議員日誌

満蒙開拓団

 中脇初枝著「世界の果てのこどもたち」を読んでいます。

 珠子、茉莉、美子の三人の少女が戦時中の満州で出会います。

 彼女らが、戦中・戦後どう生きるのかを描いた作品が「世界の果てのこどもたち」です。

 私は、以前、日本中国友好協会の役員を務めていました。2009年に大連や瀋陽など旧満州の各地を訪ねました。

 旧満州を訪ねて以来、「旧満州」での歴史に興味を抱き続けてきました。

 先日、ポール・邦昭・マルヤマ著「満州 奇跡の脱出」が原作となったNHKのドラマが放映されましたが、とても興味深くドラマを見ました。

 26日の毎日新聞には、「満蒙開拓団」の歴史に関わる記事が次のように書かれていました。

 「1932年から45年、旧満州(現中国東北部)に国策で推計約27万人が送りこまれた「満蒙開拓団」について、戦後に都道府県が実施した全国実態調査の資料が13道府県で確認できず、1県は廃棄されたことが毎日新聞の全国アンケートで判明した。」

 「満蒙開拓団」実態調査の資料が確認できないとしている13道府県の一つに山口県が含まれています。

 毎日新聞の記事によると、山口県からは、満蒙開拓団に3763人、青少年義勇軍に2745人が、合計6508人が満州に渡っています。資料が確認できなかったとする11自治体の中で、満州に渡った人数が一番多いのが山口県で、全国で17番目に満州へ渡った人が多い県です。

 山口県は、再度、満蒙開拓団の資料を確認し、永久保存すべきです。

 毎日新聞の記事は、1940年に山形県置賜地域から三江省(現黒竜江省)に入植した「板子房開拓団」の集団自決に至る経過について次のように書いています。

 「45年8月9日に旧ソ連軍が越境してきたことから、板子房開拓団は13日に避難を始めた。途中で4組に分散し、佐藤さん一家を含む組は近隣の別の開拓団と一緒に学校の校舎に立てこもった。だが、現地の盗賊に包囲され、団の幹部らは『万一の場合は総員玉砕の覚悟を定ること』『不能の婦女子らは他の男子代て処置すること』を申し合わせた。防戦するも18日午後8時に弾丸が尽き、午後10時ごろ、校舎に火を放って集団自決した。資料は生き延びた団員3人の証言で作られており、『火の玉となり遂に焼け落ち全員自刃玉砕する』とあった。分散した他の組も一斉に身投げして命を絶った。」

 当時8歳だった佐藤安男さんは、生き残った一人です。

 「当時8歳だった佐藤さんは『死ぬのは嫌だとの一念で火の海から逃げた』。三十数人の生存者と逃げ、母と弟、妹が一緒だった。隠れていたトウキビ畑で幼い子の泣き声が盗賊を寄せ付けないようにと、女性たちが泣きながら幼子の首を絞めた。妹は1歳になったばかりだった。その後、病弱だった母も力尽き、弟と二人になった佐藤さんは中国人に助けられ、その家族で育った。日中国交回復後の80年、中国残留孤児として帰国し、日本で既に抹消されていた戸籍を回復した。佐藤さんは『帰国できない開拓団の人が中国に何人いるかさえ正確に分かっていないのではないか。国と県が責任を持って記録を整理すべきだ』と話す。」

 公文書管理に詳しい長野県短大の瀬畑源准教授は「歴史的に貴重な公文書を確実に残す仕組みを作ることが自治体には求められている」と毎日新聞の記事の中で述べています。

 当時の都道府県機関が旗振りをして、多くの県民を「満蒙開拓団」や「青少年義勇軍」に入団・入軍させた歴史があります。

 この歴史に照らしても、都道府県は、当時の文書を公文書として永久保存すべきです。

 瀬畑先生が指摘するように公文書を確実に残す仕組みを作ることが自治体に強く求められていると思います。

 満蒙開拓団などの資料が山口県を含め、14自治体で不明・廃棄されていることが明らかになりました。

 皆さんのご家族の方々が満蒙開拓団や義勇軍におられた方もいらしゃると思います。

 この実態をどうお考えですか。ご意見をお聞かせ下さい。

 

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