藤本かずのりサポーターズ はじめました

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沈まぬ太陽

 今日から、山崎豊子原作の映画「沈まぬ太陽」が封切られました。

 私は、第一回目の上映を見ました。私は、この映画でまず、家族愛を感じました。私と父との、私と子どもたちとの関係を考えさせられました。

 主人公の恩地は、私たちの父の世代でしょう。私の父も、高度経済成長の中、労働組合運動に参加し会社での昇進問題や子どもたちのことで苦悩しながらがんばっていたんだなととても懐かしい気持ちになりました。

 恩地は、闘う労働組合の活動家として「赤」のレッテルが付きまといます。そして、恩地は、海外勤務が続きます。

 私たちの諸先輩の中にも、仕事は人一倍真面目に取り組むが、活動家のレッテルで左遷されたり、昇進で差別を受けた人たちがおられます。

 恩地の顔がその方々の顔とだぶって見えてきました。その顔は、どれも凛としています。

 そんな恩地と家族の関係も私の近い将来のようで身につまされました。

 娘の結婚で「赤」と結婚させるわけにはいかない、との横やりが入ります。

 子どもの頃に父に不満を漏らしていた長男が、父の理解者となります。長男が自分の仕事のことを父に問われて「父の経歴で差別する職場には入らないつもりだった」「今の職場には満足している」こういう趣旨を言います。

 そして、恩地が、再び海外に左遷されようとする前に、長男の職場を訪ねた後、牛丼屋で語り合うシーンがあります。何気ない会話でしたが、心が通じ合っているのが映像でよく分かりました。

 我が家も10年後、私の仕事のことでひっとしたら、子どもたちに苦労をかけることがあるかも知れません。しかし、親子で心を通じ合わせながら乗り切っていくことが出来たらと思います。

 そして、この映画のもう一つの見せ場は、未曽有の航空機事故に対する恩地らの真摯な態度です。

 当然、モデルは、御巣鷹山での事故です。恩地が一人一人の遺族に真摯に接する姿には頭が下がります。

 映画のパンフレットの最後に、「飛行機事故による犠牲者の皆様のご冥福とご遺族の方々へ哀悼の意を表します。この映画があらゆる交通機関の『安全・安心』促進の一助になることを願います」と書かれてありました。私は、本ブログで何度も書いていますように、大学生の時、スキーバス転落事故で遭遇した一人です。私の乗ったバスは大丈夫でしたが、同じツアーの1台が川に転落して多くの死者が出ました。

 交通機関事故に遭遇したものとして、この言葉の実践を切望します。

 少なくとも、交通機関は、「資本よりも人命を最優先する」ことがこの国で更に徹底されることを、この映画を通じて切に思いました。

 山崎作品は重厚です。語り尽くせない論点が多々あります。皆さんの感想をお聞かせください。

中国人実習生残業代支払いで調停成立

 防府市の縫製会社で働いていた中国人実習生3人が、未払い賃金などの支払いを求める労働審判が山口地裁で20日に行われました。

 会社側が一人あたり約80万円支払うことで調停が成立しました。

 中国人実習生は、日本の労働法規が適応でないなどとして、これまで、同様の審判で実際に和解金が支払われることはなかったそうです。

 今日、お会いした彼女らを支援している県労連の役員の方によると「和解金が支払われるのは全国初ではないか」と話しをされていました。

 日本が戦前に中国に対してどんなに惨い仕打ちを行ってきたかは、私のブログで繰り返し取り上げてきました。

 しかし、最近の中国人研修生の実態は、戦前の歴史を繰り返すものです。

 誤りは改めるの立場で、今回のケースを教訓にして、今後、中国人研修生の労働条件が抜本的に改善されることを望みます。

 今日、私は、宇部地域労連の定期大会であいさつを行いました。

 全ての働く人びとが幸せな社会となるように、引き続き頑張る決意を新たにしました。

山形県の少子化対策

 政府交渉を行い、そのまま山形に出向き、昨日は、少子化対策などの政策を聴取しました。

 山形県では、人口減少に歯止めがかからず、「子ども政策室」という部署を設置しました。この室は部に相当する部署です。

 ちょうど視察に行った前日の10月20日に、「子育て山形県民会議」の開会(キックオフ)宣言が行われたとの報道がありました。

 また、別の新聞には、「やまがた子育て応援パスポート事業」の対象を未就学児としていたものを来年度から小学校卒業までに拡大することを決めたとの報道がありました。

 これによって、現在5万1千世帯の対象が10万を超える世帯と大きく拡大されます。山口県と決定的に違うのは、この事業のために独自のカードを作成していることでした。

 その他、来月にも「やまがた結婚応援団+(ぷらす)(仮称)」を立ち上げるとのことでした。その為に、「婚活コーディネーター」を今年度から配置しています。

 最後に、子どもへの医療費助成制度です。山形県では、「子育て支援医療給付事業」と言われています。

 山口県と同様に一部負担金は導入されているものの、今年、7月からは、入院の対象を小学生にまで拡大しています。

 また、第三子以降は所得制限なしで、医療給付事業を適応していることも山形県の特徴と言えます。

 子どもの問題を専門に取り扱う部署を部に格上げし、少子化対策を総合的に進める山形県から山口県が学びことは大いにあると感じました。

 いい視察が出来ました。

 

 

政府交渉

 20日、日本共産党山口県委員会が行った政府交渉に参加しました。

 厚生労働省が9項目、総務省が6項目、防災問題が2項目、国土交通省が9項目、防衛省が5項目、農林水産省が7項目、文部科学省が6項目、経済産業省が1項目と交た渉は多岐に渡りました。

 私が参加した省庁交渉の特徴を報告します。

 新型インフル対策については、ワクチン接種への低所得者への配慮を行うと担当者は明言しました。原則費用の免除が検討されているのは、生活保護世帯と住民税非課税世帯とのことでした。

 総務省の交渉では、地デジ対応の問題でいくつかの前進がありました。今年の10月から低所得者(NHKの受信料免除世帯《生活保護世帯、障がい者手帳保有者、住民税非課税世帯など》)に無料でブースターが配布されることになったとのことでした。配布世帯は260万世帯になるとのことでした。

 防衛省での交渉では、FCLP問題が議論になりました。訓練終了後夜間、岩国基地に帰ってくるような運用にならないように米側に求めることを担当者が約束しました。

 国交省の交渉では、直轄事業負担金の維持管理費についてH22年度の概算要求においてないものとして考えていくと担当者が明確に答えました。

 文部科学省では、学力テストについては、H22年度から抽出方式にすると担当者が明確に答えました。規模は、全体の40%程度を考えているとのことでした。

 経済産業省では、上関原発を議論しました。9月18日、経済産業省電気ガス事業部長が中電社長に「不測の事態が起きないように」と口頭で伝えたことが明らかになりました。

 政権交代で、国の政策が大きく動いていることを実感する交渉となりました。

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 仁比参議院議員(右端)も参加して交渉が行われる

大連・瀋陽

 今日午後、東京に行きます。明日は、政府交渉。明後日は山形で会派の視察です。

 また、しばらくブログの更新が出来ません。国内ですので電話は大丈夫です。

 さて、そういう事情もあって、中国旅行の残りの報告を今日で仕上げます。

 報告していない残りの都市は、大連と瀋陽です。

 まず、大連は、二日目の午前中に見学しました。

 大連では、中山広場にある旧大和ホテルを見学しました。

 この周辺の建物は、日本統治時代とほとんど変わっていません。中国政府が丁寧に使い続けています。

 見学した旧大和ホテルは、今は、「大連賓館」という名称ですが、今もホテルとして活用されていました。

 私たちは、李香蘭もここでコーヒーを飲んだという喫茶室に入りました。吹き抜けの天井が印象的でした。

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   集合写真の後ろが、旧大連大和ホテルです

 大連で次に訪ねたのが、大連港です。引き揚げ船がここから舞鶴に向けて出港した場所です。

 この港は、ロシアが設計したものですが、日露戦争後は、日本が統治し、整備も行いました。

 見学したのは、旧港と呼ばれる場所で、4バースしかありませんが、東側に新港が整備中で完成すれば、合計で108バースの港になるそうです。

 説明してくれた港の職員によると新港の最大の水深はマイナス27メートルあるそうです。

 彼女は、「5年後には、大連港が取り扱い貨物量で世界一になると確信している」と話してくれました。

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  写真右の建物は、1924年に竣工したものです

 三日目の午後に、瀋陽を見学しました。

 瀋陽では、忘れてはならないのが、柳条湖に建てられた「9・18歴史博物館」です。

 ここから日中戦争が始まりました。中国人にとっては、抗日の原点と言える場所です。

 1931年9月18日、奉天に向かう満鉄の急行列車が通過する直前に爆弾が爆発しました。

 この爆弾は関東軍が仕掛けたものであることは、今日では明かな事実となっています。

 記念館の展示や車内での趙さんによる説明などで日中戦争に向かう歴史がよく理解できました。

 柳条湖事件の前には、張作霖爆殺事件も日本軍が行った事件であることが分かっています。

 また、柳条湖事件の後に起きた盧溝橋事件も同様の手法で日本軍が行った事件であることも分かっています。

 しかし、この場所をいかに中国人は、忘れられない場所にしているのかが現地に行ってよく分かりました。

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 柳条湖事件当日のカレンダーを模したモニュメント

 瀋陽では、世界遺産にもなっている故宮も訪ねました。

 故宮に到着したと同時に雨が降り始めましたが、概略を見学することが出来ました。

 この建物は、清の時代に、王宮として建てられたものです。北京故宮は9999もの部屋があるそうですが、ここは、333の部屋数です。

 しかし、当時の清の力と文化を十分に感じることが出来る建物でした。

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 雨の瀋陽故宮。雨と同時に夕方のようになりました

 大連・瀋陽と、満州統治統時代の中心都市を見学しましたが、十分にその歴史を満喫することが出来ました。

 同時に、今を生きる中国の都市として大きく発展している勢いを感じました。

 大連でも瀋陽でも街のあちらこちらで再開発が行われていました。そして、世界中の高級車を散見する旅でもありました。

 日本中国友好のためにとても有意義な旅となりましたし、今の中国を知る旅としても有意義でした。

撫順

 昨日の予定を変更して、今日は、先日の中国旅行の中で、三日の午前中に訪ねた撫順のことを報告したいと思います。

 明日、大連と瀋陽の様子をまとめて報告しましょう。

 それほど、私には印象深かったからです。

 二日目の夜に、大連から瀋陽に移動しました。三日目の朝は、8時にホテルを出発して、撫順に向かいました。

 撫順では、まず、現在の操業している撫順炭鉱の露天掘りの様子を見学しました。東西の長さ6.6キロ、南北の長さ2.2キロ。深さ500メートル。

 現在でも年間260万トンの石炭を産出している現役の炭鉱だとガイドの趙さんが説明します。

 しかし、この炭鉱も後20年で掘り尽くすことが想定され、政府は、今からそのための準備をしているとのことでした。

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  手前の線路の下は、露天掘りの底に至ります

 次に訪れたのが、平頂山惨案遺跡を見学しました。

 満州が建国されて間もない1932年9月16日、日本の独立守備隊は、「抗日ゲリラと内通している疑いがある」としてこの地域の炭坑で働く400世帯、3000人の住民を集め、皆殺しにしたのでした。

 生存者は、わずか数十名に過ぎなかったそうです。

 平頂山では、まず、人骨がそのまま保存されている「記念館」を訪ねました。

 数十メートルに、わたって人骨が折り重なっている様子がそのまま保存されています。

 所々、死体を置くガソリン桶の後もl残っています。壮絶の極みです。

 日本中国友好協会山口県連合会として、花輪をお供えしました。

 私は、「二度と同じ過ちを繰り返さないように」と記帳しました。

 そして、2006年に完成したばかりという資料館にも足を運びました。

 中には、この事件を再現した映像もありリアルでした。

 事件が起きた前日は、「中秋節」で中国人は月餅を食べ、家族でお祝いを行う日でした。

 その喜びもつかの間、「写真を撮ってやる」との口実も使った虐殺でした。

 記念館の展示物の後半に、この平頂山事件を日本で最初に明らかにしたのが本多勝一氏だとありました。

 妻は、本多勝一ファンです。帰国して本多勝一著「中国の旅」を妻から借り、「平頂山」の章を読みました。

 この中に、当時12歳で生き残った韓さんが実際に見たという惨状の様子が描かれています。

 「韓さんから数メートル離れて、一人の赤ん坊が、死んだその母の乳房に抱きついて泣いていた。兵隊はこの乳児を銃剣で突き刺すと、そのまま空中に放り上げて捨てた」

 まさに人を鬼にしてしまうのが戦争なのだということを、現場で、そして、本多氏の本で再認識しました。

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 発掘された人骨がそのまま保存されています

  

 撫順の最後は、日本人の戦犯者が収容された撫順戦犯管理所を訪ねました。残念ながら改修中で、中には入れませんでしたが、合計で1109名の日本兵が収容されていた場所です。

 ガイドの趙さんは、「戦犯者には、改心させることを重視し、一人も殺すことなく最後は、全ての人を解放した」と説明した言葉を忘れることはできません。

 この収容所には、「ラストエンペラー」の溥儀と弟の溥傑も入っていたそうです。

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 改装中の為、残念ながら入ることは出来ませんでした

 平頂山の記念館の出口には、大きく「前事不忘 後事之師」と書かれてありました。

 日本の将来のためにも、「平頂山事件」のことを忘れてはならないと痛感しました。