18日に、「人権フェスティバルIN宇部」が開催され、毛利博物館顧問の小山良昌さんのお話をお聞きしました。
演題は、「松下村塾の俊才 吉田稔麿 ~維新団・一新組の生みの親~」でした。
吉田稔麿は、松下村塾の近く、萩市松本村に生まれます。父は武士ではありましたが、中間という身分の低い階層でした。
16歳の時、松下村塾に入り、「人間に貴賤なし」を学びます。
稔麿が23歳の時に、藩の指導者たちに、「屠勇取立之建議」という提案を行います。
この提案は、了承され、稔麿は、「屠勇取立方」に任命されます。
稔麿は、被差別民を藩兵に登用する「屠勇取立令」を諸郡に回達します。
その結果、玖珂郡出身者により「維新団」が、三田尻出身者により「一新団」などが誕生します。
私の本棚に、周東町教育委員会が編集した「維新の扉を開いた 諸隊の雄 遊撃軍」があります。
この本の中に、「遊撃軍・維新団の活躍」という章があります。
この章の筆者は村崎修二さんです。
維新団は、江戸幕府と長州藩が戦った時に、広島方面で戦ったのが、遊撃軍。
遊撃軍の中心は、遊撃隊でしたが、遊撃隊と行動を共にしたのが維新団でした。
この章の「吉田稔麿の提案」という節があります。
稔麿の「屠勇取立之建議」について、村崎さんは次のように書いています。
「『屠勇』というのは簡単にいうと、江戸時代に士農工商の身分階層のしたに位置付けられていた賤民のことです。恐らく吉田松陰の影響と稔麿その人の人格から、差別的な考え方や、感情を取り除くかのように、あえて賤民階層の人々を『屠勇』という新語を作って呼んだものと考えられます。」
吉田稔麿は、この建議を提案した翌年に、「池田屋事件」で新選組によって殺されます。
村崎さんは、この節の終わりにこう書いています。
「維新団の名前とともに『屠勇取立策』という革命的な提案を行った吉田稔麿についても、歴史的に忘れてはならない人物だと思います。」
身分差別が制度化されていた江戸時代の末期に、身分制度を乗り越えて、身分が低かった人々を登用する提案を行った吉田稔麿のことを更に知っていきたいと思いました。
吉田稔麿について、皆さんの想いをお教え下さい。
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