し自動車5台の割当」を約束しました。

 国の命令を拒否することは国賊と呼ばれた戦時中に、村民の声を政府に堂々と届けた村民の中に祖父の姿があったのです。祖父が吉部村役場で、東京で、吉部の住民と泣き笑いした姿が目に浮かぶようです。

 安倍首相は、憲法9条を改定し、日本を「戦争する国」へと改造しようとしています。私は、祖父を含む故郷・吉部の先人の歴史を知り、安倍首相の歴史逆行の暴走を許さない決意を新たにしました。

・・・

 父の亡くなり、資料に名前が掲載されている人を直接する人物が少なくなりました。

 引き続き、この歴史を遺す活動を続けていこうと思います。

 吉部のレール供出の歴史を知るツアー希望の方は、私までご連絡下さい。

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