議員日誌

キング牧師

 非暴力の人物伝4「キング牧師・ネルソン・マンデラ」を読んでいます。

 今日は、キング牧師について書きたいと思います。

 1963年、リンカーンが奴隷解放宣言をおこなってから、100年という年。アメリカで公民権運動に取り組む団体が協力し、ワシントンで大行進が行われました。

 最後に演説したのがキング牧師です。

 「・・・今日も、そして明日も、わたしたちが困難に直面するとしても、わたしには、なお夢があるのだということを。それはアメリカの夢に深く根ざした夢なのです。すなわち、いつの日か、この国が立ち上がって、『すべての人は平等につくられている。神によって、生存、自由、幸福の追求を含む、侵してはならない権利を与えられている』という、わが国が独立したときの信条にもとづいて生きるようになるであろうという夢です。わたしには夢がある。いつの日か、ジョージアの赤い土の丘の上で、かつての奴隷の子孫と、かつての奴隷主の子孫が、兄弟愛のテーブルに仲よく座ることができるようになるという夢が。わたしには夢がある。いま、不正義と抑圧の炎に焼かれているミシシッピ州でさえ、自由と正義のオアシスに生まれ変わるだろうという夢が。わたしには夢がある。いまは小さなわたしの4人の子どもたちが、いつの日か肌の色ではなく、人格で評価される国に住めるようになるという夢が。わたしには夢がある。悪意ある人種差別主義者や、差別的な州知事がいるアラバマ州でさえ、いつの日か、おさない黒人の少年少女が、おさない白人の少年少女と手をとって、姉妹兄弟となることができるという夢が。私には今日、夢がある。わたししには夢がある。いつの日か、すべての谷は高くもりあがり、丘や谷は低地となる。荒れ地は平らになり、ゆがんだ土地もまっすぐになり、そして主の栄光があらわれる。その光景を、わたしたちがともに見るという夢です。これがわたしたちの希望なのです。」

 この演説の一部をどこかで耳にした方も多いと思います。

 私は、キング牧師の「わたしの4人の子どもたちが、いつの日か肌の色でなく、人格で評価される国に住めるように」などの演説を読んで、中島岳志さんが、「100分で名著 オルテガ 大衆の反逆」の中で書いていた、民主主義と立憲主義の部分を思い起こしました。

 「民主主義の主体はいま生きている人間、つまり『生者』。それに対して、立憲主義の主体は『死者』なのです。立憲主義における憲法は、国民が権力を縛るルールです。では、そのときの『国民』とは誰なのか。立憲主義が前提としている国民は、生きている国民だけではない。その中には死者が含まれている。いや、むしろ死者が主役なのです。いくら生きている人間が支持しようとしても、してはいけないことがある。そして、その『してはいけないこと』を定めている憲法に、私たちは拘束され続けている。つまり、憲法を通じて、死者が私たちをガードし続けている、それが立憲主義というものなのです。しかし、いまの日本には、自分は多数派に支持されているのだから何をしてもいいんだ、白紙委任されているのだと主張する政治家が少なくありません。そのように、立憲主義を忘れた民主主義、つまり多数者の見解だけによって正しい進歩が成し遂げられるという傲慢な発想こそが民主制を危うくするというのが、オルテガの思想なのです。」

 キング牧師は、この演説からわずか5年後、銃弾に倒れます。

 私は、「死者」となったキング牧師の「夢」も、今日の立憲主義に包含されていると感じました。

 憲法を壊す政治ではなく、憲法を生かす政治こそ必要だということをキング牧師の「演説」から学びました。

 皆さんにとっての「キング牧師」とは何かをお教え下さい。

 

 

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