山口県が行財政改革の一環で進めようとしている公的施設の見直し問題で、様々な動きが出ています。
読売新聞の報道をもとに見ていきたいと思います。
第一は、県市長会の動きです。
読売新聞は、21日、次のように報じました。
「県市長会は20日に山口市内で開いた定例会で、県が行財政構造改革の一環で進める公共施設の見直しについて、市町と十分に協議した上で再考するよう求める要望書を、近く村岡知事に提出することを決めた。県は管理する204施設のうち、美祢市の秋吉台国際芸術村など12施設について、『廃止または譲渡』や『移管』などの方針を示す。会合では、美祢市の西岡晃市長が『唐突に県から見直しに向けた協議が始まった』と批判。県に提出する要望書には、▽県が主体となって利用者、関係者から合意を得ること▽将来に禍根を残すことがないよう対応すること▽市町にとって負担とならないように財政的な支援を講じること—などが盛り込まれた。」
第二は、美祢市文化協会の動きです。
読売新聞は、本日、次のように報じました。
「県が美祢市への譲渡か廃止の方針を示している秋吉台国際芸術村(美祢市)について、同市文化協会は22日、廃止せずに存続するよう求める陳情書を県に提出した。『芸術村は特徴ある活動を展開し、国内外から高い評価を受けている。地域の文化芸術活動の重要な場』と必要性を訴えている。松原良子会長ら4人がこの日、県庁を訪れ、松村靖・県文化振興課長に陳情書を手渡した。松原会長は『財政的な理由だけで片付けてほしくない』と主張した。」
芸術村に関しては、上原久生さんが中心になって集めておられる存続署名があります。
昨日までに、約1800人の署名が集まったことが報告されたと読売新聞は報じています。
山口県の文化度が今試されていると思います。
拙速にことを進めると、これまでの県の努力が失われ、国内外から失望を生むことになりかねません。
今回の県の公的施設の見直し提案はあまりに自治体や住民の意向をないがしろにしたものだと言えます。
今回の提案は、白紙に戻して、議論を最初からやり直すことが、民主主義の観点からも重要だと思います。
改めて、県が進める公的施設見直しについて皆さんのご意見をお聞かせください。
先日の宇部日報に紹介されていた「1日たった3分! 運動が習慣になる らっくる体操」を購入してここ数日実践しています。
9月県議会以降、決算委員会、会派視察、国会ヒアリング、諸々視察と10月、11月は、かなりハードな日々でした。
右肩と首が悲鳴をあげてきました。
ここ数日、体操を実践していますが、かなり体が楽になりました。
ユーチューブで体操の動画を見ることもでき、実践する上で、強力な手助けとなりました。
著者は、山村勇介先生。山口県生まれで、下関市で教室を持っておられます。
この本の中にこのようなくだりがあります。
「膝痛、腰痛、股関節の痛み、肩凝り、四十肩、五十肩、首の痛み・・・。これらはすべて関節の痛み、関節の不調です。こうした痛みが起こるのは、実は、筋肉・筋膜が関係しているのです。私たちの身体の骨のまわりには、筋肉のほかに、筋膜やその他の組織もあり、お互いに影響し合っているのですが、中でも最も骨の状態を左右するのは筋肉です。筋肉によって骨が収まるべき位置に保持されているのが正しいあり方です。ところが、必要以上に筋肉を使いすぎて疲れて硬くなっていたり、あるいは逆に弱くなって機能が低下したりすると、骨をきちんと保持できず、本来の正しい位置ではない場所に引っ張ってしまいます。そうすると当然、関節が正しい位置に収まりません。その結果、関節の可動域が狭くなり、動きにくくなったり、痛みが出たりします。痛みがあるのは、本当につらいですよね。痛みを取るために、整体に行ったり、マッサージ院でほぐしもらうのはもちろんいいのですが、それらは対症療法です。一時的なマッサージや整体でほぐれることはあっても、筋肉量や身体の機能的な動作は変わらないので、時が経てばまた崩れてしまいます。大事なのは、自分の身体は自分で整えていくという意識を持つことです。」
自分の身体は自分で整えていく体操が、「らくっる体操」です。
11月議会を控え、とにもかくも、体操を続けていこうと思う今日このころです。
皆さんの健康法をお教えください。
本日、山田山陽小野田市議と一緒に、宇部市と山陽小野田市堺に建設中のメガソーラーの周辺と現場を視察しました。
まず、訪れたのは、山陽小野田市側です。
メガソーラー建設用地の北西側が山陽小野田市の厚狭石束地区です。
建設予定地を源流として石束川が流れています。
建設予定地で樹木の伐採が行われ、土砂がむき出しになった状態の現地に、今年6月と8月に大量の雨が降り、大量の土砂が周辺の河川に流出しました。
その一つが、石束川水系にある井出ヶ迫溜池です。
数十センチの土砂の堆積が指摘される井出ヶ迫溜池
今日は、地元の住民の方と一緒に視察しましたが、数十センチの土砂の堆積があるのではないかと言われていました。
もう一つは、篠瀬溜池です。ここは、平成8年に竣工した県営溜池です。
数十センチの土砂の堆積が指摘される篠瀬溜池
この溜池にも数十センチの土砂の堆積があると指摘されています。
次に、船木側の銭が原にある溜池を視察しました。
来年に堆積した土砂が撤去される見通しの銭が原溜池
満水近く水を溜めた状態でしたが、黄土色に濁っていました。
その後、現場事務所を訪ね、芝浦建設の橋本建築工務部主任にお話しをお聞きしました。
現場事務所から望むメガソーラーの建設の様子
橋本主任は、「厚狭側、船木側とも工事前に交わした協定をもとに、溜池に堆積した土砂は住民と協議の元、撤去したい。まず、船木側の土砂の撤去を来年早々行う計画である。」と話しました。
更に、橋本主任は、今後の計画について「石を敷き、シートを引いて、可能なところは来年からパネルを設置する工事に入りたい。計画では、2021年5月にパネル設置工事を完了させ、2021年7月に通電させたいと考えている。」と話しました。
この問題は、9月県議会で中嶋県議が一般質問で指摘しました。
県は、「現地調査を実施し、下流への土砂流出等の対策として、沈砂池の追加設置等について、事業者に指示したところであり、引き続き、適切に指導してまいります。」と答えました。
現地では、流域の川の濁りが続いていました。
厚狭側の石束地域では、毎年、ほたるまつりが行われています。
地元住民の方々は、メガソーラーの建設による濁り水の流出で、ほたるの生息に悪影響が出たのではないかと心配されています。
視察を終え、山陽小野田市選出の中嶋県議と連携して、私としても、周辺流域に適切な対策が講じられているのかチェックしていきたいと思います。
メガソーラーは、地元石束自治会が同意しない状況の中で、林地開発が許可されました。
先日、日本共産党の政府ヒアリングの中で、林野庁の職員が、メガソーラーの相次ぐ開発の中で、新しい指針を示すと述べていました。
この辺りも含めて、周辺住民の理解の上での林地開発となるよう、山口県の林地開発許可要綱の見直しを求めていきたいと思います。
県下各地でメガソーラーの設置が進められています。メガソーラー設置に関する皆さんのご意見をお聞かせ下さい。
19日付、読売新聞「編集手帳」はこう書いていました。
「圓朝、圓生、圓歌・・・と言えば、落語の三遊亭の名跡である。継いだはなし家は伝統を損わないよう旧字体の『圓』を使うことになっている◆ところが二代目・三遊亭円歌(1964没)はかたくなに『円』の字を使い続けた。理由がおもしろい。『はなし家はどこかが抜けていないといけない』というのが持論で、なるほど圓が抜けるところがないのに対し、円は下の一本線が抜けている◆圓の字のほうもよく眺めれば含蓄がある。お金の単位の名のもとに『員』が囲まれている。政治家が後援会『員』との付き合いに、最も慎重さを欠いてはならないのがお金の絡むことだろう◆後援会会員らを招待した『桜を見る会』前日に催した夕食会について、安倍首相は参加者自身が会費を支払っていると改めて説明した。有権者を事務所費など使ってもてなした事実はないということだが、野党は衆参予算委員会での審議を声高に求めている◆たとえ資金面の問題はなくとも、慎重な催しとは言えまい。会の参加者は約800人だという。長期政権の傲りだろう。政治家はどこかが抜けていてはいけない。まして首相は。」
文中の「たとえ資金面の問題はなくとも」の部分に異議はありますが、残りの部分は、とても興味深い内容です。
今朝のしんぶん赤旗日刊紙は「主張」でこう書いています。
「安倍晋三首相の在職日数が20日で戦前の桂太郎の通算2886日を抜いて歴代最長となります。もちろん明治憲法下の戦前と主権在民が確立した戦後とは制度が違いますし、長ければいいというものでもありません。とりわけ安倍政権で際立つのは、政治の私物化です。いまの『桜を見る会』の疑惑をはじめ、『森友・加計』疑惑などはその典型です。閣僚に起用した側近政治家の相次ぐ辞任、2度にわたる消費税増税や戦後政府の憲法解釈を大転換した安保法制の強行、9条明文改憲を公言する憲法破壊策動など、モラルの崩壊と民意に反する暴走はあらわです。」
「落語・昭和の名人極めつき」No20で二代目・三遊亭円歌が登場します。
演目は、「社長の電話」「紋三郎稲荷」です。どちらも「騙す」がテーマです。
「紋三郎稲荷」の最後に、「一番怖ろしいのは人間だ」という狐の言葉が出てきます。
「桜を見る会」の領収書も明細もないという安倍首相の説明に納得いった県民は少ないと思います。
安倍首相の在職日数が、歴代最長を素直に祝えない県民も多いと思います。
これら県民の気持ちをしっかり受け止めて県議会で発言を続けていこうと思います。
安倍首相が今日、在職日数が最長となるそうです。皆さんの感想をお聞かせ下さい。
昨日に、引き続き、齋藤孝著「なぜ本を踏んではいけないのか」から印象に残ったところを引用したいと思います。
齋藤さんは、本書の39ページで「『なぜ本を踏んではいけないのか』、それは権力者が支配している目の前の世界をたった一冊の本が変える力があるからである。恐るべし本の力である。だから本は踏めないし、逆に踏ませようと思う(燃やそうと思う)人もいるのである。」と書いています。
権力者が本を踏ませようと思う(燃やそうと思う)例として、齋藤さんは、まず、秦の始皇帝による「焚書坑儒」について触れています。
「医薬や農業などの書物以外の書物をすべて焼き捨てさせ(焚書)、始皇帝に批判的な儒者を生き埋めにする(坑儒)という、思想弾圧事件だった。儒者たちが政権批判をしているとして、民衆が知恵をつけるとやっかいな事態を招くとの理由から、本を燃やしただけでなく、唱えた者たちを根絶やしにしようとしたものである。」
齋藤さんは、ナチス・ドイツにも次のように触れています。
「ナチスに扇動された学生たちが広場に集まり、『享楽的、堕落的な作家たちをドイツから追放せよ』と叫びながら、ナチズムの思想に合わないとされた2万5000冊にのぼる『非ドイツ的な書物』が焼き払われた。それらの書物には、マルクスらの共産主義的な書物、『腐敗した外国の影響』としてアメリカ人作家ヘミングウェイの作品、ファシズム批判を支援したトーマス・マンの作品、ナチスのイデオロギーを非難したレマルタの『西部戦線異状なし』、ケストナー、ブレヒトなどの作品も含まれていた。自身の戯曲のなかで『焚書は序曲にすぎなかった。本を焼く者は、やがて人も焼くようになる』と書いた十九世紀の詩人ハイネの著作も焼き払われた。」
齋藤さんの指摘は、忘れてはならない歴史的事実を明らかにするものです。
さて、目を現在の政治に向けると、安倍晋三首相主催の「桜を見る会」の問題が今日的に大きな課題になっています。
その問題の一つに、参加者名簿があります。
このことが、16日のしんぶん赤旗日刊紙に次のように書かれてあります。
「内閣府は14日の野党合同ヒアリングで、招待者名簿を5月9日に廃棄したと明らかにしました。『桜を見る会』を国会で初めてただしたのは、5月13日の衆院決算行政監視委員会での日本共産党の宮本徹議員の質問です。その質問の準備のために宮本氏が内閣府に招待者が増加した理由や選考基準などの資料を要求したのが5月9日でした。同氏の資料請求当日に内閣府が『招待者名簿』を廃棄したことになります。」
本は民主主義に置き換えます。
齋藤さんの指摘の本の部分を民主主義に置き換えて考えるならば、安倍政権は、今、民主主義を燃やそうとしているのではないかと疑いたくなる状況です。
国民主権の下で、政府の資料を破棄することは、国民の知る権利を閉ざす行為です。
それは、安倍政権が、一つの資料が目の前の世界を変える力があることを知っているからかも知れません。
安倍政権は、民主主義の前提である国民の知る権利を閉ざしてはなりません。
齋藤さんの本のこの辺りのくだりを読みながらこのようなことを考えた今日この頃です。
引き続き、齋藤さんの本から様々な問題を考えていきたいと思います。
昨日、UBE読書のまちづくりフォーラムが宇部市渡辺翁記念会館で行われました。
私は、明治大学教授である齋藤孝さんの講演を聞きました。
齋藤孝さんは、「読書力とコミュニケーション力」と題して講演されました。
見事な話術で、あっという間の1時間でした。
会場で齋藤孝さんの書籍が販売されていました。
齋藤さんの近著と思われる今年6月に発行された「なぜ本を踏んではいけないのか」を読み始めました。
序説に齋藤さんの本への想いが書かれてあります。昨日の講演の内容と通じるものでした。
齋藤さんは、「なぜ本を踏んではいけんのか」の問いに対して、「本には人格があるから」と答えています。
その理由として齋藤さんは次のように述べています。
「本には著者の生命と尊厳が込められている。著者そのものがそこに生きているようなものなので、本を踏むことは、著者の人格を踏みにじる行為なのである。」
齋藤さんは、「インターネットで情報を入手するから本はいらない」という風潮に対して次のように答えています。
「インターネットの隆盛によって、すべてを情報として見る見方がどんどん進んでいる。自分に必要な情報を素早く切り取り、それらを総合する力は、これからの社会ではますます不可欠になってくるであろう。しかし、断片的な情報を処理し総合するだけでは、深い思考力や人間性・人間力は十分につちかわれない。私は『本を読むからこそ思考力も、人間性や人間力も深まる』と考える。人間の総合的な成長は、優れた人間との対話を通じてはぐくまれる。しかし、身辺に先導者と呼ばれるような優れた人がいるとはかぎらない。しかし本であれば、いつでもどこでも優れた人と『対話』できる。その出会いが、向上心を刺激し、思考力や人間性を高めることにつながる。」
私は、齋藤さんの主張に共感します。
齋藤さんは、こうも書いています。
「紙の本はいずれ、『絶滅危惧種』になるとも言われる。しかし、私はそうは思わない。人間が生きていくには酸素が必要なように、本はこれからも私たちにとって欠くことのできない『精神の糧』でありつづけると思っている。本を読むという営みは、たんなる情報摂取ではなく、生きていくために必要な『糧』を得るためのものなのである。」
私は、齋藤さんのこの主張にも共感します。
私は、読書が生活の一部になったのは、大学生になって以降です。以来、30年以上、紙の本から多くの事を学んできました。
私は、ブログを書くようになってから、より本を読むようになったように思います。
それは、感想を書くことを意識して読んでいるからなのかも知れません。
齋藤さんの本から学び、更に、読書(紙の本)を生活の一部とし、成長していきたいと思います。
今後とも齋藤さんの著作に注目していきたいと思います。
齋藤さん昨日は、ご講演ありがとうございました。