8月6日、「令和6年度県・市議会議員と厚南4地区連絡協議会との懇談会」が行われました。
その席で、JR山陽線の梶堀第一踏切と田草場第一踏切の拡幅移転統合について、宇部市が「現在、法指定や予算措置について、関係機関との調整を進めているところだ。今後は、JR西日本や地元関係者と具体的な協議を進めていくため、令和7年度から計画図(案)の作成等を進ていく。」と回答したことが報告されました。
8月22日、日本共産党山口県委員会は、政府の各省庁と交渉を行いました。
日本共産党山口県委員会が、政府交渉を行った写真です。
(この写真は、防衛省に要望書を提出した時のものです。)
この中で、斎藤鉄夫国土交通大臣に対し、「山陽線宇部駅と厚東駅の間の梶堀第一踏切と田草場第一踏切の拡幅移設、統合されたい。」を要望しました。
国土交通省道路局路政課の上村補佐は、「当該場所は、車の離合が困難で、通学路であるにも関わらず、歩道のない踏切であると認識している。そのため、宇部市は、梶堀第一踏切と田草場第一踏切の拡幅移転統合を進めている。今後は、JR西日本などとの協議に入ることとなるが、国交省としては、円滑な協議がすすむよう必要な支援をしていきたい。」と答えました。
また、国土交通省鉄道局施設課岡本補佐は、「JR西日本に対し、宇部市から情報提供などが行われていると認識している。JR西日本は、宇部市と、今後、正式な協議が行われれば、応じる姿勢だと聞いている。」と答えました。
私は、今後、県としても、当該踏切の拡幅のために、必要な援助を行うよう求めて行きたいと思います。
私は、26歳から宇部市議会議員を務めていますが、その当時から、当該踏切の拡幅の要望をお聞きしていました。30年を超える地域の要望が実現できるよう、地元の県議・市議の方々との連携して取り組んで行きたいと思います。
踏切の拡幅に関する皆さんの要望をお聞かせください。
20日、中国新聞は、県のパートナーシップ制度について次のように報じました。
「県は、19日、性的少数者のカップルを認定する『パートナーシップ宣誓制度』の宣誓日の予約受け付けを始めた。制度は9月1日にスタートし、宣誓を証明する受領カードなどは、県庁と、岩国、柳井、周南、山口、宇部、下関、萩市の総合庁舎の全県民局で交付する。18歳以上が対象で、一方か双方が県内在住か4カ月以内に転入予定であることなどが要件。宣誓を希望する日の14日前までに男女共同参画課に電話かメールで予約し、宣誓書、住民票、独身証明書を郵送か持参で提出する。交付当日は本人確認などの後、宣誓書の受領証と受領カードなどが渡され、宣誓が完了する。宣誓したカップルは県営住宅の入居申し込みが可能になる。いずれかが県職員の場合、事実婚のカップルと同様に扶養手当の受給や休暇取得ができる。自治体による同制度は県内では宇部市が2021年9月に導入。今年4月には山口市と阿武町でも始まっている。県男女共同参画課☎083(933)2630=平日午前9時~午後4時。」
私は、過去の県議会で繰り返し県にパートナーシップ宣誓制度の導入と県営住宅の入居や県職員の福利厚生の適用などを求めてきました。
9月1日からいよいよ山口県パートナーシップ宣誓制度がスタートし、県営住宅の入居や、県職員の福利厚生の適用などが認められる方向との報道を嬉しく感じています。
少しでも当事者の声を反映した制度になるように、引き続き、必要な発言を行って行きたいと思います。
この問題に対する皆さんのご意見をお聞かせください。
6月10日、NHK山口放送局は、山口県人権推進指針の改定作業に入ったことを次のように報じました。
「山口県は『県人権推進指針』について前回の改定から12年経過したことなどを踏まえ、性同一性障害が『医学的治療の対象となっている』という表記について『病気や障害ではなくなっている』と記述を変更するなど改定作業を進めています。山口県は平成14年に改定した『県人権推進指針』について、前回の改定から12年が経過していることや、おととし、国際的な疾病の分類で『性同一性障害』が『性別不合』に名称変更されたことなどを踏まえ、見直しを進めています。この中で、現在の指針で資料に記述されている『性同一性障害』という表現を『性の多様性に関する問題』に改めるほか、性同一性障害が『医学的治療の対象となっている』という
記述を『病気や障害ではなくなっている』と変更することにしています。県は7月に予定しているパブリックコメントで、県民から意見を募った上で最終案をまとめ、今年度中の改定を目指します。県人権対策室は『県民一人ひとりの人権が尊重される豊かな地域社会を実現できるよう、改定作業を進めていきたい』と話しています。」
この記事の後、山口県人権推進指針の改定作業が進み、現在、「山口県人権推進指針(改定素案)」のパブリックコメントが行われています。期間は、9月18日までです。詳しいことは、県のホームページを参照ください。
私は、昨年の9月県議会で、山口県人権推進指針の改定について取り上げました。
私は、WHOが国際疾病分類を改定し、性同一性障害を精神疾患から外すことを明らかにしたことを指摘し、山口県人権推進指針の改定を行うよう求めました。
藤田環境生活部長(当時)は、性同一性障害の問題をいわゆるLGBT全体を対象とした記述に見直すべき、山口県人権施策推進審議会で協議いただいているとした上で、「性同一性障害については、精神障害から除外されておりますし、このことや今年、LGBT理解増進法が施行されるなど、社会的な動きもございます。そういったことが改定の理由の一つ」だと答えました。
「山口県人権推進指針(改定素案)は、今まで性同一性障害としていた表記を「性の多様性に関する問題」に変更するとともに、これまで「医学的治療の対象」となっているとしていたものを「2022年に、国際疾病分類での名称が『性同一性障害』から『性別不合(出生時に割り当てられた性と実感する性別とが一致しない状態)』に名称変更されるとともに、分類も『精神疾患』から『性の健康に関する状態』に変更され、病気や障害ではなくなって」いるとの記述に変更しています。
私は、山口県人権推進指針に関し、性同一性障害の内容の変更を求めてきた議員として、指摘した内容が変更されていることを嬉しく思っています。
引き続き、国際レベルの山口県人権推進指針となるように、注視していきたいと思います。
20日、中国新聞は、県内19市町のうち和木と周防大島の2町が、国会議員たちの政治資金パーティーの町長の会費を公費で支出していたことが分かったと次のように報じました。
「県と県内19市町のうち和木、周防大島の2町が、国会議員たちの政治資金パーティーの町長の会費を公費で支出していたことが中国新聞の取材で分かった。支出額は2019~23年度の判明分で和木町が15万4千円、周防大島町は4万4千円だった。専門家からは『政治資金パーティー出席は公務とは言えず公費支出は不適切。首長の裁量権を逸脱している』との指摘も出ている。和木町の米本正明町長は19~23年度に10回支出した。支出先は自民党の国会議員関連と同党県連の政経セミナーの政治資金パーティー。1回に1万~2万円だった。同町は支出した理由を『町政運営を円滑に行う上で必要な支出と考えている』と説明する。周防大島町の藤本浄孝町長は21、23年度に計5回支出。自民党の国会議員の大臣就任祝賀会や国政報告会、同党県連の政経パーティーで、7千円が2回と1万円が3回だった。同町は『外部の人材との交流や情報交換の場として支出は適正と判断した』とする。両町長とも公務として参加した。2町を除く17市町と県は23年度までの5年間で首長の政治資金パーティーへの公費支出はない。内規など制定している自治体もある。山口市は交際費の基準で『支出の内容や相手が社会通念上妥当と認められる範囲内かつ必要最小限の金額になるよう努めなければならない』と定め、政治資金パーティーは当てはまらないと判断している。下松市は交際費に関する内規で『宗教、政治家・政治団体等が主催するパーティー等への会費は支出しない』としている。明文化はしていないものの『社会通念上公費で出すべきではない』(長門市)、『限られた政党への支払いに当たるので公費支出はふさわしくない』(平生町)と判断している市町もある。村岡嗣政知事は3月県議会一般質問で22年に自民党県連の政治資金パーティーに出席したことを問われ、『私個人が私費により対価を支払って出席したところであり問題はないと考えている』と答弁。今月8日の記者会見では『これまで全て私費で対応している。私費で出るのは当然だというふうに思っている』と述べ、今後も出席する場合は私費で参加する考えを示した。山口大の立山紘毅教授(憲法学)は『特定の政党や団体に偏った公費の支出や首長の引き合いは住民の利益や福祉にはならず地方自治法の趣旨に反する。税金の私物化でもあり、政治資金パーティーへの公費支出を各自治体で禁じるべきだ』としている。」
私は、2022年、23年に自民党県連が主催した政治資金パーティーについて、村岡知事に照会を行い、村岡事務所から回答を受けました。回答は、22年・23年のパーティー会費については、知事が私費で購入した、22年のパーティーに知事自身が出席したというものでした。
私は、この点を2月県議会の一般質問で取り上げました。記事にある県議会に知事にこの問題で質問したのは私です。
私は、この記事を読み以下の点を本日付けで、県総務部に照会しました。
①村岡知事が、2014年に就任以来、自身が政治資金パーティーの会費を支払ったパーティー名と会費をお示しください。
②①の内、会費は、私費で払ったのか公費で払ったのかお示しください。
③①の内、村岡知事自身が出席した政治資金パーティー名をお示しください。
④県知事等の交際費に関する内規等があればお示しください。
記事にあるように、8日の記者会見で知事は「これまで全て私費で対応している」と述べていますが、問題をクリアにするため、上記の照会を知事に行いました。
結果については、後日、報告したいと思います。
県内で、二つの町の町長が政治資金パーティーの会費を公費で支払っていたことが判明しました。
この問題に対する皆さんのご意見をお聞かせください。
18日の中国新聞は、日本原燃が使用済み核燃料再処理工場の完成目標を2年半程度延期することを発表したと次のように報じました。
「日本原燃が、使用済み核燃料再処理工場(青森県六ケ所村)の完成目標を従来の9月末から2年半程度延期し、2026年度内とする方向で検討していることが17日、関係者への取材で分かった。原子力規制委員会から工事計画の認可を得るのに時間を要しており、月内にも延期を表明する見通しという。完成延期は27回目。1993年に着工した再処理工場は、原発の使用済み燃料からウランやプルトニウムを取り出して再利用する国の核燃料サイクル政策の中核施設。97年完成の予定だったが、試運転中のトラブルが相次いだ。東京電力福島第一原発事故を踏まえた新規制基準に適合しているとして、20年7月に規制委の審査に合格したものの、耐震評価の基になる地盤モデルの作り直しが必要になるなどして完成に至っていない。核燃サイクルを巡っては、再処理待ちの中間貯蔵施設(同県むつ市)が9月にも初めて燃料を受け入れる。県・むつ市・事業者の3者は保管を『最長50年』とする安全協定を結んだが、燃料の搬出先と想定される再処理工場が完成していないため、永続的な貯蔵になるのではないかという懸念が出ている。」
私は、上関町に中間貯蔵施設の計画が浮上して、青森県六ケ所村の日本原燃のPR施設を見学し、再処理工場を近くで視察しました。
視察したことも受けて、過去の議会で、青森県の核燃料の再処理工場が完成していない中で、中間貯蔵施設に保管された使用済み核燃料の行き先がなくなるのではないかという趣旨の質問をしました。
県は、現在は、あくまでも立地の可能性に係る調査が行われている段階であることを理由に、コメントせず、核燃料サイクルに関する問題は、国の問題と答弁しました。
県が主体的に、核燃料サイクルシステムの現状分析を避けている状況です。
中国新聞が今夏、上関町民に対する中間貯蔵施設に対するアンケート結果を公表しました。アンケートの結果は、賛否が拮抗するものでした。
その上で、反対の理由の一番は、「核燃料サイクルが実現せず、長期貯蔵されるリスクがある」でした。
県は、仮にこの計画が進められ、知事同意が必要な国からの交付金を受けるかどうかの段階で、中間貯蔵施設に対する県の見解を明らかにするのかも知れません。
その時は、すでに中間貯蔵施設に対して、上関町が同意し、計画が推進される段階だと思われます。
計画段階の今だからこそ、県は、核燃料サイクルを主体的に評価し、主体的に、計画の是非について発言すべきだと思います。
青森県六ケ所村の使用済み核燃料再処理工場の完成目標が、延期されました。延期は、27回目です。この問題に対する皆さんのご意見をお聞かせください。
2002年8月17日の宇部日報に、「焦げついた夏 記憶の引き出し」というコーナーに、私の祖母の妹の当時83歳だった石川みち枝が登場しました。記事そのものを今日は紹介したいと思います。
「『不思議ですね、昨日のことは忘れても、57年前のことははっきり覚えている。暑い夏がきて、このころ(8月)になると、気持ちが高ぶります』あらつちの同人で、歌人、石川みち枝さん(83)=宇部市小野区上小野=は毎年、夏になると旧満州で体験した過酷な思い出にさいなまれる。極寒の凍土をわずかだけ堀り起こし、埋めてきた長女は誕生後100日しか生きられなかった。『夏になると、生きていたら何歳になるだろうか、と歳を数えている』とつぶやく。戦争の傷跡は痛む。夫の正春さんは旧満州電電公社奉天管理局へ勤めていた。終戦直後1945年(昭和20年)8月9日午前5時、ハルピンへ出張する正春さんの弁当をつくっているとき、臨時ニュースが旧ソ連の参戦を伝えた。正春さんはそのまま出かけたが、『奉天は決戦場になるかも知れないので、婦女子は南満の営口市へ疎開せよ』という指令が出た。全社宅の女性と子ども500人と、付き添う男性が数人、その日のうちに出発した。その時、石川さんは妊娠7か月、荷物は子どものものがほとんどで、リュックを背負い、2歳の長男は前にくくりつけた。石炭輸送汽車で南下。途中で何度も停車、やっとの思いで営口市へたどりついた。避難民のような生活、食べるものも満足になく、コウリャンめしだけだった。子どもは下痢を起こし、親が一度、かみ砕いて食べさせるという状態だった。『忘れもしないのが8月15日、暑い、暑い日だった。みんなが子どもを抱きしめ、地に伏して泣いた』と、終戦の日を思い出す。追われてくるようにしてふたたび奉天を目指すことになる。今度は徒歩による行軍。炎天と熱砂のなか、略奪を恐れ、列をつくって歩いた。8月下旬、奉天につき、正春さんと再会した。それから引き揚げる46年7月までの1年間は、食べるものも、着るものも、住むところも満足にないつらい生活を強いられた。その間には、わが子との悲しい別れがあった。石川さんは、11月に女の子を出産。しかし、わずか100日あまりの生命だった。『母乳がでなかったので、粉乳を買って飲ませた。ところがしだいに病み細ってゆき、医者に診てもらうこともできなかった。人形のようにやせ、息を引き取った。極寒の地、凍土は硬く十分に掘り返すこともできなかった』と目頭を押さえる。正春さんは戦後、宇部市役所に勤務。90年に亡くなり、13回忌をすませた。 おくり火に亡き夫偲び大陸に埋め来し吾子の齢を数ふ という歌を詠んだ。『不況とはいえ。衣食はあふれている。ところが心はかえって貧しくなっている。もったいない生活だ。朝日を迎え、夕日を送る。当たり前の生活が平和と思うようになった』としんみり語る。石川さんのつらい夏がすぎていく。」
この記事から22年が経過しています。みち枝は、90歳前後で亡くなったと記憶しています。
みち枝の穏やかで、知性を感じる語り口を昨日のように思い出します。
私の家族に関わる79年前に終わった戦争の中の記憶です。
記事を書いた記者の方に感謝します。家族の記憶が記録として残されました。
「朝日を迎え、夕日を送る。当たり前の生活が平和と思う」
このみち枝の言葉を大切に、私もこれからの人生を歩んでいこうと思います。
皆さんも79年前に終わった戦争の中での家族の記憶を記録しておられたらと思います。
戦後がこれからもずっと続きますように。