水木しげるさんの自伝を読んでいます。終戦直後の昭和20年代後半、水木さんが水木荘を購入し、紙芝居作家としてスタートした場面に、加太こうじさんが登場します。
加太こうじさんの名は、年配の方の多くはご存知だと思います。そう「黄金バット」の産みの親です。
当時、加太こうじさんは、紙芝居界のスーパースターでした。
「水木サンの幸福論」の中に水木さんは加太さんについてこう書いています。
「加太先生が関西に来ると、水木荘に泊め、安い牛肉と砂糖の代用品のサッカリンですき焼きなどをこしらえて、最大級の接待をした。「ブンカ人」的な小難しい説教が多く、遠慮せずにむしゃむしゃ食べるので、ややムッとすることもあった。自慢話が始まるとなかなか止まらないが、のちに評論家に転じる博覧強記の人だから、いろいろなことを教えてくえた。」
実は、私と加太こうじさんとは若干の御縁があったのです。
私が大学在学中ですから、約25年前に加太こうじさんが、わが大学の客員教授に就任されたのです。
授業を聞いた記憶がないのが今では残念です。
加太さんについて「ウィキペティア」で調べてみました。
高等小学校在学中の14歳で紙芝居界に入るとありました。大変な苦労をされた方です。
また、1986年、日本福祉大学教授とあります。
1998年にお亡くなりになられていました。
加太さんには多数の著作があることも分かりました。少し読んでみようかとも思います。
水木しげるさんは、紙芝居作家として行き詰まり、その後、上京します。
「私はゲゲゲ」には、東京について、まず、加太こうじさんの所にあいさつに行ったとあります。
加太さんから「貸本漫画業界の彗星 相沢先生を紹介された」とあります。
水木さんは、貸本漫画にも行き詰まります。その後、漫画雑誌界の寵児となることは、皆さんも御承知の通りです。
加太さんは、時代に翻弄され、苦労続きだった水木さんの下積み時代を影で支えた恩人の一人だったようです。
加太ファンの皆さん、いろいろお教えください。
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はじめまして、加太こうじさんの高名は昔から耳にしていましたが、書いた文章を見たのは、雑誌「思想の科学」でした。
昨年末から、小熊英二さんの著作から、啓示を受けて⇒鶴見俊輔さんの仕事を知ろうと考え、膨大な著作に触れています。
なにぶん、刊行されている量が多く、重複もありますが、鶴見さんの言によると、
「赤旗日曜版を生むときに、大きな役割を果たした」とのことです。
出典⇒http://www.jca.apc.org/beheiren/332Tsurumi-Oguma-Ueno-Interview.htm
これは、対談なのですぐに読めます。
by ozeki — 2012年3月13日 0:46 AM