月別アーカイブ:2017年12月

前総代長葬儀

 私が門徒総代長を務めている吉部・常光寺の前総代長・松永博孝さんが亡くなられ、本日、葬儀が行われました。

 私は、門徒総代を代表して次の弔辞を読みました。

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 常光寺 前総代長 松永博孝様は、十年の長きにわたって、常光寺の護持とご法義繁盛のためにご尽力されてきました。
 松永前総代長には、前住職の往生に続き、第十九世住職の就任と門徒会館の建設という大変な時期に、常光寺をりっぱに支えていただきました。また、日常の護持発展に寄与された前総代長でした。お寺の掃除の時、最後まで草刈り機を動かしておられた姿を昨日のように思い起こします。
 三年前に、「一規君相談がある」と前総代長からお電話をいただきました。それは、「総代長」を引き継ぎたいという相談でした。長女・公恵さんと私は、同級生ということもあり、快く引き受けることにしました。それは、前総代長に何でも相談できると思ったからです。
 ところが、今年になって、五月に前坊守様がお浄土に往生され、この度、前総代長もお浄土に往生されることとなりました。
 頼るべきお二人がお浄土に往生され、未熟な私がこれから常光寺の護持を担うことになりますが、現住職様と共に、前総代長が歩まれたご法義繁盛の道をしっかり歩んで行きたいと思います。
 十二月三日には、常光寺で「報恩講」を行いました。前総代長の奥様にもご参加いただきました。講師の正善寺・山本敬至先生から、「二河白道」(にがびゃくどう)の教えについて学びました。火の河と水の河の間にある白い道はお浄土への道です。
松永前総代長のご生涯は、お浄土への白い道を歩ませていただく人生を私たちにお示しくださったのだと、今あらためて味合わせていただいております。
前総代長のご往生にあたり、前坊守様とともに、お浄土より、今後の常光寺をそして私たちを、常にお導きくださることをありがたく思いつつ、合掌礼拝、お念仏いたします。
 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 合掌

   二〇一七年十二月七日 
       
     常光寺門徒総代長 藤本一規

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 松永さん生前は大変お世話になりました。

 お浄土から私たちを見守ってください。

 合掌

 

扉を開けて ルポ ひきこもり

 11月29日から山口新聞に連載されている「扉を開けて ルポ ひきこもり」(第4部『再起』)を読みました。

 「効率性を追い求め、困難を抱えた人を排除する」「寛容さのない世の中」が「ひきこもり」の方々を生んでいます。

 札幌市で1999年からひきこもりの人の支援を行っている「レター・ポスト・フレンド相談ネットワーク」の取り組みが紹介されています。 

 小学生の時にいじめに遭って以来、人に気に入られるよに生きてきたという20代の女性は5年間ひきこもり続けています。 

 彼女がネットワークに送った手紙の最後に「ここから出たい」と書かれてありました。

 相談者は「ひきこもりの期間は次のステップへの助走段階としてとらえ、立ち止まって自分を見つめ直す作業をしていると考えてほしい」と返事をしました。

 「沖縄 子どもの貧困白書」には、沖縄県における「子どもの貧困対策」について詳しく書かれています。

 沖縄県ではどもの貧困を「子どもの貧困は、社会が生み出した課題です。その課題を根本的に解決するには、行政が責任を持って税金を投入してしっかり対応すべき」問題だと位置付けています。

 ひきこもりの問題も社会が生み出した課題であり、行政が責任を持って対応すべき問題だと考えます。

 この観点で見ると、秋田県が2016年度から実施している「職親」事業は注目すべきだと思います。

 就労体験への協力事業所を募り、17年10月末時点で県内59か所に上ります。

 先日、「悩みを抱える子どもたち」と題する出前講座を聴きました。

 不登校は、最新データで宇部市で122人、山口県で1200人、全国で13万人に上ります。

 一人一人の子どもたちが、それぞれ年齢の段階でそれぞれの居場所を見つけることが出来る行政のきめ細かい援助が強くもとめられていると感じました。

 不登校やひきこもりについて皆さんのご意見をお聞かせ下さい。

自民政権復帰後 献金最多に

 今朝のしんぶん赤旗日刊紙は「自民党の政治資金団体『国民政治協会』(国政協)への企業からの献金が、第二次安倍政権が発足して4年連続で増えつづけ、自民党の政権復帰(2012年12月)後、最多となったことが、総務省が公開した16年政治資金収支報告書でわかりました。日本経済団体連合会(経団連、会長・榊原定征・東レ最高顧問)は、4年連続で政党の政策評価を実施。法人税減税などを放火し、自民党などへの献金を会員企業に呼びかけており、安倍政権と財界の癒着の深まりを示しています。国政協への企業献金の総額は、約19億5400万円(13年)から、約23億2400万円(16年)と、第二次安倍政権発足後から毎年増え続けています。」と報じました。

 11月30日の参議院予算委員会での小池晃書記局長の「大企業全体で内部留保を構成する利益剰余金は、2012年度から16年度にかけてどれくらい増えたか。一人当たりにするとどれだけか」との質問に対し、麻生財務相は法人企業統計に基づき、資本金が10億円以上の大企業の利益剰余金は12年の177.7兆円から16年の245兆円まで、67兆円以上増えたと答弁しました。労働者一人当たりにすると、12年の2110万円から16年2910万円の増加になっていると述べました。

 法人税減税は、4年間で、4兆円減税されました。その半分をトップ100社が占めています。法人善減税などにより当期純利益は11.1兆円増加しました。内訳は、およそ半分が内部留保(5.6兆円)として積み増しされました。残りの約半分が各部式の配当金(2.8兆円)や、自社株の消却(2.1兆円)に使われました。従業員の給与に回ったのはわずか3千億円、3%程度にすぎません。

 法人税減税を行ったことを評価して、財界が自民党に献金する。

 法人税減税は、労働者の賃上げに回らず内部留保に消える。

 内部留保の一部が献金には回るが労働者に回らない。

 財界が自民党に献金による政策誘導をしている。

 このような現状を放置していいはずがありません。

 経団連は、今年の政策評価で、消費税10%への増税などを要望し、今後の課題として法人税25%まで引き下げることを求めています。

 財界の自民党への献金による政策誘導が更に進めば、更に消費税が上がり、法人税は減税され、法人税減税による税収減を消費税増税で穴埋めするかっこうになります。

 法人税減税は、労働者の賃金を上げないだけではなく、消費税増税を誘発します。

 そして、消費税を上げても、法人税減税の穴埋めとなり、社会保障の財源にはならないことも明らかです。

 財界いいなりの政治を転換していかなければなりません。

 小池書記局長は質問で「内部留保を賃上げに回す。正社員の雇用を増やす。下請け中小企業にきちんと代金払う。法人税の減税をやめて能力に応じた負担を求める。そのことで社会保障の財源をつくり、財政再建の道も開く。これこそが経済の好循環だ」と日本共産党の経済再生の提案を紹介しました。

 日本共産党は、この提案を国民の皆さんとともに実現していきたいと思います。

 財界の自民党への献金が年々増えています。

 皆さんはこの状況をどうお考えですか。お教え下さい。

記憶の澱

 今朝の深夜に放送されたNNNドキュメント‘17 山口放送制作「記憶の澱」を観ました。

 この番組は、今年の日本民間放送連盟賞「テレビ報道番組」部門最優秀賞と放送文化大賞グランプリをダブルで受賞しました。

 この番組を手掛けた山口放送の佐々木聰さんが、2日(土曜日)のしんぶん赤旗日刊紙の「ひと」のコーナーに登場されています。

 この番組は、「戦時下の性暴力や民間人の殺害・・・。体験者の証言を集めて反戦を訴えるドキュメンタリー」です。

 佐々木さんは、「ひと」の中で「苦しい戦争体験を語ってくれた人たちが、『取材に協力できてうれしい』と喜んでくれたことが何よりです」「想像以上の証言が寄せられたのは、『いま言わなければ何も残らない』というみなさんの使命感でした」「戦争はメディアが取り組まなければならない大きなテーマ。今回の受賞で『もっと続けろ!』と背中を押された気がします」と語っています。

 佐々木さんには、「戦争」を扱うドキュメンタリーを更に作っていただきたいと思います。 

 同じ山口県ですので、佐々木さんのお話しを直接お聞きしたと思いました。

 私は、「記憶の澱」を観て、97才の近藤一さんの涙が最も印象的でした。

 近藤さんが涙を流したのは沖縄戦での思い出でした。

 「20代前半の兵士が、アメリカ軍の戦車の下に爆弾を投げ込む攻撃をする。日本兵は10人が10人が亡くなった。これが沖縄戦だ。」という趣旨の話しをしながら近藤さんは慟哭します。

 もう一つ印象に残ったのは、岐阜県の黒川集落から満州の開拓団として入植して、終戦時、ソ連兵に対し「性接待」を強いられた和子さんが遺した歌です。

 一つは、「次に生まれときは平和の時に生まれたい 花咲く青春をつづりたい」という内容の歌です。

 もう一つは「侵略した開拓団 王道楽土を夢見て過ごした日々が恥ずかしい」という内容の歌です。

 中国戦線で、ある集落の掃討作戦に参加した鹿田さんの言葉も忘れられません。

 「中国人がかわしそうだという気もはない。彼らを人間だと思ったら戦えない」

 人間を獣にしてしまうのが戦争だということが鋭く伝わるドキュメンタリーでした。

 戦争を実際に体験した方が、90才前後になられています。

 佐々木ディレクターの戦争を取り扱った新しいドキュメンタリーに大いに期待しています。

 佐々木ディレクターすばらしい番組をありがとうございました。

 皆さんも是非、「記憶の澱」をご覧ください。

 

 

美祢市木喰仏ツアー(パート2)

 12月1日、兵庫県川辺郡猪名川町の浄土宗天乳寺下條住職と一緒に、美祢市の木喰仏を訪ねて回りました。

 昨日は、美祢市秋芳町の木喰仏6体を巡った様子を報告しました。

 今日は、美祢市美東町の木喰仏4体を巡った報告をします。

 寛政9年7月7日から8月15日まで閏7月を挟み約2カ月、木喰上人は、秋芳町広谷に滞在します。

 そこで、少なくとも6体の仏像を彫り、木喰上人は、8月15日、広谷を立ち、8月16日から9月7日まで、美東町北河内の薬師堂で、少なくとも4体の仏像を彫ります。

 まず、北河内公会堂で保存されている日光菩薩立像と月光菩薩立像です。

 日光は、左手に日輪を奉持し、右手で左裾を執っています。

 月光は、右手で月輪を奉持し、左手で右裾を執っています。

 美東町史にも内田伸氏の著作にも日光像に「月廿三日成就ス」との文字が残り、月光像に「月廿 日成就ス」とあると書いてあります。

 1日、に下條住職と確認したとろこ、23日に成就すと読み取れるのは、月光像の方ではないかと思われました。

日光月光

 月光像の裏に23日の文字が読み取れます。

 内田氏の著作を美東町史が踏んだのか、専門家による鑑定をお願いしたいと思います。

 いずれにしても、北河内公会堂に安置されている日光像・月光像は、木喰上人が、北河内薬師堂滞在中の8月23日頃に完成させた仏像であると思われます。

 長登福永家の釈迦如来坐像は、9月4日に成就すと書いてあります。これも北河内薬師堂で彫ったものだと思われます。

 福永家は絵堂にあり、絵堂にあったと思われる法香院から、分家を許された時にこの木喰仏を頂いたとの口伝が残されています。

 北河内と絵堂なら距離も近いので、北河内の木喰仏が渡されたことにリアリティがあることが分かりました。

 大田地蔵院の弘法大師像について内田伸氏は「寛永9年、地蔵院の住職が広谷に滞在して仏像を彫っていた木喰に依頼して、作ってもらったものと思われる」と書いています。

 地蔵院である美東町有形文化財にした時の説明版には「北河内薬師堂で、20日間、滞在して4体を彫刻した内の一つ」と書いてありました。

 彫刻の部材に注目すると、北河内の日光・月光、福永家の釈迦、そして大師は、みな「タブ材」なのです。

 大田の地蔵院は、むしろ北河内に近く、大使像は、広谷で製作されたのではなく、北河内で製作したのと思われます。

 下條住職と改めて美祢市の木喰仏を巡り、新しい発見が多数ありました。

 下條住職が住んでおられる猪名川町には、26体の木喰仏があります。町の教育委員会が独自のパンフレットを作り広報を行っています。

 また、町の音頭で、「稲川木喰会」が結成され、地域内の木喰仏を検証したり、各地の木喰を巡る活動をされているそうです。

 山口県にも53体の木喰仏が現存しています。各地域での広報資料や顕彰会の確立及び県レベルでの木喰仏の広報資料の作成が求められていると思いました。

 下條住職から、昨年10月から12月に浜松市博物館で行われた「遠江(とうとうみ)の木喰仏」展の図録をいただきました。

 浜松市周辺の木喰仏を展示する特別展を開催した様子がよくわかりました。

 山口県でも、昭和45年に、県内の木喰仏を集めた展示会が行われたようです。

 その時に、県内の木喰仏の調査も行われ、福永家の木喰仏が掘り起こされたようです。

 前回の展示会から半世紀が経過しようとしています。

 山口県でも博物館が展示会の開催を決め、県内の再調査を行う時期ではないかと思います。

 下條住職から「藤本さん山口県でも木喰仏の調査を続けてください。」と励まされました。

 美祢市の木喰仏を再度めぐることで新たな発見も多数ありました。

 これからも、美祢市だけでなく、他の地域の木喰仏を少しづつめぐり調査と記録を取っていきたと決意を新たにしました。

 また、少しづつ他の地域の木喰仏愛好家の方との交流も深めていきたいと思います。

 年内外の木喰仏愛好家・研究家の皆さんご意見をお聞かせ下さい。

 

 

美祢市木喰仏ツアー(パート1)

 私は、2015年に浄土真宗本願寺常光寺の責任役員を就任し、仏教の勉強を少々続けてきました。

 2015年9月に島根県立石見美術館で行われた「祈りの仏像」を見学し、その中に、木喰仏8体がありました。

 8体の内、5体が、私が住む宇部市極楽寺の木喰仏でした。

 その後、木喰仏の県内での足跡を調査する中で、山口県内に木喰仏が53体程度あることが分かりました。

 山口県は、現存する木喰仏が新潟県、静岡県に次いで多い県であることが分かりました。

 木喰上人が、九州の国分寺の僧侶をやめ一遍路になり、移動しながら、その地域で木喰仏を残していきます。

 その始まりが、山口県であることも分かっています。

 木喰上人は、「千体」の仏像を彫ることを誓いますが、その最初が、美祢市秋芳町の広谷滞在中に彫った仏像です。

 その仏像が、福王田観音堂に残っています。

 さて、美祢市内の木喰仏を調査した内容を昨年4月、全国木喰研究会の機関誌「微笑佛」に発表しました。

 先日、私の文章を読んでいただいた、兵庫県川辺郡猪名川町の浄土宗天乳寺の下條一弘さんから「美祢市の木喰仏を観させていただきたい」と電話が入りました。

 そして、昨日。下條住職とともに美祢市内の木喰仏を一気に見学しました。

下條住職と

 最後に訪ねた大田地蔵院(右が下條住職)

 木喰上人が美祢市に滞在していたのは、寛成年間、80才の頃です。

 猪名川町に木喰上人が滞在したのは、93才の頃、約3カ月で33体を彫り、天乳寺には3体があります。

 下條住職に多くの教えをいただきながら、木喰上人が、千体の仏像を彫ることを最初に誓った広谷・福王田に向かいました。

 木喰上人は広谷には約2カ月逗留して、6体の木喰仏を彫っています。

 その内、3体は、福王田観音堂に安置されています。

 残りの3体は広谷の毘沙門堂に安置されています。

 観音堂で一番大きい像は、「如意輪観世音大士座像」であり、毘沙門堂で一番大きい像は、毘沙門天像です。

広谷毘沙門堂

毘沙門堂で一番おおきい像は毘沙門像でした。

 下條住職は、「観音堂では観音像を毘沙門堂では毘沙門像を一番大きく作っている。地元からの要請にこたえて木喰上人が仏像を作成したことがうかがえる。」と解説しました。

 また、毘沙門堂の不動明王立像の左手は、棒を持った痕がありました。毘沙門天立像の兜の上には、飾りを埋めた痕が残っていました。下條住職は、「不動明王は何らかの金棒を持っていたのだろう。毘沙門天立像の兜には頂点に飾りがあったのだろう。」と解説しました。

毘沙門兜

 福王田観音堂の毘沙門像の兜の上の痕

 下條住職と一緒に見学することによって、今まで分からなかった新たな発見が多数ありました。

 美祢市美東町北河内で彫った4体の木喰仏のことは明日以降のブログで紹介していきます。

 木喰仏への想いをお聞かせ下さい。