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「津久井やまゆり園」事件から5年、赤木先生と考える

 障害者施設「津久井やまゆり園」(神奈川県相模原市)で入所者19人が殺害され、職員を含む26人が重軽傷を負った事件から26日で5年経過します。
 私は、大学で福祉を学び、ゼミでは、障害者福祉を専攻した者として、「障害者は不幸をつくることしかできない」と残虐な犯行を正当化した元施設職員の許しがたい主張を忘れることが出来ません。
 この5年、「津久井やまゆり園」に関連した本や記事は気を付けて読むようにしてきました。
 先日、山口県障がい児の教育を進める会総会・学習会に参加し、発達心理学が専門の赤木和重神戸大学准教授のお話をお聞きしました。
 会場で販売されていた赤木和重著「子育てのノロイをほぐしましょう」を連休中読みました。
 この本は「WEB日本評論」に赤木さんが連載された文章を一冊にしたものです。
 この中に、「津久井やまゆり園」の事件のことが取り上げられています。
 赤木さんは、この章で、雨宮処凛編「この国の不寛容の果てにー相模原事件と私たちの時代」を取り上げ、この中に出てくる北海道にある統合失調症の人たちが働き暮らす「べてるの家」の向谷地生良さんの文章を引用しています。
 向谷地さんは、相模原事件の被告について次のように語っています。
 「被告が話していることは、ほとんどがパーツのように、すでに誰かが言っていることのつなぎあわせだと思うんですね。障害者が無用な存在だとか、そういうロジックはすべて彼のオリジナルじゃなくて、すでに過去から現在まで流布している言説が彼の中にどんどん蓄積されている。」
 この言葉を引用した後で赤木さんは、被告についてこう書いています。
 「彼自身が、しゃべれていないのです。だからこそ、彼は、『しゃべれない障害者は殺す』と『しゃべれない』ことに異常なまでにこだわっていたように思います。『自分は寂しかった』と彼が一言つぶやけば、こんな凄惨でつらい事件は起こらなかったのかなぁ、と思います。」
 赤木さんは、被告の発想は「『できるのがよい』というノロイが純化したものといえます。『話すことができるのがよい』というのは、逆にいえば『話せないのはダメ』ということです。そして、その『ダメ』を究極まで突き詰めれば、『生きていてもしょうがない』という発想につながります。もちろん、加害者の発想は極めて特殊です。しかし、同時に、私たちの心のなかにある『できるのがよい』という常識ともいえる価値観と地続きであることも事実です。そういう意味で、私は、彼にゾッとしただけでなく、自分や自分の生きる社会にゾッとしたのかもしれません。『できるのがよい』とは違うモノサシをもって、子どもを見つめられるかどうかが問われています。しかし、この価値観は、空気のように当たり前に漂っていて、そのノロイをほぐすのは簡単ではありません。『できるーできない』以外のモノサシや『できるーできない』の間にある子どもの気持ちを丁寧に見つめるモノサシをもてるかが、厳しく突きつけられています。」
 相模原事件を通して、私たちの生きる社会が「できるのがよい」の価値観にどっぷり漬かっていることを伝えていると語る赤木さんの文章に納得しました。
 「生産性」で人間の価値を決める風潮は厚く私たちの生きる社会にまん延しています。
 そのノロイをほぐそうとする赤木さんの理論をこれからも学んでいこうと思います。

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