今村雅弘復興相は25日、東京都内のホテルで開かれた自民党二階派のパーティーで講演し、東日本大震災について「(社会資本の毀損も)25兆円という数字もある。これは、まだ東北で、あっちのほうだったからよかった。これがもっと首都圏に近かったりすると、莫大な額になったと思う」などと暴言を述べました。今村氏は、同日夜、辞任の意向を固めました。
今村氏は4日の閣議後の記者会見で、東京電力福島第一原発事故の自主避難者の帰還について「どうするかは本人の責任」「(不服なら)裁判でもなんでもやればいい」などと発言し、非難を受けていました。
22日、作家の柳田邦夫さんは、毎日新聞の自らのコラム「深呼吸」で、今村復興相の4日の記者会見での発言の問題点を指摘しました。
今村大臣の発言の内、「(自主避難者に関する国の姿勢についての質問に対し)「一応の線引きをして臨んだできたわけだから、そこの経緯は分かってもらわないといけない」について、柳田さんは次のように指摘しています。
「住んでいた家の近くだけでなく、周辺の道路沿いや森林や山や川辺などの汚染状況はどうか、幼い子供が毎日のびのびと遊んでも心配ないのか、医療・保健・保育・教育などの地域の事情に不安はないのかといった、さまざまな個別事情に対する実情の把握も対応もなく、自主避難者に対し「一応の線引きをして臨んできた」のだから「あとは自己責任で」というのは、まさに「線引き主義の無慈悲」だと言わざるを得ない。」
今村大臣の発言の内「(不服があれば)裁判でも何でもやればいいじゃないか」について、柳田さんは次のように指摘しています。
「『裁判でも何でもやればいい』というのは、権力者の高慢、居直り以外の何ものでもない。裁判で決着がつきまでには、10年、15年という歳月を待たなくてはならない。その間に大臣の役人も相当が代わり、どんどん出世していくが、一方の被害者は何年も耐え忍び、判決を聞けずにあの世に旅立つ人たちが続出する。それが、これまでの公害、労災などの判決でみられた現状だ。」
柳田さんは、最後にこう書いています。
「『裁判でも何でも』という言葉が、被害者支援にあたるべき国の責任者、しかも東京大学法学部卒業のエリートから出てくる。そればかりか、最高責任者の首相が、その大臣に引き続き被災者支援の責任者をさせる。これがこの国の知性と政治的モラルの現実なのだ。」
安倍首相は、再びの暴言で、ついに今村復興相を更迭したようです。
「この国の知性と政治的モラルの現実」が問われる大臣の失言は、今村氏だけではありません。
安倍首相は、他の失言大臣は続投させるのでしょうか。首相の任命責任は引き続き問われています。
今村復興相が再びの暴言で辞任するようです。この問題を皆さんはどう丘’替えですか。お教え下さい。
香山リカ著「半知性主義でいこう」の中に、香山リカさんも呼びかけ人の一人である「安全保障関連法案に反対する立教人の会」の活動が紹介されています。
2015年7月に「安全保障関連法案に反対する立教人の会」が発足し、「もう二度と、学生たちに武器を取らせず、戦地に赴かせないために、私たちは、安全保障関連法案を廃案にすることを求めます」と題した声明が出されました。
その中に、「私たちの立教大学は、太平洋戦争中の1942年9月に、創立以来のキリスト教主義による教育から皇国の道による教育に教育理念を変更し戦争に協力し、多くの学生を戦地に送り出したという歴史を持っています。その罪責の自覚のもと、戦後70年間、立教大学・立教学院はキリストの伝える平和に根ざした教育と研究を探求してきました。」という箇所があります。
「立教学院史研究」創刊号には、次の文章があります。
「初めての神式慰霊祭からおよそ4カ月後の1943年10月、大学と文科系学生に認められていた徴兵猶予の特典が停止、多くの立教大学の学生たちも出征を余儀なくされ、12月初旬に陸海軍に入営・入団していった。この頃になると、立教関係者の戦死の悲報も激増する。1944年の慰霊祭もまた前年同様、神式によるものだったが、式典は11月11日午後2時に始まり、空襲警報の発令を気にしながら、戦没者33名とその遺族に対して哀悼の意が表された。」
香山さんは、以上を引用した後にこう書いています。
「いつの時代の戦争であっても、それは『善と悪』『正義と不義』といった一般論で語られるようなものではなく、そこにはひとりひとりの人間がおり、その分だけの物語がある。またその人たちにはそれぞれの家族や恋人がいて、そこにも人の数だけの物語がある。それを力づくで奪い合い、破壊し、大きくゆがめるという理不尽な暴力のめまいがするほどの集積、それが戦争というものなのだ。」「そんな戦争に、自ら仰ぐ宗教や理念を捨ててまでも加担して、学生を送り出した。その意味で、ミッション系大学の罪は大きい。ここで今回の安全保障関連法に声をあげないのは、『あの過ちを反省していないのか』と取られても仕方ないだろう。」
信楽峻麿著「親鸞はどこにいるのか」にこう書かれてあります。
「真宗の根本聖典である『無量寿経』には、『兵戈無用』と教説され、軍備ももってはならない、戦争してはならないと、厳しく教えています。にもかかわらず、東西本願寺教団は、このアジア・太平洋戦争に全面的に賛成し、教団を挙げて率先協力したわけで、まさしく仏法を裏切るという、重大な罪科を犯したわけであります。」
「自らが仰ぐ宗教や理念を捨てて」多くの宗教団体が戦争に賛成し、若者を戦場に送ることに加担した歴史があったことを私たちは忘れてはなりません。
私は、仏教を学ぶ一人として、その歴史を繰り返してはならないと香山さんの本を読んで感じました。
日本海に向かっている米空母カールビンソンを中心とする空母打撃群と海上自衛隊が共同訓練を行っています。
この状況を安倍首相は「高度な警戒監視体制」と表現しました。
北朝鮮をめぐる状況を戦争に発展させない努力が世界に求められています。
二度と戦争を繰り返さない連帯が国内でも求められていると思います。
北朝鮮をめぐる情勢や、二度と戦争を繰り返さないというあなたの想いをお教え下さい。
19日付毎日新聞に、元内閣官房副長官補の柳沢協二さんが、北朝鮮問題についてコメントを寄せています。
まず、トランプ政権についての懸念としてこうコメントしています。
「今は北朝鮮ではなく、米国が『瀬戸際外交』をやっている。戦争のリスクで相手を威嚇し、望む譲歩を引き出すというものだ。だが、瀬戸際外交には前提として①相手が譲歩する見通し②譲歩が得られず武力行使を行った場合の結果に対する見通し-が必要だ。見通しもなく武力を前面に出して成功した例はない。」
今朝の読売新聞は、「海上自衛隊と米海軍は23日、海自の護衛艦と、朝鮮半島周辺海域に向けて公開中の原子力空母『カール・ビンソン」など米軍の空母打撃群が同日、西太平洋のフィリピン海で共同訓練を始めたと発表した。」と報じました。
柳沢氏は、この共同訓練実施について「危機的な状況で、共同訓練を行えば『北朝鮮への威嚇に日本も加担する』という政治的な意思表示になる。北朝鮮が暴発したらどうなるか。日本は専守防衛に徹するべきだ。」と指摘しています。
柳沢氏は、最後に「北朝鮮の核兵器は今や体制の最後のよりどころであり、軍事力による威嚇をすれば、余計に核に固執するだろう。むしろ、核に代わる体制の保障を考える必要がある。核保有を止められないなら核を使う動機を押さえるのだ。核技術の拡散を防ぎ、資金の流入を防ぐ包囲網を強化しながら、対話の機運を待つ。相手が危機を演出する時こそ忍耐が必要だ。」と指摘しました。
北朝鮮への先制攻撃は1994年、クリントン米政権かで一歩手前までいったことがあります。
クリントン政権はこの時、朝鮮半島で戦争が起これば、最初の90日間で米軍5万2千人、韓国軍49万人の死傷者が発生、ベトナム戦争などの経験に基づけば米国人8万人~10万人を含め100万人が死亡-などという予測をしていました。当時の金泳三韓国大統領は、クリントン大統領との電話で、米軍が戦争を始めても韓国軍は一人たりとも動かさないと猛烈に反対したことを後に明らかにしています。
韓国で現在行われている大統領選挙で主要5党の候補者全員が先制攻撃反対を表明しています。
このような中、安倍首相が米国の体制を手放しで評価し、海上自衛隊が米空母と合同演習をする事態は極めて危険です。
柳沢氏は、前述の毎日新聞へのコメントで、北朝鮮の攻撃対象は「日本や韓国の米軍基地になる。」とも指摘してます。
山口県には、米軍岩国基地があります。
国際社会が一致して対話を通じて北朝鮮問題を平和的・包括的に解決していくことが何より重要です。
まさに、「日本 いまは忍耐の時」です。
海上自衛隊と米空母が訓練を開始しました。皆さんはこの状況をどのようにお考えですか。
北朝鮮問題に対する皆さんのご意見をお聞かせ下さい。
香山リカさんの「半知性主義でいこう」を読んでいます。
この中に、アメリカの精神医学者ナシア・ガミー氏が指摘する「傲慢症候群」の内容が書かれてあります。
「傲慢症候群」の特徴は以下の通りです。
①自己陶酔の傾向があり、「この世は基本的に権力をふるって栄達をめざす劇場だ」と思うことがある。
②何かするときは、まずは自分がよく映るようにしたい。
③イメージや外見がかなり気になる。
④偉大な指導者のような態度をとることがある。話しているうちに気がたかぶり、我を失うこともある。
⑤自分のことを「国」や「組織」と重ねあわせるようになり、考えや利害もおなじだと思ってしまう。
⑥自分のことを王様のように「わたしたち」と気取って言ったり、自分を大きく見せるため「彼は」「彼女は」などと三人称をつかったります。
⑦自分の判断には大きすぎる自信があるが、ほかの人の助言や批判は見下すことがある。
⑧自分の能力を過信する。「私には無限に近い力があるのではないか」とも思う。
⑨「私の可否を問うものは、同僚や世論などありふれたものではない。審判するのは歴史か神だ」と思う。
⑩「いずれ私の正しさは歴史か神が判断してくれる」と信じている。
⑪現実感覚を失い、ひきこもりがちになることがある。
⑫せわしなく、むこうみずで衝動的。
⑬大きなビジョンに気をとられがち。「私がやろうとしていることは道義的に正しいので、実用性やコスト、結果についてさほど検討する必要はない」と思うことがある。
⑭政策や計画を進めるとき、基本動作をないがしろにしたり、詳細に注意を払わなかったりするので、ミスや失敗を招いてしまう。
香山リカさんは、「安倍総理に明らかな⑤の『自分を国家と同一化している』という傾向と、⑦の『自分に批判的な意見を軽視、軽蔑する』という傾向」があると指摘しています。
今朝のしんぶん赤旗日刊紙に安倍政権の閣僚らの暴言・問題行動が日替わりメニューのように相次いでいることが取り上げられています。
「今月に入ってからだけでも、今村雅弘復興相、鶴保庸介沖縄北方相、山本幸三地方創生相が、原発事故の自主避難者や沖縄県民、学芸員らを突き放し、侮辱し、居直る暴言を繰り返してきました。政権を構成する大臣政務官も女性問題などで辞任しています。」
安倍内閣全体に、「傲慢症候群」が蔓延している状況ではないでしょうか。まさに、「傲慢内閣」と言える状況です。
香山さんはこう書いています。
「問題はリーダーが傲慢症候群に陥った場合、その人による統治は必ずと言ってよいほど破綻して終わる、ということだ。その計画は本人の思考力などを超えた総代なビジョンになっているため、すでに現実不可能であり、実行に移そうとすると必ず失敗するからだ。つまり、傲慢症候群は本人にとってというより、組織や社会を『死に至らしめる病』なのである。これは、一刻も早く手を打たなければならないだろう。」
日本共産党の志位和夫委員長は記者会見で、「モラル崩壊がトップから引き起こされて、内閣全体に及んでいる」と指摘しました。
安倍内閣によって社会が死に至る前に、安倍政権を退陣に追い込んでいきましょう。
香山さんの「半知性主義でいこう」を読みながら、決意を新たにしました。
香山リカさんを総がかり行動うべ実行委員会でお呼びする計画を検討しています。
安保法制強行2年目にあたり、今秋に、宇部市で香山リカさんを講師にして学習会を行うことを計画しています。
詳細が決まりましたら、本ブログに掲載します。こうご期待下さい。
香山さんの本は分かり易く、しなやかに、鋭く社会を問題点を炙り出しています。
秋の講演会までに一冊でも多く、香山さんの著作に触れたいと思っています。
21日付朝日新聞に「小さないのち 大切な君」という特集記事が掲載されていました。
記事は、「警察庁の統計によると、2016年、320人の小中高校生が自殺で亡くなった。小学生12人、中学生93人、高校生215人。3分の2は男子だった。自殺者全体の数は03年の3万4427人をピークに減少傾向で、16年は2万1897人。06年施行の自殺対策基本法に基づく、相談窓口の整備などが背景にあるとされている。一方、小中高校生の自殺者はこの10年、年間300人前後で推移し、350人を越えた年も。厚生労働省によると15~19歳では自殺が死因の1位、10~14歳では2位だ。16年の小中高生の自殺の原因(複数の場合あり)を警察庁の統計でみると、『学業不振』など学校問題が36.3%、『親子関係の不和』など家庭問題が23.4%。『うつ病』など健康問題が19.7%。いじめが原因とされたのは6件(全体の1.9%)だった。」
20付読売新聞に経済協力開発機構(OECD)が、2015年に行った国際学力到達調査「PISA」の結果と各国の高校生の生活について聞いた調査結果を公表した記事が掲載されていました。
私が注目したのは、次の部分です。
「今回は、テストへの不安感についても尋ねた。日本は『学校で悪い成績を取るのではないかと心配になる』生徒が81.8%でOECD平均より16.1ポイント高かった。『難しいのではないかと心配になる』生徒もOECD平均より18.8ポイント高い78.1%だった。」
私は、小中学生の自殺が減らない一つの原因として、テストへの過度なストレスが日本の子どもたちを追い込んでいることがあるのではないかと感じました。
日本の子どもたちがこのような状況にあるにも関わらず、文部科学省は18日、全国の小学校6年生と中学3年生全員を対象に、国語と算数・数学の2強化で全国学力テストを実施しました。
文部科学省は、14年度からは、それまで禁止だった学校別平均点の公表を解禁し学校の序列化を加速しました。今年度からは各政令指定都市の平均点も公表することにしています。点数アップが最重要課題であるのうに文部科学省が指導しています。
先日、ある学校関係者から「平均点の公表は、プレッシャーになっている。」旨の声をお聞きしました。
全国学力テストは、2007年に第一次安倍内閣のもとで始められ、回を重ねるごとに点数教育を劇化させ、教育をゆがめているのではないでしょうか。
抽出調査で済む学力テストを全員対照で実施し、学校別平均点を公表し、競わせることは、子どもにとっても教師にとっても有益なことなのか、今一度立ち止まって再検証する時だと思います。
年間50億~60億円が使われている全国学力テストを廃止すれば、35人学級の完全実施が可能です。
子どもたちの自殺が減らず、子どもたちが、テストへの不安感を高めている日本の状況の中で、更に子どもストレスを高める全国学力テストが必要かどうか、再検討すべきです。
「点数対策」に子どもと教師をへとへとにさせるだけの「学力テスト」になっている現状なら廃止する方がいいと私は思います。
子どもたちの自殺が減りません。皆さんはどうお考えですか。
日本の子どもはテストへの不安感が国際調査で高い傾向です。どうお考えですか。
全国学力調査は今後も行うべきでしょうか。
皆さんのご意見をお聞かせ下さい。
今朝のしんぶん赤旗日刊紙に「朝日訴訟」の事が書かれてありました。
大学で福祉を学んだ私にとって、政治家として歩む私にとって「朝日訴訟」の浅沼判決は、生きる道標のような存在です。
朝日茂さんは、1957年に、医療扶助と日用品費として月600円の生活保護をうけていました。
福祉事務所は35年も音信不通だった兄を探し出し、月1500円の仕送りを約束させ、朝日さんに対する生活保護を打ち切り、仕送りの残りの900円を医療費の一部として国に納入する決定を下しました。
朝日さんは、国に対して訴訟を行い、1960年、第一審判決が下されました。
その判決が、裁判長の名を取り「浅沼判決」と言われています。
「人間裁判」の中で、二宮厚美さんは、この判決の意義をこう書いています。
「第25条の生存権を抽象的な権利にとどめず、国民の具体的な保護請求権を認めたものとして、解釈し、したがって国家は国民に健康で分解的な生活を保障する義務がある、と判決したことである。生活保護は第二五条を死文化させない、画餅に終わらせないために、健康で文化的な最低限度の生活を保障する水準でなければならないことになる。朝日さんは、これを『憲法二五条の勝利」とよんだ。」
「生存権保障に対する財政的制約論、国家財政均衡論を退けたことである。浅沼判決は、最低水準の判決は、その時々の予算配分によって左右されるべきものではなく、むしろ予算そのものが最低生活保障の水準によって『指導支配すべきもの』、すなわち導きだされるべきものだとした。予算が生存権を制約するものではなく、逆に生存権が予算を制約する、というわけである。憲法体制下の財政民主主義のあり方をきわめて明確に指摘した判決だといわなければならない。」
今日の安倍政権による社会保障切り捨て路線は、浅沼判決に反していると言わなければなりません。
浅沼判決が活きる社会に、憲法25条が活きる社会にしていきたいと決意を新たにした朝でした。
社会保障の改悪に対する皆さんのご意見をお聞かせ下さい。