私は、小学校高学年の頃、Hのマークの野球帽をかぶって登校していました。
小さな学校でしたが、Hのマークの帽子は私一人でした。
そうです。私は、阪急ブレーブスファンだったのです。
稲刈りが終わった肌寒くなった午後、日本シリーズを見ていた10代前半の自分をこの頃になると思い出します。
今、読売新聞阪神支局編「阪急ブレーブス 勇者たちの記憶」と増山実著「勇者たちへの伝言」を読んでいます。
1975年、1976年、1977年、阪急ブレーブスは、日本シリーズで優勝しているのです。
監督は上田さんでしたね。
この頃、私は、11歳、12歳、13歳。小学校高学年から中学生の頃です。
当時、プロ野球スナックというお菓子が大流行。野球選手のカードがおまけについてきます。
集めたカードは、阪急の盗塁王の福本選手やエースの山田選手のものが多かったわけです。
「勇者たちへの伝言」の著者である増山さんは、1958年生まれですから、私より6歳上。私の長姉と同い年ですね。
主人公の正秋は、作者と同年配の設定です。
1976年、正秋は中学3年生。大学時代は、阪急ブレーブスの本拠地・西宮球場でアルバイトをしたとあります。
1988年、私が大学を卒業して、宇部協立病院に就職した年に阪急ブレーブスは、球団譲渡を発表します。
その年に、山田・福本選手も引退を表明します。
2000年、西宮球場が解体し、2008年、球場跡地に「阪急西宮ガーデンズ」がオープンします。
今は、ホームベースだった真上の阪急西宮ガーデンズの5階に「阪急西宮ギャラリー」が設置され、阪急ブレーブスの歴史と選手の記録が残されているそうです。
ブレーブスは「勇者たち」の意味ですね。
小説の中で、正秋は、ブレーブスの帽子をかぶりはじめた頃に、いじめっ子と対峙する場面が出てきます。
私には同じ経験はないけれど、この逸話を読むと、私の少年時代が蘇ってきます。
私は10代を、阪急ブレースとともに歩いてきました。
しかし、阪急ブレーブスという球団も西宮球場もありません。
もう雄姿が観れないからこそ、阪急ブレーブスを深い郷愁の気持ちで思い続けていけるのかも知れません。
妻は、阪急電鉄沿線の宝塚で生まれ、阪急電鉄箕面線終点の箕面駅周辺で育ちました。
阪急箕面駅近くの妻の両親の家に、今、私の長男と次男が下宿しています。
小豆色の阪急電鉄に乗って、今日も、二人の息子は、それぞれの大学に通っていることでしょう。
阪急をめぐる10数年後の出会いがあることを、Hの野球帽をかぶっていた小学生の自分は、思いもせずに暮らしていました。
阪急ブレーブスと歩んだ10代の自分を大切に、これからも福本・山田選手の雄姿に励まされながら人生を重ねていきたいと思います。
「勇者たちへの伝言」「阪急ブレーブス 勇者たちの記憶」を引き続き読んで、10代の自分と対話したいと思います。
阪急ブレーブスファンだった同世代の皆さん、そして先輩方、阪急ブレーブスの思い出をお聞かせ下さい。
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