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100分de名著「戦争は女の顔をしていない」

 NHKEテレ「100分de名著」でアレクシエーヴィチ著「戦争は女の顔をしていない」が取り上げられました。
 「戦争は女の顔をしていない」は、第二次世界大戦中、ソ連軍に従軍した女性たちの姿を、500人を超える証言者の声によって描き出した作品です。
 私は、アレクシエーヴィチの事を鎌田實さんの本で知り、コミック版「戦争は女の顔をしていない」も読み、今回の講座を楽しみに、第三回まで視聴しました。
 私の心に突き刺さったのは、第二回放送分でテキストの最後に紹介されているパルチザンの母親のエピソードを語るワレンチーナ(連絡係)の次の証言です。
 「気の狂っている女性に出くわしたことがあります。足が立たず、這っている。自分はもう死んでいると思いこんで。身体から血が流れているのは感じていながら、その世でのことだと思っている。(中略)あの女の人は5人の子供と一緒に銃殺に連れて行かれたことを語ってくれました。納屋に連れて行かれる途中で子供たちは少しずつ殺されたのです。奴らは銃を発射し、しかも楽しんでいた・・・最後に乳飲み子の男の子が残って、ファシストは『空中に放り上げろ、そしたらしとめてやるから』と身ぶりでうながした。女の人は赤ちゃんを自分の手で地面に投げつけて殺した・・・自分の子供を・・・(中略)これは私が話しているんじゃありません、私の悲しみが語っているんです。」
 この講座の解説者であるロシア文学研究者の沼野恭子さんはこう書いています。
 「敵に殺されるぐらいなら、と自分の手で殺めるところまで追い詰められていた母親の姿は、ことのほか痛ましいものです。パルチザンの言葉は、正規軍に入隊して戦った女性とは一種異なる壮絶さを持っています。」
 何度も視聴した映画「ドキュメンタリー 沖縄戦」の中で、逃げ込んだガマの中で、母親たちが自分の子どもを殺したという証言が出てきます。
 戦争は、命を生み出す母親に自らが生んだ子どもを殺させる悲劇を生むものだと痛感します。
 沼野恭子さんは、テキストでこの作品についてこう書いています。
 「『戦争は女の顔をしていない』は、『小さな人間』という『個』の声が響き合う、交響曲のような作品であり、『男の言葉』で語られてきた戦争を『女性の語り』によって解体した作品でもありました。(中略)女性の語りは、非理論的だとか、非合理的だとかいった言葉で不当におとしめられ、ステレオタイプ的に『生活密着型の単なるおしゃべり』『男性の言葉に比べて下に位置する』とみなされてきた側面があります。しかし、アレクシエーヴィチはその女性の語りに光を当て、価値を見出し、『大文字の歴史』が取りこぼしてきたものをすくいあげています。」
 パルチザンの母親のエピソードは、まさに「大文字の歴史」が取りこぼしてきたのをすくいあげ、戦争の本質を見事に抉り出していると思います。
 これからもアレクシエーヴィチさんから大いに学んでいきたいと思います。

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