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宇部市PTA連合会総会

 昨日、2017年度宇部市PTA連合会総会が宇部市内で行われました。

 私は、2年間務めた宇部市PTA連合会長を引退し、顧問に就任しました。

 宇部市PTA連合会では、監事2年、常任理事2年、副会長2年、会長2年と合計8年役員を務めてきました。

 野口宇部市教育長から教育委員会選奨をいただきました。

 これからは、顧問として宇部市PTA連合会の発展に寄与していきたいと思います。

 さて、総会で私が行った挨拶の要旨は以下の通りです。

・・・

 平成29年度の宇部市PTA連合会総会にあたり、一言、ご挨拶を申し上げます。まずは、宇部市教育委員会の野口教育長をはじめ、多数のご参加まことにありがとうございます。

 私は、今期でPTA連合会を引退します。私が連合会長になった2年前から「スマホやゲームの約束」に取り組んできました。また、昨年度からヘルメットの着用と損害賠償保険への加入促進に取り組んできました。この二つの取り組みが、今年度も継続して取り組まれることを望むものです。

 PTA連合会長を引退するにあたり、二人の女性の言葉を参加者の皆さんの送りたいと思います。

 一人は、ジャーナリストの小笠原みどりさんです。小笠原さんは、朝日新聞を退職して現在、フリーのジャーナリストです。彼女は、自らの本の中で「価値基準の頂点は、人のいのちだ」「人間存在の起点は人のいのちだ」と書いています。私は、「全ては子どもたちのために」と挨拶で述べてきました。PTAや学校や教育委員会のためのPTA活動ではなく、子どもたちのためのPTA活動にしていかなければならないと思っています。

 二人目は、ジブリ映画「かぐや姫」の主題歌で有名な歌手の二階堂和美さんです。二階堂さんは、広島県で僧侶もされています。「伝える花」では平和への想いが歌われています。

 「受けた悲しみは 決して返しはしない」「この土に眠る幾億の願い つないでいく」

 被爆者の人々は、悲しみを返してほしいのではなく、平和を築いてほしいと願っているのだ、その願いをつなげていこうという歌詞だと思います。

 昨年320名の子どもたちが自殺で亡くなっています。子どもたちの受けた悲しみをなくすには、悲しみを返すのではなく、「自分の存在を認めてほしかった」との願いをつないでいくことが大切だと思います。

 一人一人の子どもたちを大切にするためにPTAとして何ができるか考えていくことが大切ではないでしょうか。

 私は、連合自治会長は引退しますが、厚南中学校のPTA会長です。共に皆さんと悩みながら、一緒にPTA活動を続けていきたいと思っています。連合会は、新体制の元で更に飛躍することを願って私の挨拶といたします。

・・・

 顧問として残りますが、楽しい8年間でした。関わりのあった全ての皆さんに感謝の言葉を捧げます。

 ありがとうございました。

パノプティコン

 5月20日付、本願寺新報の「ニュースを読む」は、「テロ等準備罪」がテーマでした。

 埼玉県東松山市・西照寺僧侶の網代豊和さんが執筆者でした。

 網代僧侶は、「パノプティコン」の事を書いています。

 「東京工業大学の中島岳志教授が昨秋、築地本願寺で講演した内容を思い出した。近代監獄『パルプティコン』の構造を例に、権力に服従していく自主規制がはたらく構造が生まれつつある現況に警鐘を鳴らした。パノプティコンとは、中央の塔から囚人の収容されている部屋に向けて光を放って囚人を監視する監獄のこと。光によって監視者から囚人がよく見え、囚人からは監視者がまぶしくて見えない構造だそうだ。囚人はたとえ監視されていなくても、光が届いているだけで『見られている意識が植え付けられるので、監獄の運営としては効果的だという。」

 網代僧侶は、この小論をこうまとめました。

 「マイナンバー、そして『テロ等準備罪』と政府が創設する法案は、テロ対策に名を借りて権力者を都合よく一般人を監視する社会に向かっているように感じる。子どもの頃、『誰も見ていなくても、閻魔さまが見ている』と教えられた。最初の死者としてあの世に至り、死者の王となったといわれる閻魔王。その裁きは罪の多少に忠実であるが、世俗の権力者が自分の都合を優先して罪を裁けば、地上に地獄のような戦争や紛争が待ち構えている。」

 パノプティコンについては、今読んでいる小笠原みどり著「スノーデン、監視社会の恐怖を語る」にも詳しく書かれています。

 「住基ネットや監視カメラを通じて、国家や企業がなにをしているのかは基本的には見えない。自分の情報を実際に集めているのかどうか、集めているとすればどんな情報を集めて、どんなことに使っているのか、その情報が正確なのかも、わからない。実際には集めていないかもしれないし、使っていないのかもしれない。しかし、住基ネットや監視カメラという構造自体が、そこにとらえられている住民や消費者の心理に変化を及ぼす。見られているという構造自体が、そこにとらえられている住民や消費者の心理に変化を及ぼす。見られている側が見ている側の視点を内面化し、自分の行動を管理するようになる。たとえば「よい住民」と思われるように、「ワンランク上の消費者」を目指すように。権力から疑われないよう、怪しまれないように。」

 パノプティコンとは、「みられる側が見ている側の視点を内面化し、自分の行動を管理するようになる。」ことなのですね。

 現在、国会で審議されている共謀罪法案は、日本で高度な「パノプティコン」を構築するための過程だと思えてしかたがありません。

 移動中の聴いていたNHKラジオでジョージ・オーウェルの「1984年」がテーマになっていました。

 日本が「ビック・ブラザー」率いる社会にしないために、自由と民主主義が大切にされる社会を維持していくために、共謀罪法案は廃案にするしかないと感じました。

 引き続き、小笠原みどり著「スノーデン、監視社会の恐怖を語る」を読み進めます。

 共謀罪法案に対するみなさんのご意見をお聞かせ下さい。

 

伝える花

 先日、広島で二階堂和美さんのコンサートに参加し、魅了され、広島のCDショップで彼女のCDを購入しました。

 今聞いているのは、彼女の最新アルバムである二階堂和美 with Gentle forest jazz bandによる「GOTTA-NI」です。

 ジァズアレンジの歌あり、演歌風の歌あり、二階堂さんの声は七色に響き渡ります。

 まさに、美空ひばりさんの再来かと思わせるほどのアルバムです。

 二階堂さんの歌は、当然、彼女の伸びやかな声が最大の特徴ですが、歌詞も最高です。

 一番のお気に入りは、二階堂さんの出身地である広島から平和を届ける想いが込められた「伝える花」です。

 「何もなくなった 全て消えてしまった あの日 青空は どんな顔をしていた」

 「受けた悲しみは 決して返しはしない 見上げる青空は 今 こんなに晴れている」

 「いくつもの虹を数えて わたしたちは今 この土に眠る幾億の願い つないでゆく」

 二階堂さんは、広島県大竹市の浄土真宗本願寺派のお寺で生まれ、今、ご実家であるお寺の僧侶でもあります。

 「受けた悲しみは 決して返しはしない」「この土に眠る幾億の願い つないでゆく」

 この言葉は、二階堂さんの心からの願いだと受け取りました。

 東アジアの緊張がかつてなく高まろうとしていますが、悲しみを悲しみで返したら紛争が戦争になってしまいます。

 広島をはじめ戦争によって多くの尊い命が奪われましたが、一人一人の願いは平和を求める想いだったと思います。

 悲しみを繰り返すのではなく、平和を求める願いを広げる大切さがこの歌詞に込められています。

 核兵器禁止条約を交渉する国連会議のエレン・ホワイト議長は22日、ジュネーブの国連欧州本部で会見し、同条約の草案を公表しました。

 草案は、条約前文で、核兵器の使用がもたらす人道上の破壊的な結果を強調するとともに、「核兵器使用の被害者(ヒバクシャ)および核兵器被害者の苦難に留意」するとのべています。

 この草案が、6月15日から7月7日まで行われる「国連会議」の第2会期での議論の基礎となり、さらにその内容が豊かにされ、可能なかぎりの多くの国連加盟国の賛同を得て、採択されることを強く期待します。

 仏教の経典の一つに「仏説無量寿経」があります。本ブログでも度々引用していますが、この中に「兵戈無用」という言葉があります。

 兵隊も武器もない社会です。

 武器の中で最も人道的に破壊的な結果をもたらすものは核兵器であることは、広島・長崎の苦難で明らかです。

 平和構築のために、核兵器禁止条約へ向けて草案が作成されたことを心から歓迎したいと思います。

 この動きは、二階堂さんの歌詞「この土に眠る幾億の願い つないでゆく」ことだと受け取りました。

 二階堂さんの歌声に癒されながら、今日も、平和な社会の構築のために力を尽くしていきたいと思います。

 核兵器禁止条約草案に対する皆さんの想いをお教え下さい。

小笠原みどり著「スノーデン、監視社会の恐怖を語る」感想ノート(1)

 ジャーナリストの小笠原みどりさんの「スノーデン、監視社会の恐怖を語る」を読んでいます。

 小笠原みどりさんは、元朝日新聞の記者です。1994年に記者になった小笠原さんの初任地は、山口市。

 この頃、私は、30歳で、宇部市議会議員1期目でした。小笠原さんと何らかのイベントでご一緒したことがあったのかも知れないと思うと身近な存在に感じられました。

 これまでに読んだのは、小笠原さんがスノーデン氏への独占インタビューをする前の時期の部分です。

 小笠原さんの記者時代の率直な思いが綴られています。

 「9.11と直後さら開始された『対テロ戦争』が、その変化のプロセスの始まりだった。このプロセスは日本のメディアだけではなく、米国でもメディアが腐敗し、公衆の目を逃れて監視システムが発達していった時期と重なる。」

 米英機がアフガニスタンへの空爆を開始した翌日、朝日新聞社説は「限定ならやむをえない アフガン空爆」と書きました。

 小笠原さんは当時、福岡社会部の記者でした。社説のゲラを見た小笠原さんは、東京の論説委員室に電話しました。

 論説副主幹を名乗る人物が電話口で「うちはこれまでも武力攻撃を否定していないから」と答えました。

 この時の事を小笠原さんはこう振り返っています。

 「こうやって日本の新聞はかつて戦争に協力し、政府のお先棒を担いで、嘘を書きまくった。戦争に負けると、今度は変わり身早く『国民と共に立たん』などと宣伝して、人々を戦争に駆り立てた責任を曖昧にぬぐい去り、『新日本建設』の騎手であるかのように振る舞った。自らが考えを転換したことをけっして認めず、『これまでもそうだった』といいながら、うちという集団に隠れながら、大転換をやってのける。これならどんな個人も責任を取らなくても済む。日本の言論機関はそうして権力に寄り添ってきたのか。そして、これからもそうしていくのか・・・。からくりが全部見えた気がした。

 「屋台骨としてあると信じた新聞の平和への意思、人間への共感が社説で否定されたことは、デスクを含む記者たちの内面を確実に蝕んでいったと思う。記者が言葉を書く起点は、つきつめれば一人の人間であるということでしかない。人はほかの誰かに伝えたくて、言葉を送り出す。国家暴力がその一人の人間を殺すことを容認してしまったら、自分のような人間が殺されてもやむをえないと支持してしまったら、自己矛盾に陥る。つまり、価値基準の頂点にもはや人のいのちを置かなくなってしまったことで、記者たちは自分の人間存在を起点に書けなくなってしましった。自分の存在を否定して、思いを言葉にできるだろうか。だれに向かってなにか伝えたいと切実に感じるだろうか。軸足を失った新聞は、時代に果敢に切り込んでいく指針を失ってしまったのだ。いま新聞には、書き手が信じてもいない言葉が氾濫している。」

 昨日、「共謀罪」法案が衆院本会議で強行採決されました。

 今朝のメディアは、価値基準の頂点に国民を置いて報道しているでしょうか。

 価値基準の頂点に国家を置いて報道はしていないでしょうか。

 小笠原さんは、メディアが再び自由を取り戻すためにこう書いています。

 「自由を取り戻す方法は、真実に足場を据えて一人ひとりが反論することだろう。蓄えた言葉で、口々に。」

 「共謀罪」法案は参議院に審議の場を移しますが、真実に足場を据えたメディアの報道を大いに期待したいと思います。

 小笠原さんの「価値基準の頂点に人のいのちを置く」ことは「人間存在の起点」だという言葉は、大いに励まされます。

 各組織はこうあるべきと思います。

 人としてこうありたいと思います。

 いよいよ、小笠原さんの本は、スノーデン氏へのインタビューの部分に入ります。

 小笠原さんの紡ぐ言葉に魅了されつつ、読み進めていきたいと思います。

 平和と自由な社会を願って、この本の後半部分の感想は次回以降の本ブログで紹介したいと思います。

 「共謀罪」法案に対するご意見や、今日のメディアに対する想いをお聞かせ下さい。

劇映画「母」

 山田火砂子監督の劇映画「母」を観ました。

 三浦綾子さん原作の「母」は、作家・小林多喜二と母の物語です。

 山田監督は、映画のパンフレットにこう書いています。

 「小林多喜二は銀行に勤め、たくさんのお給料をもらって安楽に暮らせたのに、世の不平等に怒りを覚え、その安楽な暮らしを投げ打ち貧しい人の味方になり、国家権力に文章で立ち向かっていった。その頃の日本は1900年代に入り、日清日露の戦争に勝利して、軍国主義国家となり、少しでも戦争反対とか天皇陛下の事を言ったら『治安維持法』を持ち出して警察権力や特高警察の人達が殴る蹴るは当たり前、殺すまで拷問した。どれだけの人が国家の暴力によって殺されたか・・・。

 映画のパンフレットに「小林多喜二の軌跡」があります。

 1922年、多喜二が小樽高等商業学校に入学した翌年に日本共産党が結成されます。

 その翌年の1923年に関東大震災が起こります。

 本ブログで、先日、映画「払い下げられた朝鮮人」の事を書きましたが、この関東大震災の時に、「亀戸事件」が起きました。

 警察庁は「社会主義者は不逞先人と提携し活動しつつあり」との流言を流布しました。

 「亀戸事件」の著者である加藤文三さんは、「震災という天災を社会主義運動の弾圧に利用しようとする官憲の作為に違いない。」と書いています。

 この時に、日本共産党で日本共産青年同盟委員長であった川合義虎らが官憲の手で虐殺されました。

 この時に、約6500人もの朝鮮人の方々が虐殺されたことは、先に書いた通りです。

 小林多喜二は、1931年に日本共産党に入党し、1933年に特高警察による拷問で死亡しました。

 日本共産党に入ってわずか1年半で殺されたことになります。

 私は、日本共産党に入って30年目を迎えました。感慨無量です。

 改めて、日本共産党の戦前の壮絶な闘争をこの映画でリアルに感じることが出来ました。

 そして、「治安維持法」の再来を許さない。「共謀罪」法案の廃案を、この映画を観て誓いました。

 引き続き県内で劇映画「母」の上映会が行われています。一人でも多くの皆さんがこの映画をご覧になることを念願するものです。

 映画の上映時間は、本ブログのインフォーメーションに書かれています。

 

リベラルですが、何か?

 昨日、広島市で行われた真宗大谷派仏教講演会に参加しました。

 講師は、精神科医で立教大学現代心理学部教授の香山リカさん。

 そして、シンガーソングライターであり、浄土真宗本願寺派僧侶でもある二階堂和美さんのコンサートもありました。

 二階堂さんの歌を直接聴いたのは初めてでしたが、心に響き涙が出てきました。

 今月の29日、宇部市で浄土真宗本願寺派公開法座が開かれ相愛大学教授の釈徹宗さんの講演が行われます。

 そして、なんと二階堂さんのコンサートも開かれるです。

 二階堂さんの歌を今月一気に2回聴くことができることを嬉しく思っています。

 さて、香山さんには、9月23日に宇部市で講演をいただくことになりました。

 主催は、総がかり行動うべ実行委員会です。会場は、宇部市男女共同参画センター・フォー・ユーの3階軽運動室です。

 香山さんは、人間には、自分で立ち直る力があることを講演で述べられました。

 さて、広島までの往復の電車の中で、香山さんの本を読みました。

 まず、読みかけだった「知らずに他人を傷つける人たち」(ベスト新書 2007年)。

 これは、モラル・ハラスメントに関する本です。

 私は、校区の人権教育推進委員を務めていますが、他人の人権より自分の人権を優先するハラスメントは、どこでも起こりうる問題だと痛感しました。

 次は、「いまどきの『常識』」(岩波新書 2005年)。

 「自分の周りはバカばかり」「お金は万能」「男女平等が国を滅ぼす」「痛い目にあうのは『自己責任』」「テレビで言っていたから正しい」「国を愛さなければ国民にあらず」の「常識」に香山リカさんが斬り込んだ新書です。

 この本が出されて10年以上が経過しましたが、益々、先に引用した常識が支配的になろうとしている側面が強まっているとも言えます。

 香山さんは、「これが『常識』になったとき、幸福になるのは誰なのか。たとえあなたは幸福になれたとしても、他の多くの人が幸福になれなかったとしたら、その社会ではいずれはあなた自身の幸福も失われるのではないか。」と本書で問いかけます。この問いかけの意味は、今日的に益々重要であると感じました。

 そして、講演会の帰路、JR広島駅周辺の書店で購入した「リベラルですが、何か?」(イースト新書 2016年)。

 帰りの電車で一気に読みました。

 新書の「おわりに」に香山さんの決意が述べられています。

 「私はもう誰にも遠慮せず、何にも忖度せず、自由と平和と民主主義のためジブンにできるあらゆることをやっていこう」

 この決意の元、香山さんの宇部市の講演テーマは「安保法から2年-この間とこれからを考える」です。

 9月の香山リカ宇部講演成功のために、更に、香山さんの本を読みながら、準備にあたりたと思っています。

 そして、昨日の晩から読んでいるのは、「ぷちナショナリズム症候群」(中公新書ラクレ 2002年)

 香山ファンの皆さん、お勧めの本をお教え下さい。