議員日誌

朝鮮の植民地化は終始武力の脅しで進められた

 私は、昨年から長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会の運営委員として、宇部市で起きた炭鉱の水没事故で亡くなられた人々を追悼する集会などに関わってきました。

 亡くなった方々の多くは、朝鮮半島から強制労働で日本に連れてこられた方々でした。

 事故の起きた時期に行う追悼集会には多くの遺族の方々から韓国から来られます。 

 刻む会の運動に運営委員として参加するようになり、朝鮮の植民地化の歴史には興味があります。

 不破哲三著「新日本共産党綱領を読む」(新日本出版社)

 不破さんはこの本で「いまでも、自民党や一部野党の政治家のあいだで、朝鮮にたいする植民地支配という明白な事実を免罪しようとして『韓国併合は韓国が望んだからやったんだ』といった議論を平気で口にする人たちがいますが、これあ歴史を正反対にねじまげた議論で、歴史の真実を尊重する気持ちが少しでもある人なら、絶対に口にすることができない性質のものです。」と書いています。

 日本政府が、韓国併合の方針を最終的に決定した1909年7月の「韓国併合に関する件」という政府決定には、「韓国を併合し之を帝国の版図の一部となすは・・・帝国百年の長計なりとす」と書いてあります。

 不破さんは、この決定を「韓国併合が、明治初年から日本が意識的に追求してきた大目標であったことを明示政府自身の言葉で告白したもの」と指摘します。

 不破さんは、「日清戦争のときにも、朝鮮の宮廷は、清国と日本のあいだで中立を守って、どちらにもつくまいとするのですが、日本は、またその宮廷を軍隊で包囲して、むりやり日本の側につかせたのでした。日清戦争のあと、国王の妃の閔妃が、日本の強圧的な従属化政策に反対する立場をとります。このとき、朝鮮に派遣されていた日本の公使(三浦梧楼、いまの大使に当たる)が、武装集団を組織して王宮に乱入し、閔妃を殺してしまうことまでやってもけました。(1895年)」とも書いています。

 不破さんは、「朝鮮侵略の一歩一歩が、軍隊の脅しあげての一歩一歩でした。どの一歩をとっても、最後に両国政府の『合意』という形がとられたからといって、『合意のもとでの従属化だった』『合意のもとでの合併だった』などという正当化論の成り立つ余地はまったくないものでした。」とこの章を締めくくっています。

 歴史をねじ曲げては、日本の一番の隣国である韓国との真の友好関係は築けないと思います。

 この歴史を日本の国民の一人として、しっかり銘記していきたいと思います。

 朝鮮の植民地化の歴史を皆さんはどうお考えですか。

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