月別アーカイブ:2013年2月

上関原発埋立免許延長申請から4ヶ月

 今日、原発をつくらせない山口県民の会の役員会が行われ、私は、代表委員の一人として参加しました。

 本日の会議で、昨年10月5日、中国電力が、上関原発建設計画に係る公有水面埋立免許の延長申請を提出して、今日で4ヶ月になろうとしている問題が議論されました。

 私は、この問題に関して、まず、審査期間を定める規程について報告しました。

 この間、山口県の規程について調査してきたところ、県から「平成6年9月27日に学事文書課が明らかした『許認可等事務の標準処理期間に関する規程』」に基づいているとの回答がありました。

 この規程に基づく一覧表によって「公有水面埋立の出願事項の変更の許可の標準処理期間」が32日と定められいます。

 規程の4条3で標準処理期間に含まない日数の例が列挙されています。

 (1)として「申請に係る書類の不備の補正その他申請者への照会等に要する日数」とあります。

 山口県は中国電力に対し、どのような書類の不備を照会しているのか内容を明らかにすべきです。

 県が1月4日に、中国電力に対して行った「設計概要変更・工事竣功期間伸長許可申請書及び添付図書に関する補足説明について」とする文書を先程入手しました。

 これは、情報公開請求によって入手した文章で、具体的な内容は黒塗りですが、項目だけは明らかになっていますので一部紹介します。

 1、工事竣工期間伸長許可申請に関する事項

 (1)指定期間内の工事を竣功できなかった理由について

 (2)指定期間内竣功を阻害した要因の解消の度合及び新たな指定期間内に確実に竣功できることについて

 (3)埋立を継続して行う必要性について

2、設計概要変更許可申請に関する事項

 (内容は全て黒塗りです。)

 この文書は、県が、3回目の説明を中電に求めた内容です。この後に及んで指定期間内に工事を竣功できなかった理由をなぜ質問するのか疑問は深まるばかりです。

 私は改めて、中国電力が県に提出した設計概要変更・工事竣工期間伸長許可申請書の写しを見ました。

 設計概要変更の内容は、埋立地の地盤を高くするものです。

 理由は、福島原発事故の津波による影響を勘案したとしています。

 工事竣工期間伸長については、着手してから3年以内を6年以内にするものです。

 理由は、改めて工程を精査した結果としています。

 中国電力が福島原発の事故を受けて、地盤を高くして、3年間竣功の時期をずらす申請をしたことに対して、振り返って様々な資料に目を通せば通す程、県は、審査になぜ4ヶ月もかけているのか理由が全く分からなくなります。

 それは、本ブログで、度々取り上げていますが、県のスタンスは明白だからです。

 国のエネルギー政策が不透明な中、土地利用計画が不透明なので、不許可だとする県のスタンスからすれば、国の政策判断に進展がない今日において、中国電力が、どのような申請書を出そうが、不許可の結果しかないことは明らかです。

 引き延ばせば引き延ばすほど、県民に説明が出来なくなります。

 本日の役員会で、二つの事を決めました。一つは、山本知事へ、中国電力に対する埋立免許の延長申請を不許可にするよう求める要請ハガキを出す取組をはじめようということです。

 二つ目は、県の中電への4回目の説明要求を受けて、改めて埋立免許延長申請の不許可を求める県への申し入れを会として行うことです。

 二井知事だったらここまでもつれていたのかと考えてしまいます。

 山本知事が二井知事の判断を継承するというなら、県が中国電力に5回目の説明を求めることは考えられません。

 朝日新聞でも読売新聞でもこの問題が、全国面で取り上げられています。

 県内外の皆さん、この問題をどうお考えですか、皆さんのご意見をお聞かせ下さい。

いちばん長い夜に

 以前のブログでも書きましたが、NHKでドラマになっている「いつか陽のあたる場所で」の原作シリーズを読んでいます。

 原作との違いなどを確認しながらドラマを楽しんでいます。

 一作目「いつか陽のたる場所で」を読んで、「すれ違う背中を」を先日読み終え、今日書店で最新刊の「いちばん長い夜に」を購入しました。

 原作者である乃南アサさんによる「あとがき」を読みました。

 原作が執筆され足かけ7年。この本でこのシリーズが終了するとのことでした。

 そして、2011年3月11日、乃南さんと編集者の方は、主人公の江口綾香の暮らしていた地域としている仙台を取材中だったそうです。

 午後2時46分、巨大地震に見舞われたそうです。

 その様子は、もう一人の主人公芭子の体験として、この本で登場するようです。

 東日本大震災からもうすぐ1年11ヶ月。2年を迎えるのももうすぐです。

 私は震災後の岩手県宮古市やその周辺にボランティアで尋ねたことを想い起こします。

 綾香と芭子の暮らしを追いながら、「いちばん長い夜に」で乃南さんの震災体験をも追体験したいと思います。

 被災者の方々と綾香と芭子に幸あれと祈りながら、シリーズ完結作「いちばん長い夜に」を読み始めようと思います。

2013年宇部市新春のつどい

 本日、2013年宇部市新春のつどいが行われ、市内各地から200名を越える市民が集いました。

 藤井直子参院補欠選挙予定候補者は「市議会議員時代、周南市で国民健康保険を値下げさせる活動に取り組んできた。今度は、国民の暮らしを良くするため国政で活動したい。」と決意表明を行いました。

 着物姿であいさつを行う藤井直子参院補選予定候補

 来賓として、建設山口から吉村宇部支部長、医療生協健文会から馬場専務理事、宇部民商から竹沢副会長があいさつを行いました。

 宇部市の県議・市議を代表して私が、「基地と原発のない山口県をつくるために国政を変えよう」と訴え、先の総選挙で中国ブロック候補としてたたかった石村智子さんが「総選挙では残念だったが、国政改革の課題は益々鮮明になっている」と参議院選挙での支持を訴えました。

 宇部市の県議・市議を代表して新年のさいさつを行う

 2部のアトラクションでは、私も参加している「新極真会山口中央支部」による演武などが披露されました。

 私は、下段蹴りによるバット折りを披露しましたが、見事成功しました。

 写真右下に私が蹴って飛んだバットが写っています

 最後に、私の司会による福引きが行われ、笑顔、笑顔の新春のつどいとなりました。

 宇部市の共産党は元気だということを実感する一日となりました。

 来賓の皆さんを始め、ご参加いただいた皆様に心から感謝申し上げます。

山口昔ばなし大学第5回講義に参加

 妻と一緒に、山口昔ばなし大学第5回講義の一日目を受講しました。

 第1時限は、「話型と分類」でした。

 日本で、昔話の分類を初めに行ったのは、柳田国男。

 戦後になって、関敬吾先生が3分類法による分類を行ったと小澤先生。

 関先生は、自著の中で、18分類に昔話を分ける見解を示されていたことも紹介されました。

 世界的には、ATU分類という方法が主流になっているということでした。

 第2時限は、「グリム童話の成立と制作過程の検討」という講義でした。

 グリム兄弟は、ドイツでは、童話作家としてと同時にドイツ語辞書を編纂した人物として有名であると小澤先生は話されました。

 グリム兄弟が手掛けた辞書は、123年後の1961年に完成したということです。

 現在、その辞書の修正作業が行われているという話でした。

 グリム兄弟に昔話を伝えた「マリー」という人物が、ドイツの農民出身だと言われ、ナチス党支配の時代に、「グリム童話」に脚光が当ったそうです。

 しかし、戦後になって「マリー」は、フランス系の人物であることが明らかになり、ドイツでは大いなる議論を生んだそうです。

 小澤先生は、「昔話は移動してあたり前のもの。マリーがどのような人物であっても、グリム童話の価値に変わりはない」と話されました。

 更に、グリム童話の中には、口承されたものの他に、本や雑誌から引用されたものが含まれているそうです。

 小澤先生は、「だから『グリム童話』と呼んでいる。どの話もいい昔話のスタイルに仕上げられている」と語りました。

 第3時限は、3人の方が昔話の語りをされました。

 参加者の中の保育関係の方が「最近の子どもの初語は『モン」や『マン』になっている」という話をされました。

 昔は、「マンマ」とか「ブーブ」などだったそうです。

 モンは、どらえモンやポケモンの「モン」だろうか。マンは、ウルトラマンやあんぱんマンの「マン」だろうか。とにかくメディアの影響を子どもたちも親も強く受けているのではないかと話されました。

 子どもたちの周りの者が自分の言葉で子どもたちに語る重要性をその方は話されました。

 その意味でも昔話の継承は必要なのでしょうね。

 今日もいろいろなことを学んだ昔ばなし大学でした。

 明日も講義はありますが、「新春のつどい」に参加するため、今月下旬に補講を受けることにしています。

 明日は、妻だけの参加となります。

 

 

「宇部ちびっこフットサル大会」にエントリー

 今月の23日に、宇部市のココランド・フットサルパークで、「宇部ちびっこフットサル大会」が行われます。

 三男がメンバーを集め、私が責任者となり、西宇部小学校の5・6年生でチームを結成し大会に出場することにし、先程、申し込みを行いました。

 ココランド・フットサルパークは、三男が通うサンフレッチェ広島のサッカー教室が行われているところです。

 私は、高校時代はサッカー部でした。昔を思い出して、選手である子どもたちと楽しみたいと思います。