21日、美祢市秋芳町広谷の中島家に残されている木喰が書いた書軸を見学しました。
木喰が広谷の中島家に送った書軸
昭和56年7月に秋芳町有形文化財に指定されています。秋芳町史には、「『南無阿弥陀仏』の六文字をくずしたものと思われる図柄を地とし、その上に五万五千仏・仏師伝道・六万六千仏・八万八千仏・突風火水地遍照金剛・三界万霊無縁などの語句や梵字を配し、つぎの道歌が全体にち密に書かれてある。
なむあみみだみなすくわるるうをさかな
なまぐさいともおもハざりけり
むかしよりむりよくどふのしゃばにきて
むなしくなるをさとらざりけり
阿字をみてあじにみだるるわが心
あじが心か心があじか
みらひまでとどかぬとてもわが心
心にとへばなむあみだ仏
だま須のもだましだまされよくどふも
ただひのひぬとおもはざりけり
仏法もねこもしゃくしもなむあみだ
仏法僧のひかりなりけり
『寛政九巳年七月廿三日コレヲカク」とあり、「日本廻刻八宗一見、日州児湯郡府中五智山国分寺インキョ 中興開山天一自在法門 木食五行菩薩八十才花押』の自署がある。」とあります。
南無阿弥陀仏の「南」の字の中に和歌などがある
「山口県下の木喰仏」には、「この署名の中で五智山とあるのは、上人が九州を遍歴中に滞在し、住職をつとめた日向の国分寺で、のちこの寺を焼き、再建して、九州をあとにしている。」とあります。
「防長の微笑仏」には、「この幅は広谷に着いてわりと早く、書かれたことがわかる。木喰は中島某の倉を仕事場にして仏像を彫ったと伝えられるが、おそらくこの幅を所有する中島家の祖先が、木喰の御宿帳にみえる佐兵衛、中島佐兵衛であったと思われる。」とあります。
お会いした中島家の末裔の方は「中島家は、江戸時代初期から続く大きな農家だった。過去帳が残っているが、木喰の過去帳にある佐兵衛が中島家のものだったかどうかは定かではない。」「現在の稲荷神社の付近に花屋敷という建物があり、そこで木喰が彫刻をしていたという言い伝えは残っている。現在、木喰仏が安置されている毘沙門堂はその後出来たものだ。」と話されていました。
いずれにしても、木喰が広谷に滞在する上で中島家が深く援助したことは確かのようです。そのお礼として木喰が中島家に書軸を送ったことが推察されます。
実際に書軸を見ると木喰の文字のち密さに圧倒されます。
木喰の花押などははっきり読み取れます。
写真から朱印は読めないが、花押などは読める
また、3か所、それぞれ違う烙印があることが分かります。
200年を超える時を経てた木喰の文字は、仏像と同様に訴えかけるものがあります。
書幅を見せていただいた中島家末裔の方に感謝申し上げます。
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