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みすゞの「大漁」の詩は、戦争の本質を鋭く描いていますね

 11月25日・26日に「第68回日本母親大会IN山口」が行われます。
 26日の分科会の特別企画「金子みすゞが伝えたかったこと」の中で、少しお話しできる機会を与えられ、先日、「金子みすゞのこころ」という本を読みました。
 この中で、天台宗の僧侶である荒了寛さんの「雑華厳飾ーみすゞぼさつの宇宙ー」という文章に共感しました。とくに、みすゞの「大漁」という詩への部分は秀逸でした。
 荒さんは、みすゞの「大漁」の詩を引用した後でこう書いています。
 「私はこの詩を読んだ時、もう六十年も前、田舎の町寺で小僧をしていた頃のある情景が昨日のようにうかんできました。ラジオでは連日『大本営発表!』と甲高い声で『〇〇市陥落』『〇〇島占領』『○○海戦で敵艦〇艘を撃沈なり』と発表していた頃、私は和尚のおともをして『名誉の戦死』をした村の出征兵たちの弔いに出かけていました。ある村では二人、ある村では五人というふうに合同の『村葬』が毎月のように行われていました。たいていは村の小学校でした。正面の壇には、白い布で包んだ骨箱が並び、その前に若い未亡人や幼い子どもが涙も見せず黙って座っていました。私はまだ十二、三歳で、戦果とこの悲しみの場を結びつけて考える能力もなく、私はただ無表情で和尚のあとについてお経を読んでいるだけでした。あれから六十年あまりたって、すっかり忘れていたあの『村葬』の情景がみすゞさんの詩によってはっきりと『戦争とは何か』という問いかけをともなって私の脳裏によみがえってきたものでした。あの戦争で、みすゞさんの詩の如く何万、何十万もの弔いが行われました。戦場となった国の人たちもまた、何万、何十万もの弔いをしたことでしょう。みすゞさんが、この詩をつくったのは、たぶん二十代のはじめ。その頃の日本の情勢はどんなだったか。大正から昭和にうつった頃、当時はまだ『戦争を起こそう』とか『外国を侵略しよう』という話は、一般の国民の間では聞くこともなかったでしょうが、菩薩が『一々の塵中に各々仏刹微塵数の世界の成壊を見る』如く、澄んだ詩人の目には、やがて戦争にいたるこの世界の矛盾や娑婆世界の現実というものが見えていたのかも知れません。詩人とは、みなそういう目を持っているのかもしれませんが、特にみすゞさんは、この世間が明るければ明るいほど、その陰の部分に目を向け、慈しみ、悲しみながら詩をつくり続けていたように思われます。」
 ウクライナ戦争で、ウクライナの国民の多くの命が奪われています。ウクライナでは、連日、弔いが続いていることでしょう。
 世界は、今、その陰の部分に目を向け、悲しまなければならないと思います。
 荒さんの弔いに立ち会った実体験に、説得力を感じます。
 みすゞの「大漁」の詩は、戦争の本質を鋭く描き出した秀作だと改めて荒さんの文章で感じ入りました。
 この夏、みすゞをしっかり学びたいと思います。
 皆さんのみすゞへの想いをお聞かせください。

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