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森鴎外「最後の一句」

 NHKラジオの聞き逃しサービスで、「朗読」森鴎外「最後の一句」を聴きました。
 あらすじをウィキペディアから引用します。
 「元文3年(1788年)大阪の船乗り業桂屋の主人太郎兵衛は、知人の不正を被る形で死罪となった。悲嘆にくれる家族の中で、長女のいちは父の無罪を信じ、単身、大阪西町奉行佐々又四郎に助命の願書を出し、父の代わりに自身と兄弟たちを死罪にするよう申し立てる。少女の大胆な行為に背後関係を疑った奉行は、大阪城代に相談、女房と子供たちを白洲に呼び寄せ、責め道具を並べて白状させようとする。白洲で佐々は一人一人に事情を聴くが、いちだけは祖母の話から事情を聞き父の無罪を確信したこと、自身を殺して父を助けてほしいことを理路整然と答える。なおも、『お前の申立てに嘘はあるまいな』と佐々が拷問をほのめかして尋ねても、いちは『間違いございません』と毅然と答え、なおも、お前の願いを聞いて父を許せば、お前たちは殺される。父の顔を見られなくなるがよいか。との問いに、いちは冷静に『よろしゅうございます』そして『お上の事には間違はございますまいから』と付け加えた。」
 表題の「最後の一句」とは太郎兵衛の長女いちの「お上の事には間違はございますまいから」に由来します。
 鴎外は、いちの最後の一句をこう解説しています。(新潮文庫版)
 「元文頃の徳川家の役人は、固より『マルチリウム』という洋語も知らず、又当時の辞書には献身と云う訳語もなかったので、人間の精神に、老若男女の別なく、罪人太郎兵衛の娘に現れたような作用があったことを、知らなかったのは無理もない。しかし献身の中に潜む反抗の鉾は、いちと語を交えた佐佐のみではなく、書院にいた役人一同の胸をも刺した。」
 「最後の一句」が含まれた森鴎外の作品を収めた新潮文庫「山椒大夫・高瀬舟」でドイツ文学者・高橋義孝さんは、いちの「最後の一句」を次のように解説しています。
 「この反抗は当時の大阪西町奉行所の書院に居並ぶ役人たちへの反抗のみを意味するのではなく、またひとりいちの反抗を意味してはいない。鴎外森林太郎の上に君臨するあらゆる圧力的なもの、権威的なもの、陸軍その他の官僚機構に対する鴎外自身の密な反抗であったと解釈されないこともない。鴎外はひょっとすると日露役後の論功行賞に対して、陸軍の自己に対する処遇に対して不満を懐いていたのではあるまいか。私はこの疑いを払拭することが出来ない。」
 ウィキペディアは「この作が執筆されたのは1913年9月17日であるが、その前日、鴎外は新聞記者に陸軍の引退を表明している。」とあります。
 鴎外は、陸軍引退を決意し、「最後の一句」に、官僚機構への反抗の気持ちを込めたのでしょう。
 今日も、海堂尊さんに登場していただきます。
 森友疑惑について、海堂さんは、しんぶん赤旗のインタビューでこう語っています。
 「公文書のねつ造は、もはや疑惑ではなく事実です。これに対する安倍政権の無責任な対応への怒りはずっと持っていました。さらに検察は関係者を不起訴にして疑惑にフタをした。公文書ねつ造と検察の堕落。この2点セットで、日本の民主主義国としての矜持を失わせた、とんでもないことです。」
 森鴎外に「最後の一句」を書かせた日露戦争後の政治状況は、今日と類似しているのではないでしょうか。
 海堂尊さんは、安倍政権の公文書ねつ造による民主主義の崩壊について「きっとナチスはこういうふうに権力を拡大したのだと思います。」と指摘しています。
 「取り返しのつかなくなる前に、これは危険だと、騒げるだけ騒いでおきたい。」との思いで、海堂さんは、「コロナ黙示録」を書いたとしんぶん赤旗のインタビューで述べています。
 官僚機構の頂点にいた森鴎外は「最後の一句」を並々ならぬ気持ちで書いたのだろうと思います。
 日本の民主主義国としての矜持を失わせてはならない。
 私は、森鴎外の「最後の一句」を読んで、こう感じました。
 森鴎外はあまり読んできませんでしたが、NHKラジオの「朗読」の聞き逃しを聴きながら、鴎外から学んでいきたいと思います。
 今、鴎外の「山椒大夫」を聞いています。
 皆さんの、森鴎外への思いをお聞かせ下さい。

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